CHAPTER 1 : HEILIGER VALENTINES TAG extra-1


一瞬視線をよこしたかと思えば、さりげなく流してしまう。
その仕草は自然で、少々ぶ厚いハードカバーの本のページをめくる白い指が滑らかに空を切る。
だが――恐らくは知っていて視線を逸らしたのだろうとは、その流れる視線でも滑らかな指の動
きでもなく、僅かに上がる口角が物語っていた。

――答えは見つかったのか?

まるで、暗にそう問うかのように、薄く笑みを浮かべて。



金子は不思議な男だ。
気安く誘いをかけてくるかと思えば、あっさりと離れ、それを追えば、今度は頬を染める。
自分の言うことはいつも正しい、と言わんばかりに断言してみせるかと思えば、まるで自信のな
い心の内を自らの手で閉ざすように、皮肉げに笑みを浮かべて首を振る。
一体金子は何を求めているのか――

そんな男から、突きつけられた難題。

”もし自分の言葉では心許ないと思うならば、それ以外で証明してみたらどうなんだ”

己の気持ちを言葉で表すことの難しさを重々自覚してはいたが、といって、それ以外の形で表す
ことが得意な訳ではない。まして、相手は金子だ。
さりげなく人の気持ちを読む男で、そして気づかぬところで思わぬ気遣いを発揮する男だ。安易
な答えを出してみたところで、すぐにその薄っぺらさに気づくことだろう。
勿論自分の思いを安易な答えで表そうとは思わない。思わないのだが――そう簡単に安易では
ない答えを見つけ出すことが出来ないのも事実だ。


――そもそも、金子があんなことを言い出した理由は何だろうか。

まずはそこから考えてみた。
金子はその前から何日もいつもとは違う様子だった。そうして、要のコンサートに行ったあの時、
充実した幸福な時間の中でふと考えた。不満を胸の内に押し込んでしまった男の顔が、頭に思い
浮かんでいた。
――俺は金子の何に気づいてやれないのだろうか、と。
金子が不満を持っていると分かるのに、その原因が分からない。そここそが肝心なのだが。
金子の言葉に甘えてずるずると日にちだけが過ぎて行ったが、結局のところ俺は何も答えを出
せず、そして金子が何も語ろうとしないのをいいことに、それ以上のことを何もしなかった。
小さな諍いならばこれまでに何度もあった。だが、それは他人同士が同じ部屋に住むのだから仕
方のないこと。
今回はそれとは違うのだとはさすがの自分にも分かる。金子との生活を心地好いと思い、少なか
らず平穏だと自分が感じていただけに、金子が内に溜めてしまう程の不満を抱えていたという
ことは、衝撃でもあった。

俺は、結局己のことしか考えていなかったのではないか――そう思った。
だからこそ、金子の感情の変化を、手遅れになるまで気づけないのではないかと。
だからこそ、自分は幸福だと思っているのに、金子はそうではない、という状況になってしまうの
だ。

自分だけでなく、金子の幸福も考えてこそ、一緒に住んでいると言えるのではないか?
そう思い到って、要のコンサートが終わった後、俺は金子にそれを伝えた。だが、金子はただ困惑
の表情を浮かべた。真意が真っ直ぐに伝わらなかったのかもしれない。言葉が足らなかったのか
もしれない。もしくは唐突に言ったものだから、疑わしく思われたのかもしれない。
だから、その次にはお前を大切に思っているとも言った。結局のところ、自分の気持ちはこの辺り
にあるのだと気づいたからだ。幸福でも大切でも、思いの元は一緒だ。
何故それが金子なのか、というところははっきりとは分からない。だが、誰に対しても持てる気持
ちではないと思う。初めて関係を持った当初は確かに困惑ばかりではあったのだが、最近は違う
という自覚もある。そして、自分にしてみれば、その心の変化というものは多少なりとも普段の生
活の中にも表れていたのではないかと思う。
意識的にした覚えはないのだが、自分はそんなに物事を上手く隠せる性質ではない。況して人の
感情に敏い金子のこと――己の真意は行動を通じて伝わっているのではないかと思っていた。

