CHAPTER 1 : LIVING TOGETHER 1

「まったく……あいつはまた背中に……」

ある日の早朝――洗面台の鏡越しに首を捻ると、肩の後ろ側についた3本の引っかき傷を溜息混
じりに見入る1人の男がいた。
眉間に皺を寄せ、鋭く光る漆黒の眼はまるで鏡越しに映る自分の背中を睨みつけているかのよう
だが、本人にすればむしろ怒りよりも困惑と諦めの気持ちだった。

――今は冬だから、普段服を着ている分にはいいが、アルバイトや剣道で着替える時にこういっ
たものを人目に晒すのは少々……いや大分恥ずかしいというのに。

だが、そんな困惑もお構いなしの男に、土田はしょっちゅうこんな痕を付けられていた。一度は打
ち身と称して引っかき傷の上に湿布を貼ってみたけれど、まさかずっと貼っておく訳にもいかな
い。そうでなくとも油断すると傷ばかりか怪しげな痣もいつの間にか付けられているから、気をつ
けてはいるのだが、そうそう抜かりなく神経をそちらにばかり向けても居られない。
何しろその現場の状況が状況なだけに。

『おい、未だ洗顔して……る……』
バスルームのドアを開けて顔を覗かせた引っかき傷の犯人と、鏡越しに目が合う。
『……』
「金子?」
男は鏡越しに自分の顔と背中の辺りを見た後、少し目を泳がせてそのまま無言でドアを閉じてし
まった。

――何だ???

土田はタオルを片手にバスルームから出て、その男の背中を見つける。
「どうした。洗面所を使いたいのだろう?俺は終わった」
『!ああ、そうだな』
声をかけると、その背中がちょっと揺れた。そうして、そのまま視線を避けるようにあたふたとバ
スルームに入っていってしまった。

――???分からない男だ……。

土田は首をかしげながらも、とりあえずそのことはさておき服を着替えるべく、寝室に行った。



ところで、ここはどこかというと――金子のマンションだ。
同棲か?!と問われれば、そこは違うっと言いたい所だが、実際には他人からつっこみを入れら
れれば完全には否定し切れないだろう。
……いや、自分はあくまで同居だと思ってはいるのだが。

金子の突飛な提案に押し切られる形で土田がここに住み始めてから、もう1週間が経っていた。





『――土田、いい案が浮かんだ』
「何だ」
『お前、ここに住めよ』
「……は?」
『確実に一石二鳥だ。いや、一石三鳥かもしれないな』
「……は?」
『お互いにとってプラスばっかりだぜ?』
「……」
『何なんだ、その怪訝そうな顔は。せめて理由を聞いてからしろよ』
「……ならば理由を聞こう」
『ここに住めば、お前は家賃も光熱費もタダだ。これは親父の持ち物だから、俺も払っていないし
な。だが、お前は恐らくそれでは気が引けるだろう。だから代わりに料理と掃除をしてくれ。今ま
で俺は食事と洗濯は自分でしていたけれど、掃除は週に2回ハウスキーパーを雇ってたから、お前
がしてくれるのなら俺の支払いはその分浮く。お前は家賃代が浮く。食材は恐らく俺の方が好み
に煩いだろうから俺が多く出す。――どうだ、お前も俺も両方助かる妙案だとは思わないか?』
「……金銭的にはそうなのだろうが……」
『反論したいのなら、この案のマイナス面を上げたらどうなんだ?』
「む……マイナス面……というかだな……」
『ここに住んで困ることなどあるか?お前のアパートよりもここの方が大学に近いのだから、定期
代までセーブ出来るんだぜ?それとも、お前は自分のアパートにそんなに愛着があるのか?家
賃がタダだとか交通費が安くなるなんてものなど何の魅力も感じない程に?それとも、その程度
では生活費はちっとも助からないとでもいうのか?』
「……いや、そうではなく……」
『それとも女を連れ込むのに不都合だから嫌なのか?』
「そうではない」
『じゃあ何が問題なんだ?俺とお前が最近連れ立っていることはもう大学の知人連中だって知っ
ているんだから、今更不信にも思われないだろう』
「いや……まあそうだろうが、あいつらは俺達が友人になったという程度の認識だろう……」
『何だ、あいつらに身体の関係でも公表したいのか?土田』
「そういう意味ではないっ」
『欧米じゃ他人同士のルームシェアは普通の事だぞ?』
「ここは日本だ」
『ならば、試しに1ヶ月やろう。不都合が出たらその時に考えればいい』
「いや、だからだな……」
『試しもしないで断るのか?』
「……」





