CHAPTER 2 : AKITA AND HIS BLOWING MIND 5


『ちっ……』

2度3度とライターの火を点けようとしては失敗し、金子は思わず舌打ちした。
原因は強い風のせいだけではなく、自身の心の動揺が影響しているのだとは頭の片隅で気づい
ていたが、そのことは敢て無視した。
そうして、4度目のチャレンジで漸く火が点くと、急いで煙草の鼻先を火にかざす。

『ふう……』

金子はベランダに肘をかけると、気持ちを切り替えるためにゆっくりと息を吐きながら、外の景色
に視線を移した。
家の屋根、青い木々、そうして早朝のやや白っぽい空――漠然と目に見えるものを、点呼するよ
う1つ1つ目で追っていく……すると。

”俺は、この生活を好ましく思っている。お前とのことを、恥じてはおらん”

唐突に土田の言葉が自然と頭の中で湧き上がってきたものだから、上がりかけた体温を打ち消す
ように、金子は首を横に振った。

――ああ……外の景色の何処にも連想させるようなものなどなかったというのに、何で浮かんで
きたんだ!土田の奴め、もういいというのに……っ

今度は今の状況に苛苛してきて、思い切り息を吸い込んでは、煙草の煙に咽そうになる。
咳き込むことは何とか回避すると、金子は顔をしかめながら、鼻から喉にかけて感じるやや刺激
の強い苦味を噛み下した。

――ああ……全く……さっきから一体何なんだ、俺は。

じたばたしてばかりの自身の愚かさに、金子はがっくり肩を落とす。
今度こそ漸く気持ちが冷静になってきた。



別に、土田に自分の気持ちを解ってもらおうなんて、思っていなかった。理由はどうであれ、土田
が友人共に知られたくないと思う気持ちは分かる。大体、自分だって友人に何も話していない。人
に話すようなことではないという理由は土田と同じだが、自分は他人に私生活を詮索されるなど
真っ平御免だからだ。それに、大学で通っている自分のイメージというものもある。体面もある。
だが一番の理由は、大っぴらに出来るような関係ではないと分かっているからだ。自分達の意思
がどうであろうとも、そこは同性同士のこと。周囲から奇異の目を向けられるのは免れない。人目
を過度に気にするつもりはないが、何も進んで自ら噂話の種を提供する必要はない。

元々この関係のきっかけを作ったのは、自分だ。それは何も土田を困らせようとか、土田の評判を
落とそうとか、そんなつもりでしたことでは決してない。だからこそ、自分の軽口によって土田に
迷惑をかけるようなことは、したくないと思う。

そういう意味でも、口外しないということは、決して間違った選択ではないと自分でも思ってい
るのだ。

にも拘らず、友人達に知られたくないという土田の言葉に、胸が微かに痛みを覚えたのは――
自分が土田の気持ちに自信が持てていなかったからだ。

土田は、自分との関係を恥じているんじゃないか。
優しい男だから、成り行きに任せてここまで来てしまったけれど、実は心のどこかで、例え無意識
だったとしても、あの初めての夜のことを後悔してるんじゃないか。
いくら土田でも、同情だけでここまで続かないだろうとは思いながらも、自分は土田に何かを強
いているんじゃないか――そんな一抹の不安を感じていた。

一方で、そんな自分に嫌気も差していた。
過去の言葉に拘って、いつまでも土田の真意を疑う自分が、女々しく思えた。かつての言葉とは
裏腹に、秋田から噂のことを聞いても、自分との関係がバレそうになっても、動じる風もない土田
の姿を見たものだから、余計に自身の卑小さを思い知らされた気がした。

何も、土田の言葉だけに自分は苛立っていた訳じゃない。自分自身にも、苛立っていたのだ。
自身の心だけが空回りして、結論が出ない。いや、結論は出ているのに、自分がそこから目を逸ら
していた。それなのに。

