CHAPTER 1 : BITTER AND SWEET 1


シンとした空間の中、竹刀を振り上げる。
空の中に、見えざる相手を思い浮かべながら、また一歩進む。
だが、竹刀の先端は、同時に内なる敵にも向けられていた。

凍えそうな空気に頬や足の先を切られそうになりながら、土田はただ独り、無心に竹刀を振り下ろ
し続けていた。何十回も、何百回も――その一連の動作の繰り返しそのものが、己の内に潜む弱さ
や怠惰との戦いだ。だが、それは苦痛だけを生む訳ではない。ひたすらに打ち込む内に、唐突に
世界が無になるような、体の重さを感じなくなるような、そんな不思議な感覚と境地になっていく
のだ。

――281……282……283……

土田は、ただひたすら竹刀を振り下ろしていく。

吐く息が白い――だが、土田の意識は既に外界ではなく、己の内にのみ、向かっていた。





剣道場は、大学から歩いて15分位の所にある。大会でも上位入賞者をよく出す、全国的にも名高
い道場だ。土田が上京を決意したのも、父親の後押しもあったが、ひとえにこの道場に通いたい
がためだ。当然、土田が今の大学に受験したのもこの剣道場が近いという理由からだった。優秀
な大学ではあったが、土田自身には利便性以外に特に思い入れがあった訳ではない。

だが、今はあの大学を選んで良かったと思っている。望んでいた利便性の面だけでなく、都心部
にあって比較的緑が多く、広々として落ち着いた構内は勉強するには良い環境だ。それに、大学
の近くに少々懐かしい雰囲気を持つ、小さいが人情味のあるお店が少なからずあるところも気に
入っていた。

それに――金子にも出会った。
金子――というかそもそも同性――との同衾は全く予想もしなかったことで、当初はただひた
すら困惑していた。だが、今は金子との生活も、何か自然に受け止めてしまっている自分が居る。
深く問い詰めていけば、果たして自分達の関係とは何なのか、自分の金子に対する気持ちは何な
のか、はっきりとは定義し難い。だが、家に戻った時に金子が居るという状況が、何故か自分には
好ましい現実に見える。大学ではすましていることが多い金子が案外と家では表情豊かであった
りといった、大学で会っているだけでは分からなかったあの男の別の顔を見つけると、何故か胸
の辺りが温かくなるのだ……


己の意識が少々違う方向に行きかかっていることに気づいた土田が、構える竹刀を下ろそうとし
た時――突然、道場の引き戸が開いた。そちらに顔を向けると、何やら眩しい程に白い光の中に人
影が見える。それは、とても現実とは思えない情景で、土田は少々目を見開いた。

『さむっ……いくら運動しているからって、よくこんな冷蔵庫みたいな冷え切ったところに、そんな
薄着で居られるものだな』

光の中から現れた人影は、その神々しいばかりの情景に反してしょっぱなから遠慮がない。

「金子……なのか?」

あまりに意外な訪問客に、土田は少し呆然とした。


『ああ。土曜なのに珍しく早く目が覚めてな、家でぼーっとしていたんだが、何だか突然、大学の
傍の店で売っている肉まんが食べたくなった。知ってるか?大学の裏門のすぐ近くにある小さい、
おんぼろな店なんだけどな、そこの肉まんがやたら美味いんだ。それが無性に食べたくなってし
まってな……あ、ここは土足厳禁なのか?』

吐く息は白い靄のように漂い、何故か神々しい位の光を背後に、金子は道場に上がろうとして足
を止める。

「ああ」
『そうか……ブーツだから、面倒だな』

不満をもらしながらも、寒さ対策なのか、金子にしては少々ごついと思われるダーク・ブラウンの
ブーツを脱ぐと、それを入口にきちんと揃えて道場に上がり込んでくる。


『朝出て行ったきり、ずっとここで練習していたんじゃないか?』
「ああ」
『だと思った。お前は剣道に熱中すると、周りが見えなくなりそうだからな。外、雪だぞ。気づいて
たか?』
「雪……?いや、気づかなかった」

金子の背後に見えた神々しい白い光は雪だったのかと、今更ながらに気づく。


『それにもう昼だからな。すぐそこまで買いに来たついでに、お前にも肉まんを持ってきてやった。
こんな馬鹿みたいに寒い土曜の朝に、わざわざ道場まで来て練習するような酔狂な奴は、お前位
だろうと思っていたが……案の定だったな』
「そうか。すまん」

最初の頃は、金子の少々棘のある言い方に、自分は嫌われているのではないかと思った。他の同
級生達にはそんな態度は取っていないように見えたから、尚更だ。
だが、今はそんな言い方にもすっかり慣れてしまった。金子がそんな物言いをする時は、大抵自分
の厚意の照れ隠しや、自身の本音を素直に言えない時なのだと、今では想像がつく。

今も、昼食の差し入れという厚意が、金子には照れ臭いのかもしれない。


「お前もここで食べていくか……いや、寒いか……」
『何だ、せっかく買ってきてやったのに、俺だけ追い出すつもりなのか?これ位どうってことはな
い。それに、温かい緑茶も買ってきたしな』
「風邪ひくぞ」
『大丈夫だ」

そんなことを言って、月曜日になったら寒いだのだるいだのと言い出すんじゃないか――土田は
密かに訝しんだが、口には出さなかった。

土田のすぐ傍まで来た金子は、そんな土田の思いなどお構いなしに、手をひらひらさせて軽くあ
しらうと、床に座り、茶色い紙袋から、肉まんを4つと、缶の緑茶を2本出す。


『何だか、遠足みたいだな』

土田のすぐ正面に座ると、金子は肉まんの裏側についている紙を少し剥がしながら言った。どこと
なく楽しそうな顔をしている金子を見ると、まあいいか、と思えてくるから不思議だ。

――何時からだったのだろう?

