CHAPTER 1 : HEILIGER VALENTINES TAG 6


「金子」

――来たか?

ベランダで一服しようと煙草を持つと、背後から声が聞こえる。振り返ってみると、既に身支度を
全て整え、あとは出るばかりといったいでたちの土田が立っていた。

――ついに来たのか?

「今日の夕方、少しいいか」
『――分かった』


それだけ短く言うと、俺は土田に背を向けてリビングの窓の方に向かう。窓を開け、丁度ベランダ
に出ようとしたところで、玄関のドアが閉じられる音がした。

『………ふぅ……っ』

そこで、俺は漸く大きく息を吐いた。正確に言うと、呼吸を再開した。

バレンタインデーが終った後の3日間、俺は土田に呼ばれる度に僅かばかり緊張した。
唐変木なあの男のことだから、不意打ちで唐突に答えなど切り出すんじゃないか――土田が声を
かけてくる度、そんな思いが胸をかすめた。


”もし自分の言葉では心許ないと思うならば、それ以外で証明してみたらどうなんだ”


バレンタインデーの夜に言った、あの言葉を後悔してはいない。欲しくもない答えをもらった時に
は少々するかもしれないが、少なくとも今はあれで良かったと思っている。
だが、それといざ答えが出るという時の動揺は別物な訳で……だから、先程土田に呼ばれた時
には顔が引きつりそうになった。
振り返ってみれば、土田の射す様な視線と共に告げられた最終宣告――ついに来た、その時。
そう思ったら、冷静さを保とうとして、いつの間にか呼吸まで押し殺していた。

――全く、何故こんなに俺が土田に振り回されなければならないのか。

何となく不貞腐れた気持ちで煙草に火を点ける。

この3日間、俺は極力普段通りに振舞ってきた。
今更じたばたするなど愚の骨頂。第一、あとは土田次第なのだ。些か過剰な心構えはともかく、気
分的には随分と楽になってはいた。
一方の土田はと言えば、一見相変わらずの泰然自若ぶりを見せていたが、その実何か考え込むよ
うに難しい顔をして、時折俺の姿を鋭い目つきでじっと見つめていた。勿論、それには敢えて気づ
かないフリをしたが。

大体、自分は普段から土田の行動にさりげなく目を配ることが癖になっている。だから、土田がこ
ちらを見ていれば、自然すぐに気づいてしまうのだ。

――それもどうかと思うがな……。

己の吐き出す紫煙に視線を漂わせながらそんなことを考えて、ふと眼下に視線を落とす。そこに
は丁度マンションのエントランスから現れた、土田の姿があった。
剣道着やらテキストやら入った大きなカバンを肩からかけ、その広い背中は、遥か上から見下ろし
ても分かる程ピンと伸びている。

――俺が目ざといのか、それともあいつの姿が分かり易いのか……いや、あいつの良すぎる姿
勢のせいだな。

即座に判別出来てしまうあの男の姿に、思わずにやりと笑う。
そうして見ていたら、ふと思いついた。

――そうか。あの男は、あれだ。まるで金太郎飴のようだな。

あの男のスタンスというのは、どこを切ってもこちら側の期待を裏切らず、土田らしく、あるがまま
だ。普段は穏やかで大抵のことには寛容を示し、怠惰には顔をしかめ、嘘や偽善には無言で静か
に怒りを表明し、他人の言葉は真っ直ぐ受け取ってしまうお人好し。そこに例外はまずない。
日々の生活にしてもそうだ。毎朝ほぼ同じ時間に起きて、顔を洗い、着替えては朝食を用意し、き
ちんと食べては、茶碗まで洗って出かける。そこには予想外な出来事や気まぐれが混在する余地
は滅多にない。
先程の姿だってそうだ。猫背な土田なんて見たこともない。
つまり、例えるとこうだ。土田という男はその主成分も副成分も殆ど一定で、余分なものも不純物
もない。だから、土田の人生を1本の長い飴にしてみると、きっとどこを切っても同じような模様が
出てくるはずだ。一方の自分はと言えば、少々気まぐれだとは自覚があるし、日々の生活だって
スケジュールはまちまち、おまけに信条すら必要とあらば曲げてみせる。だから、模様など一定し
ない。
金太郎飴になどなりようがないのだ。


『ふふん……頑固一徹、単純馬鹿の極みということだな』

俺は、自身の土田分析に満足して、鼻をならす。
そうして見下ろしてみれば、どうだ。時として厄介だと思えるあの存在は形骸化し、広い肩の上に
乗った黒い頭が、ご愛嬌にすら見えてくる。