土田の言葉がまた浮かんできそうになって、金子は急いで頭の中でそれを打ち消した。

こんな時に限って人の気持ちに敏い土田が、恨めしい。
あっさりと結論を出してしまう土田の愚直さ――だが、愚直であるからこその明快さ、潔さはいっ
そ清清しくて、嫉妬のような気持ちさえ覚える。
勿論、そのお陰で自分がずっと抱えていた疑念が晴れたのだとは分かっている。土田の言葉によ
れば、土田は今の自分との生活を恥じてはいないし、後悔もしていないという。土田は嘘はつけ
ない性質だから、この言葉は信用出来る。
そんな土田の真意を知ることが出来たのだから、悪くはない。これで、あの時の言葉を思い出し
ては、何やら空しい気持ちになる、そんな宿痾からは解放されるのだから。
それは十分分かっているのだけれども。

――全く、これではあれやこれやと気を回した俺は、道化のようではないか。別に周囲に知れて
も構わないと思っていたのなら、もっと早くにそうと教えてくれても良かったじゃないか。そうす
れば、俺も無駄に足掻かずに済んだのに。

そう思うと、土田に一言言いたくもなる。
悩み、足掻いて、余計なところまで気を回し、挙句土田の言動に一喜一憂しては、そんな自分に苛
立ったり嘆いてみたりする。それは腹立たしくもあるし、妙な気疲れを感じたりもして――たまに
本当に不本意だと思う。
土田と出会う前の生活は、もっと整然としていた。心が乱されるようなことなどまずなかったし、
自分の望むこともすべきこともきちんと把握していた。
少なくとも、生活に於いての居心地感とでもいおうか、落ち着き具合とでもいおうか、そういった
点について言えば、土田とこんな関係になる以前の方がよほど良かった。もっとこう、何というか、
断然気が楽だったのだ。

何だってこんなに自分は足掻かなければならないのか。そんな目に遭っているのか。

『……全く、忌々しいことだ』

金子はため息をついた。

純真な青年を気取るつもりなどさらさらないが、といって、こんな心の葛藤やららしくもないこと
をしてしまう自分を、初めて知った。こんなにも自分は感情に起伏があったのだと、驚いた。しかも、
鈍感で、馬鹿真面目で、朴念仁な1人の大男のために。さらに悪いことには、そんな自分を認識して
いるにも拘らず、自分ではどうにもならないのだ。
……という訳で、忌々しいのだが。

――まあ……我ながら、不毛な議論だな。といって、後悔する気ならとうにしている訳で……堂々
巡りもいいところだ。

金子は自嘲気味に苦笑いを浮かべながら、敢てのんびりと煙草を燻らす。すると、何やら背後の窓
の隙間から、珈琲豆の良い薫りが微かに漂ってきた。





翌月曜日――

『おはよう』

授業開始5分前に何とか教室に滑り込むと、金子はいつものように薄く笑みを浮かべて視線の合っ
た知人に挨拶した。
すると、その知人は一瞬驚いたように目を見開いて、おはよう、と一言早口に言うと視線を逸らす。

『???』

その様子を疑問に感じていると、視界の端に姿を現した友人の1人が勢い込んで近づいてきた。

『ああ、おは――』
「金子、ちょっとちょっと……っ」

挨拶も終わらぬ内に隣にぴったりくっつかれると、背中を押されて扉の横の方に押しやられた。

『おい。一体、何のつ――』
「金子、お前土田と同棲してるってホントか?」
『……え?』

友人のヒソヒソ声――しかしながら、到底聞き逃せない内容に、金子は目を見開いた。

「土田が甲斐甲斐しく味噌汁なんか作ったりして、すっかり嫁さんみたいになっているって……」
『は……?』



「だから、嫁などではないと何度も言っているだろうっ」

唖然としていると、何やら教室の奥から憤懣やるかたないといった低音の怒声が聞こえた。
視線をそちらに移してみれば、友人知人に囲まれた人だかりの一角が見える。どうやら、あの中心
に居るのが今の声の主、土田に違いない。

まさか、秋田の奴――

そうして教室を見回すと、何やら人目を気にして、あちらこちらと忙しなく周囲を窺っている秋田
と目が合った。その瞬間、秋田は泡を食った様子で手を合わせて頭を下げてみたり、そうかと思え
ば首を振って声にならぬ言葉で何かを訴えようとしている。