土田は、ふと思った。
金子が、自分に対して素直に喜怒哀楽を見せるようになったのは、いつ頃からだったのだろう、と。

今でも、素直でない時は多々あるが、それでも、少なくとも楽しい時、嬉しい時の表情は、よく見せ
るようになった。

喜んでいる時――これは、時と場合によって大きく異なる。素直に出す時もあるが、全くすまして
いる時もあれば、まるで怒っているかのような時もあるが、これは大抵自分が何かした時で、金子
が素直に受け止めない時だ。だがいずれにしろ、顔にはっきりとは出さずとも、大体雰囲気で分か
ることが増えた。
では怒っている時はどうか――金子は、小さなことで少々棘のある言い方をしたり、文句をつけ
たりするが、それは言わばこの男の頭の回転の速さのなせる技だ。本気で怒っているところは、
見たことがない気がする。
ならば、哀しい時――これは、見たことがない。悲しむようなことがここ数ヶ月の間、特になかった
という可能性もある。
だが、金子は、そんな時こそ素直には言ってくれないのではないか――何故か、そう思えた。


『土田?どうした。ぼーっとして。疲れてるのか?』

ふと気がついたら、金子が自分の目の前で手を振っている。

「ああ、いや」
『無理はするなよ。お前は体が限界だと訴えていても、それが脳に到達するかどうか分からんか
らな』
「どういう意味だ」
『倒れるまで気づかないという意味だ。例えば高熱になっても、他人から指摘されるまで気づか
なそうだからな』
「……」

そこまで鈍くはない――とは思うが、といってきっぱりと否定できない辺り、どうしたものだろう。


『ああ、やはり美味いな……店構えは大昔のタバコ屋みたいなんだが、店の奥に駄菓子だとか、
石鹸や洗剤などを売っているんだ。基本的に、何年前に仕入れたんだ?と疑いたくなるような物
ばかり置いてあるんだが、この肉まんは別だ。店の裏手から白い煙が出ているから予想はしてい
たんだが、今日店主らしきじいさんに聞いたら、ほぼ毎日そこで作っているんだそうだ』
「確かに、美味いな」
『だろう?正門の方にあれば、もっと店も繁盛するだろうにと思うんだが、今ではあまり使われて
いない旧校舎の裏門ではな……まあ、老夫婦がやっている店だから、大勢客が来たところでそう
沢山の肉まんも作れないだろうが』


金子はコートを着たまま、床に座り、時折寒そうにぶるりと肩を震わせる。
肉まんを頬張り、時折お茶を飲み、そうして言葉を発する。

いつもとさして変わらない、どうということのない光景だ。状況と場所さえ揃えば、皆が皆、一様
にやる行動であり、しぐさでしかない。

だがそれが金子だと、何かが違う。

それは白い手のせいだろうか――そんな訳はない。色白の人間などいくらでもいる。
では、きれいに造作の整った、顔のせいだろうか――それも、色白の人間同様だ。
ならば、一体何がそうさせるのか。


『おい、土田?何だか今日はお前、おかしくないか?いつもに増してぼーっとしている。……まさ
か、本当に?』

金子は、少々顔をしかめてこちらを見ていたかと思ったら、急に手にしていたお茶の缶を床に置い
て腰を上げ、額に掌を当ててきた。

『……いや、熱ではないか……』
「……熱などない」
『じゃあ、何だ?』
「何がだ」
『ぼーっとして、しかもじろじろと人のことを見ている』
「……」

そうか、見つめてしまっていたのか――指摘されて、初めて気がついた。

『何か言いたいことがあるんじゃないか?今の生活に不満でもあるのか?』
「いや、そういう訳ではない」
『――の割には、眉間に皺を寄せて、俺を睨むようだったぞ』
「……」

おかしい。そんなつもりは全くないのに、何故そんな風な顔をしていたのだろう。

「何でもない」

別に言いたいことがある訳ではない。ただ、何故か金子の言動を観察してしまうだけだ。
だが、確かにそれは何故なのだろうか。そういえば、今日は朝から、ふと気がつけば金子のことば
かり考えている。