だが――肝心なことこそ人には伝わり難いものなのかもしれない。

金子の言葉は、そんな自分の見えない気持ちに対する不満からきているように思えた。

そうしてまた、スタート地点に戻る訳だが……
己の気持ちを言葉以外のことで表す――要するに、行動で示せということなのだと理解する。
では、行動でどう示せばいいのか。ただ抱き締めるだけでは伝わらないだろう。それは普段もす
ることなのだし。
いっそ手紙でもしたためてみるか。金子光伸を大切にするとここに誓う――そんな旨の念書。
恐らく、金子は吹き出すだろう。益々以って、真意を疑われるかもしれない。第一、それでは結局口
にせず文字にしただけの、「言葉」に変わりはない。

――うーむ……。

考えれば考える程、何やら己の起こそうとする行動が空々しく見えてくる。
これでは、金子に真意を分かってはもらえないだろう――そんなことを考え始めると、何故か自
然と視線が金子の姿を追ってしまう。暗に無意識のどこかで助けでも求めているのだろうか。
だが、視線の先にある金子はと言えば。

答えは見つかったのか?――やっぱりいつ見てもそう問われているようで。


2日目の夜、どうにも妙案が浮かばぬ中で、もう一度最初から考えてみようと思った。

金子のことを大切に思っている。お前に幸せになって欲しいと思う――それが出発点だ。そこか
ら筋道を真っ直ぐに考えてみようと思った。

まずは、大切に思って行動したことの結果が金子の幸せに繋がるならば、これ以上のことはない。
ということは、結果金子の為になる行動が良いということになるのではないかと思う。金子が大
切なのであれば、金子の為に何かしてやるということに繋がるではないかと思う。要するに、金子
の為に何かして、そしてそれが結果、金子を幸福にするのであれば良いということだ。

では、金子の為に何をすれば金子は幸せになるのか。当然、金子が望むことをすれば、金子は幸せ
になれるだろう。それはすなわち、金子の望みを叶えてやるということだ。自分に出来るかどう
か分からないが、それが一番いい。

だが、これでは金子のご機嫌を伺っているのだと、誤解を受けたりはしないだろうか。安易な答
えと受け取られたりはしないだろうか。そうでなくとも、金子は疑り深い。疑り深いというか……
何故か変なところで自身を過小評価したり、遠慮したりするのだ。

前にもこんなことがあった。
台所で使っているタオルが古くなったから、買い換えようという話になった。自分は別にどんなも
のでもいい。古くても使えるし、手拭だって構わない。どうせ使えば汚れるものだ。だが、金子は
そんなものでは納得しなかった。キッチンにマッチした色合いや、肌触りだって考慮すべきだろう
とか何とか、確かそんなことを言っていた。だから、俺は金子に好きなものを買えと言った。拘りの
ある者が選ぶことが当然理に適っていると思ったからだ。だが、すんなり頷くと思っていた男は、
異を唱えた。頻繁に使うのはお前の方だろう、だからお前の好きなものを買えと。だが、自分の選
ぶものが金子のセンスに合うかどうかは疑わしい。第一、自分は感触の良し悪しなど気にしない。
だから、その旨を素直に伝えただけなのだが……

”俺の選ぶものがお前にとって一番使い勝手がいいものかなんて分からないだろう!”
――と、キレられた。

今をもって、何故急に怒られたのかよく分からない。
だが、少なくとも金子は俺のことを考えたようだ、と思う。自信満々に、俺の選ぶものの方がセン
スがいいに決まってる、とでも言うかと思っていたから、これには驚いた。


そんなことを考えたら、益々分からなくなる。どんな善行でも必ずしも善意に取られるとは限らな
いことと同様、今回のことだって、何をしても誤解される時は誤解されるのかもしれない、とも思
う。