謝っているのか。そんなつもりはなかったんだと否定しているのか。
だが、ことの発端が秋田にあることはまず間違いない。

だから下世話な噂は広まらぬ訳がないと言ったのに――そう思った。
大体、このテの格好のネタを口外しないでおくという方が無理だろう。あの様子から察するに、恐
らく秋田は事を詳細に話したというよりも、一言二言口を滑らせたという程度なのだろうが、それ
にしても口外したことに変わりはない。
全く、秋田の言葉をあっさり信用した土田もつくづくお人好しだ。

――それにしても、嫁ときたか。
確かに、話題性十分だ。よりによって男の中の男、大学内で強面と豪胆さにおいて、右に出るもの
なしと謳われた(?)あの土田が、実はプライベートでは甲斐甲斐しく嫁役をやっていたという、
ショッキング……いや、衝撃の事実。

しかし、あの土田が……よ、嫁って……

「ん?金子?何を笑ってるんだ」
『え?……俺は今、笑っていたか?』

だが、頷く友人の顔をまじまじ見て、ふと思った。
考えてみれば、こんなに愉快なことはない。あの土田が嫁役をやっているなんて聞いたら、自分
だって真っ先に見に飛んで行っただろう。

それに、この雰囲気からいって男同士のただならぬ関係よりも、土田が嫁だったという事実の方
がよほど驚きだったらしく、話題はそちらの方に行っている。
それがなくとも、陰で密かに噂されているよりはこうして本人を前にして確認される方が、よほど
単純明快でいい。友人達の様子を見れば、さほどショックも受けていないようだし、奇異の目とい
うよりは、好奇の視線のようだ。


心のどこかで、周囲に気を許すべきでないと思っていた。
4年間の大学生活の中で一生涯を通じて付き合うであろう友人など、1人でも見つけられればい
い方だ。だから、適度に愛想良く、波風を立てず、適度に友好関係を保つ――自分の表層部分だ
けを見せればいい。所詮、ここは社会に出るまでの仮の居場所でしかないのだから。
そう思っていた。

だが、いざこうして格好の噂のネタになり、望まない注目の的になってみると、不思議とそこまで
拒否反応を感じない。もう開き直るしかないという状況だからなのか――案外と突っ切ってしまっ
たというか、どこかでこの不本意な状態に笑ってしまいそうな自分がいる。

そんなことをつらつら考えながら、ちらりと土田の居る一角に視線を流した。
人だかりの隙間から見える土田は、いつもにまして仏頂面をしている。背筋をぴんと伸ばしたまま
腕を組んで座る様は、さながら腰を下ろした仁王像のようだ。
バレたらそれはそれで仕方ないと週末には言っていたが、それを実行しているのだろう。何しろ
あの騒々しさだ。恐らく周囲はあれやこれやと質問なり何なり土田にぶつけているのだろうが、
土田の声は一言二言位しか聞こえてこない。

――全く、煙に巻くことも適当に受け流すことも出来ないのか、あの男は。
今更ながらに答えの分かりきった突っ込みを心の中でする。

あんな仏頂面で黙りこくっていては、却って周りは想像力を膨らませ、話を大きくするだけだろう。
見かけは怖そうだが、あの男は滅多なことでは怒らない。既に1年次から土田を知る友人達にして
みれば、そんなことは百も承知だからこそ、いつまでも人だかりが出来ているのだ。

だが、それもある種の人徳故だと、果たして土田は気づいているのだろうか。





『――まあ、土田の作る味噌汁が旨いことは確かだな。あれは格別だ』

頃合いを見計らっては、少し大きめな声でそう言ってみると、瞬く間に辺りがしんと静まり返った。

『総合的に鑑みても、俺は土田を嫁とすることもやぶさかではないと思っているんだけどな――』
「ちょ、ちょっと待て、金子っ」

周囲の沈黙と、そしてどよめくような空気に小気味よさすら感じて、お構いなしに言葉を続けると、
血相を変えた土田が席から立ち上がった。

『お、何だ。ついに俺の嫁になる決心がついたか?』
「馬鹿者!何を言うか!俺はっ――」
『と、まあ、あの通り男らしい男でもあるからな、なかなか難しい』

明らかに教室中に自分の声は響き渡り、皆が自分に注目する中、敢えてすまし顔で友人に向かっ
て答えてやった。
呆気に取られた目の前の友人の顔、そして自分と土田を交互に見つめる同級生達。やがて――