言葉で金子に勝てる訳がない。大体が思い返しても殆ど反論出来ていないし。
特に今回は心の葛藤はともかく、実際経済的には大いに助かるだけに尚更だ――

そもそもどうしてこんなことになったかと言えば、すでに1ヶ月以上も前になる「酔っ払っていつ
の間にかヤッてしまいました」事件以降、何だかんだと理由をつけては誘ってくる金子の家に自
分も毎回来てしまっていたことから、話は始まる。
何しろ金子が毎回用意する理由付けは巧妙というか、巧みに自分の好い所、もしくは痛い所を突
いてくる。いい酒があると言えばそれは大いに誘惑されるし、苦手な外国語の課題について教え
ると言われれば、それは好みの問題というより行かなければいけないという気になるものだ。
そんな訳で、何だかんだと世話になっていたものだから、たまには自分も何かしなければ、と思っ
て夕食を作ってみたところ、金子にえらく好評であった。そうしてそれ以降、「酒とつまみと食材を
用意する人→金子」「夕食を作って後片付けをする人→土田」というように、いつの間にか役割分
担が出来てしまった。それは、ある種の生活感さえ醸し出していた。
この辺りの流れから、金子は恐らく今回の案を思いついたのだろう。
自分が金子に出来ることといえば物質的には無理なのだから労働力しかない、と思ったのは間
違いではなかったはずだ。好意には当然、好意で応えねばこちらだって気が済まない。
だが、その後のこの展開はさすがに予想できなかった。

そんな訳で今の所、困惑が7割方であって――残りの3割はと言うと……
生活は、まあ快適だ。いや、それどころかかなり恵まれているだろう。金子の言う通り、ここは以前
の自分のアパートよりも大学、剣道場ともに近い。しかも家賃を払うことは案の定きっぱりと拒否
された為、その分実家にかかる負担を減らすことが出来た。
おまけにマンションには生活に必要なものはほぼ完璧に近いほど揃っていたから、自分は殆ど身
の回りの物しか持ってきていないし、部屋の設備が整っているから、風呂・トイレ共同にエアコン無
しというこれまでの生活からは考えられない位贅沢に暮らしている。
それだけでも金子には感謝しきれないと言っていい。
自分にとって家事をするのはさほど苦ではないだけに、確かに生活の物理的な面はプラスばかり
だ。恐らくこれ以上の大学生活など望めないだろう。

だが――どうも俺は流されてはいないだろうか?
確かにあの男のことは嫌いではないし、身体を重ねるのも、まあ何となくそれはそれでいいかと
思ってもいる。いや、それでいいか、というの言葉も不適切な気もするが。
それはともかく、だからといって一緒に住むのはどうなんだ?
そもそも、俺達はどういう関係だと言えるのだろう?付き合っているのか?
どうもピンと来ない。
といって、友達か?――いや、友達としての一線は完全に越えている。
この状況で同棲のような生活に入るのはどうなんだ?
――まあ、今となってはどうなんだもこうなんだもないのだけれど。
それにしても、金子というのは不思議な存在な男だ。
一緒に住んでみて、初めて知った部分――例えば意外と生真面目であったり、とても静かな時が
あったり――についてはともかく、自分に対する行動がどうも突拍子もない気がする。
随分と大胆かと思えば、急に変な所で照れていたりして……