『つちだ!』


ベランダから大声で呼ぶと、通りを歩き出していた土田の足が止まる。そうして、マンションのエン
トランスの方向にくるりと振り返り、一瞬の間の後に顔を上げた。

俺は笑みを浮かべ、愛想のない男に向かって右手を軽く振ってみる。
土田の顔の表情はよく分からないが、俺が何か用があって呼んだと思ったのだろう。続く言葉を
待つかのように、無言でじっと見上げていた。

用があるなら、何もこんな上から大声など出さず、携帯を鳴らすに決まっているだろう――まるで
忠犬ハチ公の如く真っ直ぐ見上げる目に呆れつつ、もういいから行け、と即すように挙げた手を、
今度は追い払うように前後に振れば、土田は漸く理解したのか、そのままくるりと背を向けて歩き
出した。


土田は、ああいう奴だ。
何においても生真面目で、真っ直ぐ……まあ裏を返してみれば、愚直で想像力が足らないという
ことなのだが、それがあの男の長所でもあり短所でもある。今夕聞くであろうその答えは、そん
な土田が考えに考えた末に出す結果なのだ。

ここは1つ、みっともなくおろおろしたりせず、といって茶化したり誤魔化したりもせず、まっさらな
気持ちで素直に聞こうじゃないか――土田の小さくなった背中を見送りながら、そう思った。

それがどんな答えであろうとも、そこには少なくとも悪意も嘘も誤魔化しもないと分かっている
のだから。





「――ここ数日、お前程に頭も回らんが、俺なりに考えてみた」
『ああ』

その日の夕食を終えた、午後8時過ぎ――
土田の呼びかけに応じて、俺達はリビングのソファに座っていた。状況は違うが、数日前と殆ど同
じ光景だ。

土田の深刻そうな口調は、誤解をされないように考えながら、言葉を選んでいるのだろう。
それに対して、俺は冷淡な位に短く声を発して答えた。

「――実際、考える内に少々混乱した」
『?何にだ』
「己の気持ちを表す行動とは何かと考える内、いつの間にか、どうすればお前は喜ぶのかと、満足
するのかと考えている自分に気がついた。だが、2つは同じように見えて、異なってもいる」
『確かに、似ていて非なるものだな。まず出発点が違う。俺が喜ぶであろうという行動とやらが
お前の本心からではなく、単に俺によかれと思ってのことであれば、それは正直なお前の気持ち
ではない』
「そうだ。だが、お前の喜ぶ顔を見てそれを嬉しく感じるのならば、それは本心とは言えないのか
――そんなことを考え出したら、混乱した」

生真面目に突き詰め過ぎて混乱するなど、いかにも土田らしい。

『お前にしては随分と考えたじゃないか。それはある意味、今回の本質をついている気もするが?』
「――俺には、難しいことは分からん。だが……もしその行動が俺の心持ちを表すというのなら、
何がどう違うのかと思い到った」
『それで、結論は?』
「お前が本当に望んでいるものは何だ」
『俺は、お前に答えを出せと言ったんだが』
「それが答えだ。俺は、お前が望むことを1つ叶える。無理ならば、叶えられるまで努力する」
『…………』

――何を言い出すんだ、この男は。

想像もしていなかった土田の言葉に、自然土田を見る目が険しくなった。

『最終的に俺に答えを委ねるつもりか?らしくないぞ、土田。そんなの、卑怯じゃないか』
「確かに卑怯に聞こえるかもしれん。だが、俺はお前の喜ぶ姿を見たい。お前が幸せそうにしてい
るところを見たい。そのためにする努力を無駄だとは思わん。――それが俺の本心だ」
『あのなぁっ……』

その言葉に、カッとなった。

実際、何にカッとなったのかよく分からない。
臆面もないその言葉に顔が熱くなったのもあるが、それ以上に苛立ちを覚えた。

『だったら、俺がやれと言ったら何でもするとでもいうのか?俺が喜べばそれでいいのか?!ど
こまでお人好しでいる気なんだ!だったら、もし俺がお前に同じ言葉を返したら、お前はどうする
つもりだ?!』

唐突に俺が怒りを露にしたものだから、土田は驚いたようだった。

だが、土田の言っていることは、単なるお人好しなどではない。人に委ねるとは、その人間に決定
も結果も委ねることだ。俺の好きなように要求したとて、それで俺の得る物のなんと少ないこと
か。土田の気持ちが分からないばかりか、そこに込められた思いすら、察するに心許ない。それ位
ならば、いっそ土田のとんちんかんな答えにがっかりする方が未だマシだろう。

『もし俺がお前に心中しようと言ったら、お前やるつもりか?!そういうことまで考えて言ってい
るのか?!』

確かに口から不意に出たのは浅はかな例えだったが、それを聞いた土田の表情が微かに固くなっ
た気がした。

「――俺は、お前の本当の望みと言っている」
『ああ、そうだな、ならば本当に俺がそれを望んでいると言ったらどうするつもりだっ』
「……もし本当にそれがお前の望みだというのならば、真面目に考える。だが、俺にはそうは思え
ん。第一、それはお前の幸福には繋がらん」