うーむ……


『だから、言ってる傍からまた見てるじゃないかっ!一体何が言いたいんだ、土田?!いい加減、
はっきりと言いたいことを言ったらどうなんだ!』

いつの間にか金子が、顔を赤くして怒っていた。

はっきり言えと言われても、自分でも何故かと考えている最中なのだから、答えられるはずもな
い。分かっていれば、自分だって説明している。とは言え、今ですら怒っている金子を前に、分から
ないからといって黙っていては余計機嫌を悪くさせるだけだ。だから現状を説明する。

「今、その理由を考えているところだ」
『はあっ??』

呆気に取られた金子の顔。だが、考えている、という俺の答えを待つ気になったのだろうか。金子
はムッとしたままではあるが、黙り込んだ。見られているのが気になるのか、少々顔を背けている。

だが、それを見ている場合ではない。自分は理由を考えなければならない。
今朝方自分が起きた時には、金子は未だ寝ていた。だから、朝方に何かしらのきっかけがあった訳
ではないようだ。それならば、昨日だろうか。
金曜日は、昼から大学に行っていた。勿論、クラスはどれも金子と同じだ。だが、自分達は大学では
あまり話をしない。友達がそれぞれ違うし、元々ギリギリに来る金子と、早めに来てしまう自分では
席も離れていることが多い。それでも、授業の合間に時々ちょっかいを出してくることは以前と変
わりないが、何やら遠慮しているのか、それとも照れているのか、自分が他の誰かと話をしている
時は滅多に近寄ってこない。そんな気遣いは別にいらないのだが……

「……あ……」
『?理由を思い出したか?』


――あの時、たまには自分から話しかけてみよう、と思った。何か理由があった訳ではない。大体
が、大層なことでもないのだし。だが、金子は大学ではいつもと変わらぬ素振りを見せていたか
ら、自分も以前と変わらず、特に自分から金子に話しかけるようなことはしてこなかった。ただ、大
学の後自分は剣道の練習にそのまま行く予定だったから、一声位かけてもいいのではないかと
ふと思っただけの話であった。だが、講義が終わり教科書をカバンに入れて顔を上げたら、もう金
子の姿が見当たらない。廊下にもいなかった。何か急ぎの用でもあったのだろうと思い、諦めて
荷物を取りに教室に戻ると、帰りしな声が聞こえた。
それは、金子の声ではなく、同級生の声だった。

”そういえば、さっき女達が何か変なこと言ってたぞ”
”何を”
”クラスで一番女装の似合う男は誰かってさ”
”はあ?でもそれ……もしかして答えは金子?”
”当たり。まあ、妥当な線か”
”まあな。あいつが美形なのは認めるよ。といって、弱弱しい感じじゃないんだけどな”
”いや、何かあいつには不思議なオーラがあるよ”
”オーラ?何だよ、それ?”
”何かこう、近寄り難い感じ?愛想はいいんだけど、気安く肩を叩けないっていうか……”
”あー、分かる気がする。もう、男でも女でも関係ないっつうか、どうでもいいっていうか……”
”て、その発言はあぶねえだろ”
”な、何だよ。誤解はやめろよ”


あの時、土田はそこまで聞いて、教室に入った。

そのことを気にしているつもりはなかった。別に、話の内容はどうということはない。確かに、金子
の顔は造作が整っている。大学でも1,2を争う、所謂美形だ。だが、そうと分かっていても、実感と
して湧いていなかった。美形だからといって、それに対して自分は何の感慨も持っていなかった。
だから、何か客観的な事実を第三者から突きつけられたような気がした。元々金子は大学でも目
立つ存在ではあったが、それはつまり、金子に注目している者が多いということなのではないか
と。ただ、美形だ、とそこで話が終わる訳ではないのだと、今更ながら知ったような気がした。

だが、それがいつまでも自分の頭のどこかに残っている、という自覚はなかった――


「金子――」
『何だ』
「お前は、もてるのか」
『……その質問は何なんだ、一体』
「……」
『それはまあ、この俺がもてない理由はどこにも見つからないがな』
「そうか……」
『――て、そう素直に納得されてもな』
「いや、そうなのだろう」
『は……?』

恐らく、それがずっと、今日になっても引っかかっていたのだ。頭の、いや、心のどこかに。
そして、不思議に感じたのだ。では何故、そんな金子が自分の隣りにいるのだろうか、と。


「不思議なことだ」
『て、さっきから自分の中だけで結論出してないか?俺には一切説明はないのか?散々人の顔を
睨みつけておいて。俺にはお前の真意がさっぱり伝わってきていないんだが?』
「いや、睨んでいたのではない」
『じゃあ何を見ていたんだ』
「ああ――キレイだと思ってな」
『……は……?』
「いや、だから、お前はキレイだなと……」

突然、金子に肩をドンと強く押された。

『ふ、ふざけるなっ!何を言い出すのかと思えば、そんな言葉で誤魔化されるか!』
「??いや、誤魔化してなど――」

そう言い掛けたら、再び、今度は逆の肩を押される。

『馬鹿か!お前は、最低だ!』
「……」

最低――どうしてそこまで言われるんだ?キレイだと言ってはいけないのか?


クルリと後ろを向いてしまった金子の背中を、土田は眺めるしかなかった。





TO THE CHAPTER 1 : BITTER AND SWEET 2



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.

inserted by FC2 system