――うーむ……。

自分までもが、金子のように疑り深くなってしまったのだろうか。元よりあまり複雑な事柄を考え
るのには向かない性質だというのに……


――などと考えていたら、いつの間にか3日目の朝を迎えていた。……まあ、要するに眠ってしまっ
たのだが。
真剣に考えているのに、それが困難な内容になるとどうも眠気がさしてくるという、この悪癖はど
うにかならないものかと思うのだが、そう簡単に直せるものではないから厄介だ。

そうして早朝5時。隣りでいまだ眠りの深淵のただ中にある金子を起こさないよう、なるべく静か
にベッドから出ると、少し頭を冷やすことにした。

ベランダで遠く町並みを眺めながら、これまでの考えをまとめてみる。

金子が求めるものは何だろう。俺が金子の幸せを求めることは、余計なお世話だろうか。
……だが、望んでいるのはそれだ。
金銭的な面だけでなく、苦手な文系科目の課題を見てくれたり――恩着せがましい言葉付だが
――、バイトが遅くなった時など、帰ってきた時にさりげなくお茶を用意してくれたり、剣道場に差
し入れを持ってきてくれたり、決して素直には認めないが、金子は俺に色々と心を砕いてくれる。

そんな男の幸せを、考えずにいられる訳はない。願いを叶えてやれないだろうかと考えずにはい
られない。
ならば、やはり金子の望みを叶えるべく最大限の努力をする、でもいいのではないか?
もしそれが俺の真意を元にしているのであれば、それも気持ちの表現の1つではないのか?
何より、それで金子が幸せになれるのであれば、それは自分の望みでもあるではないか。

結局のところ、どこからどのように発しても、答えは1つな訳で。

金子の為に出来ることはないかと考えるのは、金子が大事――そういうことなのだろう。
あの男が、他の誰かに代えられないと自分が思っているからなのだろう。

それを、表わしたい。
ただ、それだけだ。

そう心を決めた。
きちんと真意が伝わるかどうか分からないが、伝わらないならば、伝わるまで言い続けよう――
そう思った。





そうして迎えた3日目の夕刻。
呆れられたり不機嫌になられもしたが、最終的には金子は理解してくれたようだった。
諦めなければならないものもできたが、といって後悔はしていない。
人は追い詰められた時、その時に一番必要なものを選択する。そういうことだろう――少し違う
かもしれんが。

だが、ともかく安心した。金子に真意が伝わったことに。
そして、金子がいつも通りの金子に戻ってくれたことに。
ここ数日、本当にあれこれと考えたから。
ひと段落した、もう頭を悩まさずに済む――そういうこともあったから、安堵した。
のだが。


『――やっぱり、他のことにしよう』
「は?」


肩口に顔を埋めていた男が、急に顔を上げた。

『要のコンサートを諦めさせる位では物足りん』
「……」

俺の本気度を試しているのだろうか――先程まで、耳朶の辺りまで赤く染めて俺の言葉に俯いて
いた男が、俄かに自分らしさを……いや、元気を取り戻した。

『俺の願いを1つ叶えるという気持ちは絶対だろうな?』
「無論だ」
『ならば、俺がその内容について考える猶予はあってもいいだろう』

勿論、すぐに答えを出す必要はない。金子には、自分の望みについて熟慮する権利はある。
それはそうなのだが――

「――無茶なことは聞かんぞ」
『俺はお前よりよほど大人だ。お前がどう転んでも実現不可能なことなど言う訳がないだろう』

例えとはいえ、先程心中などという突拍子もないことを言った男が、一体どの辺りをもって自分
の方が大人だと断言するのかよく分からないが、下手なことを言っても話がややこしくなるので
黙っていた。

すると、金子が人の悪い笑みを浮かべる。

『これから、じっくりと考えることにするさ。――楽しみだな』

確かに、いつも通りの金子だ。元の金子に戻ってくれたことは、嬉しい。
嬉しいのだが……――もしかしたら、俺はとんでもない切り札を与えてしまったのではないか?



脳裏に”後悔”という二文字が一瞬過ぎったことはもちろん――内緒だ。







TO THE CHAPTER 1 : HEILIGER VALENTINES TAG extra-2



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.

inserted by FC2 system