――確かにそれは、俺の幸福には繋がらないに違いない。だが、今はそんな正論を聞いているん
じゃない。要点はそこではない。
俺は苛々した頭で、それでもすぐに次の言葉を考える。

『俺は例えで言っているんだ、例えで!――そうか、ならばこうしようじゃないか。俺は嫉妬深い
性質だから、お前が日向要のコンサートに行くのは不愉快だ。だから、金輪際行くな。一生涯だ!
――どうだ!これなら文句はないだろう!』

これでも言い逃れる気か!とばかりに、びしっと土田の顔を人差し指で指してやる。気が付いた
ら、俺はソファから立ち上がっていた。
一方の土田は、無言だった。まるでその真意を測るかのように俺の顔をじっと見ていたかと思う
と、やがて真面目な顔をして重々しく口を開いた。

「……わかった。確かにそうだ」
『……え?』

予想外な返事をされて、呆気に取られた。

「確かに――今回のことの発端は、要のコンサートが無関係とは言えんだろう。それでお前の気
が……いや、それがお前の幸福に繋がるのならば、約束しよう」

100%の嘘ではないにしろ、あくまで例え話だったのに、しかも相当無茶な要求なのに、真面目に
返されて却って訝しんだ。

『おい……分かっているのか?俺は一生涯と言ったんだぞ?』
「聞いた」
『じゃあ、何故そんなにあっさり答える』

土田のアイドル日向要に対する傾倒はそこらの一ファンとは違う。土田の人生における重要な3要
素と言えば、剣道、酒、そして日向要――それ位気合が入っているのだ。それなのに、何をあっさ
り了解しているのか。

まさか、黙ってこっそり行けばいいなどと思っているんじゃないだろうな――そう疑って、じろじろ
と土田を見れば、土田は土田で、何故か眉間に皺をよせている。

「……訳が分からん。何故お前は不満そうなんだ」
『当たり前だ!第一、訳が分からないのはお前だろう!ちゃんと真面目に考えたのかっ?お前の
要に対する拘りは、その程度のものではないだろう!それを安易に返事などして……っ』
「俺は考えた」
『嘘をつけ、嘘を!もっとちゃんとよく考えろ!』

――全く、どういうつもりなのだ、この男は!

段々苛々してきて、ソファにどさっと座ると、無意識の内に胸ポケットを探って煙草の箱を取り出す。

土田が要に相当入れ込んでいることを、自分はよく知っている。ミーハーなところが他には全く
ない土田の、唯一の楽しみであり、憧れといっていい存在――それがあのアイドル日向要なのだ。
俺の一言などで、土田がじかに要に会える唯一の道を簡単に諦めるとは到底思えない。しかも、金
輪際と言っているのだから、自分で言うのも何だが土田にとって、無理難題極まりないはずだ。

それをあっさり承知するとは――鈍いこの男のことだから、もしかして俺が要についてそこまで
読んでいると、気づいていないんじゃないのか?

「金子」

ふと我に返れば、土田が真っ直ぐ自分を見つめている。

『何だ』
「きちんと考えた」
『そうか。ならば、お前の答えは当然――』
「考えたが、答えは変わらん」
『やっぱり真面目に考えてないじゃないか!』
「あのな……俺にどうしろというのだ」

土田の表情が困惑の文字で埋め尽くされている。だが、困っているのは俺の方だ。

『だから、ちゃんと考えろと言っているだろう!』

ああ、全く、どこまで鈍い男なんだ、こいつは。いくら鈍感だからって、自分の本心にも気づけない
程とは――やはり己の気持ちすらよく分からないような男には、少々癪だが俺が教えてやるしか
ない。お前は俺の要求に屈して要を諦めることなど出来るはずがないのだと。

『いいか、土田。よく聞け、おま――』

俺が諭すように言う間に、土田が立ち上がってこちらに近づいてくる。
そうして土田は無言のまま、先程からいつの間にやら指で弄っていた煙草とその箱を俺から取り
上げてテーブルの上に放ってしまうと、何故か俺の両腕を掴んでソファから立たせた。

『何だ。――怒ったのか?』

眉を顰めて見つめる土田の目は、険しさ3割増し位になっていた。

「お前こそ、俺の話を聞け。俺は嘘は言わん。要のコンサートには今後行かん」
『…………何故?』

それが土田の言葉とは思えなくて、下手をするとこれは土田によく似た別人なんじゃないかとい
う疑念すら頭をよぎった。

「何故って――決まっているだろう。お前の望みを叶えたいと思ったからだ」
『だから…………何故?』
「は……?」
『何故、そこまでする必要がある?』
「…………お前は、自意識が過剰なのか不足なのか分からん……」