――そういえばさっきの金子の様子はなんだったのだろう?金子を困惑させるようなことをした
覚えはないのだが……。





『まったく土田の奴……なんて鈍いんだ……』

金子はバスルームのドアをきっちり閉めると、洗面台の前で1人でぶつぶつと呟いた。

金子が先程バスルームのドアを開けて中を覗いた時、土田は洗顔を終え、さっぱりとした顔で洗面
台の前に立っていた。鍛え上げた硬質な上半身を惜しげもなくさらして、ドアのこちら側を向き、首
だけ捻って鏡の方を向いていた。
鏡越しに漆黒の鋭い眼と目線がかち合って、ハッと気づいてみると鏡に映し出された土田の肩の
後ろ側には昨晩自分が煽りに煽られて付けてしまった引っかき傷。しかも上半身裸のあの男を見
たら、昨日の夜のことが生々しく脳裏に蘇ってきたものだから、急に恥ずかしくて見ていられなく
なった。

――大体早朝からあんな、恥ずかしい場面を思い出させるような格好をするんじゃない!平然と、
”ああ、悪いな、土田。お前が激しいからまた付けちゃったな”なんてさらりと言ってのける為には
多少の前準備が必要なんだ!不意打ちは止めろ!服をちゃんと着てろ!大体、ここは元は俺の
家だぞ!

頭の中では色々と反論できるが、それがどうも自分本位な事には多少の自覚があるので、土田に
は黙っていた。

――まったく……一緒に住むと案外困る……。

金子は薄くため息をついた。
いや、別に土田が嫌だという訳ではなく……むしろ普段は楽しい。だがその楽しい、ということ自
体が、時々妙に気恥ずかしい。そして、その気恥ずかしいという自分の気持ち自体が何だか女々
しい気がして、嫌になるのだ。
それに比べてあの男と来たら、厭味な位にいつも落ち着き払った涼しい顔をしている。確かに自
分の方が饒舌だから言い負かすことは出来るが、涼しい顔をしていても内心ではぐるぐる廻って
いる自分に比べて、あの男は見かけ同様中身も肝が据わっているからどうにも敵わない。

――それにしても、あいつ……よく承知したな……。
金子は洗顔ジェルを片手にふと考えた。

一緒に住むという提案は熟慮に熟慮を重ねた末――でも何でもなく、ふとした思いつきであった。
何しろとてもシラフで言い出せるような内容じゃない。目の前に居る男に、一緒に住もうと提案す
るのだから。これは、土田に対する言い訳はともかく、実際には単なる同居だとかルームシェアと
は話が違う。何しろ同性同士とは言え、やる事はやっているのだ。
何だかんだと言葉を飾った所で、同棲に限りなく近い形だということは否定できない。

催淫剤を盛ってあの男に強引に抱かせてから早1ヶ月……目に見える状況だけは随分と進んだ。
だが、目に見えない所は何も変わっていなかった。
最早自分の土田への拘りが単なる友情希望以上だったことは明らかな訳で、しかもそれは最近悪
化したのではないかとさえ思えるのだが、土田の気持ちがよく分からなくて、自分もその想いを
なかなか表に出せない。
いや、行動でいうとかなりイケイケ・押せ押せな女子高生並みに積極的に見えるのだろうが、肝
心の土田がそういうことにはてんで鈍そうだから、自分の行動は単に突飛で気まぐれなものにし
か映っていないような気がする。
”気まぐれで男に抱かれて、しかも一緒に住む訳がないだろう、この鈍感野郎!”とは思うが、反面
自分も土田の気持ちを確認するのが何か怖いような気がして、その鈍さに甘えてる部分もある。
一言、”お前が好きだ”と言えればそれが一番簡単なんだが……。

金子は1人で想像してかぁぁっと顔が赤くなった。いや、全身が熱くなった。

――そんな事いう位なら路上であいつに抱きついてキスした方がマシだ!

おかしいだろう、それ!という世間一般の声は金子の耳には届かない。
どうやら土田に対して恥ずかしい>世間一般に対して恥ずかしい、という図式が金子にはあるよ
うだ。
それはともかく。





「金子……そろそろ飯にしないと遅れる」

今度は逆に土田が金子の居るバスルームを覗く。

『あ、ああ。分かってる』
分かってると言いながら、洗顔ジェルを握ったまま未だ何もしていない金子だった……。





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