「おい、ということは、金子の片思いってことか?」
「金子が土田に片思いだって?」
「いや、あれはもう土田がほぼ嫁扱いなんじゃ……」
「土田、いっそのこと決心してやれ!」

「勝手なことを言うなっ」

教室内は、俄かに再び騒然となった。

――ああ、何だか、案外愉快じゃないか、こんな状況も。
この混沌とした状況を作り出したのが、大学では優等生で通してきた自分なのだと思うと、何だ
か可笑しい。いや、それどころか、馬鹿馬鹿しくて、いっそ清清しい位だ。
だが。

「金子、おいっ。お前一体どういうっ……」
ここに清清しさどころか苦々しささえ感じているのであろう男が一人、席を立ったついで不満を
表明しながらこちらに足を進めかけたのだが――その時、教室の前の扉が突然大きく開いた。


「こら、お前ら!もう始業時間は過ぎているんだぞ!何だ、この騒々しさは!数分も待てないの
か!」

数分どころか10分はたっぷり遅れていたが、声の大きいことでも有名な物理学の教授は、教室に
入るなり怒鳴り声を上げる。
その声に、教室は一瞬の内に静かになった。


『ああ、申し訳ありません、教授。来週発表予定の課題について皆で議論していたら、つい白熱して
しまいました。以後気をつけます』

ここはついでに学友共を味方につけておこうと、率先して言い訳を述べると、心から恐縮している
という気持ちを込めて教授に軽く一礼した。

「む……まあ、そういうことならば仕方ないだろう。さ、金子も皆も席に着け。授業を始めるぞ」
『はい』

「さすがは金子だな」
「いや、助かった」

席に着く道すがら、学友共に小さく声を掛けられる。
そうして、空いている席に鞄を置いて顔を上げれば、その2つ程前の斜めの辺りの席で、振り返っ
たままの土田と目が合った。嫁候補疑惑に対して、否定らしい否定も出来ないままに切り上げられ
てしまった土田は、当然不満だろう。眉間に皺を寄せている。
だが、といって教授の言葉に従わぬような男ではない。
目が合ったのはほんの1秒ほどで――恐らくは納得はいっていないだろうが――土田はくるりと
前を向いてきちんと席に座った。

さすがの土田も、皆の前で嫁疑惑を肯定されては内心腹の虫が収まらないに違いない。そうでな
くとも土田は、皆に知れるのならば、それでも構わないと腹を括っていた。
それなのに、何故か自身の嫁ネタの方に話が飛んでしまったのだから。

これは、帰ったら少々の文句は言われるかもしれないと思いながら、教科書やノートを出しながら、
土田の背中をちらりと盗み見る。

――まあ、少々の言葉は甘んじて引き受けるとしよう。

まるで、定規を当てたように真っ直ぐに伸びた広い背中を眺めながら、金子は潔く決意した。





俺はただ、土田が自分との関係を恥じていないと本当に思っているのなら。
その気持ちを知ることが出来たのなら、それだけで別に構わなかった。
本当に、それだけでいいのだ。

それ以上のことがあるというのなら――それはきっと、土田にも自分にも少し重い。
もしかしたら、要らぬところにまで話が広がり、それぞれの将来を変えてしまうかもしれない。
それでも、土田のことだから責任を感じてそれを甘んじて引き受けてしまうかもしれない。

自分は、そんなことは望んでいない。
土田の負担にはなりたくない。

だから、友人たちの思い描く自分たちの関係は、軽いものでいい。
学生時代のちょっとした悪ふざけで、相手を嫁にしたいなどと軽口にしてしまえる程に責任を負
わない関係――それでいいと思う。



――だから、悪いな。お前の嫁話にかこつけて、話を茶化してしまって。

金子はその背中にこっそり謝罪しながらも、どこか晴れ晴れとしたような気持ちになっていた。





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