土田が何故か、呆れたようなため息をつく。

『な、その馬鹿にしたような態度は何だ!そもそもお前がっ――』
「俺はお前の喜ぶ姿が見たいと言った。だから、約束を守る。要のことは――確かに楽しみの1つ
ではあるが、お前に嫌な思いをさせてまですることではない」

土田の言葉が、必要以上に胸に断固とした調子で響いた。
未だ土田の言葉をよく飲み込めないものだから、何とか冷静に現状を判断すべく脳みそを叱咤
激励する。

要よりも自分の方に気を使うなど俄かには信じ難いが、土田はどうもそう言っているようだ。
だが、土田が要を特別に思う気持ちを自分はよく知っている訳で……そこからいくと嘘ではない
かと、土田は未だ現状を理解していないのではないかと疑ってしまう訳で。
でも、土田の言葉からすると、もしかしたら、ひょっとして、土田は要よりもさらに自分のことを特別
に思っているということになる訳で……まあ、確かに土田は現状では要とキスすることも抱き合
うことも不可能な訳だが……いや、そう言ってしまっては、まるで自分が「都合のいい男」みたい
だが、まあリアリティを追求すれば自分が要より有利であることはとりあえず事実な訳で……だ
が、だからといってすぐに土田は俺の方が好きだと直結させるのは、それこそリアリティに欠ける
ような……

「――金子」

ずっと俺の肩を掴んだままだった土田の指が、僅かに力を増した気がしてハッと我に返った。
いや、実際無言だったのはほんの数秒だったという自信はあるが。

「何かを成就する為に己の欲求を断つというのは古いやり方かもしれんが……これしか思いつか
なかった」

間近に見える土田の黒い瞳に睫が薄く影をつける。だが、向けられた視線に偽りは感じられない。
淡々と発せられる言葉は、それでもどこか温かみがあって、耳から胸の辺りにじわりと、静かに浸
透していった。
土田の言葉に悪意も嘘も誤魔化しもないとは、自分もよく知っていることだ。
それを時として信じられないのは、頑なに別の形に変えてしまいそうになる自分に原因があるの
ではないかと疑わない訳ではない。

「お前を大切に思っている。俺は、本気だ」

土田の言葉が、くるくると目眩のように頭の中を回っている。
胸からこみ上げてくるこの熱の塊は、土田の想いなのか、それとも自分自身の想いなのか――

「……いや、言葉では足らないのだったな。つまり、俺の気持ちはこの言葉ではなく、お前の願い
を叶えることで―― 」
『もういい』

俯いて、やっとのことでそれだけ言った。

そう、土田はいつだって、不器用な形でしか心を表せないのだ。
今後、この男は要のコンサートがある度に俺との約束を思い出し、己を思い留まらせることを選ん
だ。土田にとってはたかがコンサートなどという問題ではないというのに。そんなことをせずとも、
好きだと一言言ってしまえば、こんなに簡単なことはないというのに、土田はそれを選ばなかった。
それだけ土田にとって相手を大切に思うとは、重いものなのかもしれないと思い当たる。
そんなに簡単なことではなく、今後己の欲求を断つ覚悟をさせる程に大事なことな訳で――それ
を土田はしようと言うのだ。俺などの為に。


「金子……?」

俺は一瞬奥歯を噛み締めて、そして顔を上げた。
ほんの少し意地悪に、そして挑発的な意志を込めて笑みを浮かべ、土田の腕を解いては逆に土田
の首に腕を絡める。

『――お前が俺によほど夢中だということは分かったから、もういいぞ。土田』

そういうと、急に気の変わった俺に驚いたのだろう。土田の目が見開かれた。そんな土田に笑った。

――なあ、土田。お前には分からないだろうな。
お前の言葉が、いや、その言葉を支えるお前の気持ちが、どれだけ嬉しかったか。

一歩前に出て、土田の肩の辺りに顔を埋めたら、土田が一言、俺の名を呼んだ。

「……1つ聞きたい。お前が3日前に言った、あのドイツ語は何という意味だったのだ」
『え?』

一瞬考えて、そうして思い出した。

Glucklichen Heiliger Valentines Tag zu Ihnen――貴方に幸せなバレンタインデーが訪れますよ
うに。

どうということない、バレンタインデーに言い交わされる挨拶だ。だが、幸せなバレンタインデー
とはすなわち、自分の愛する者の自分に対する揺るぎない気持ちを確認できるということに、他
ならない。

『ああ……いいんだ、あれは。お前からは、言葉ではない形で返してもらったからな』
「???」

俺は意味が分からないといった顔で見つめてくる男に口付けて、笑った。






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