CHAPTER 2 : WAITING FOR THE BLOOM OF ROSE 5



よくよく考えてみると、土田はこれまで旅行というものをしたことがなかった。
いや、それほどまでに実家に金銭的な余裕がない、ということではなく、どちらかと言えば旅行と
いう娯楽(?)を考えたりしなかった、というのが一番近い。
もちろん、小・中・高校と、3回修学旅行には行っている。学校行事の遠足や林間学校、剣道部の合
宿等々を旅行に入れてもよいのであればその数は10数回にもなるし、近県の親戚の家に泊まりに
行ったことも含めるならば、さらに増える。
だが、普通は旅行と言えば、それが家族とであれ友人とであれ、普段縁のない場所に訪れるとい
うことのみを目的として行くことを指すのだろう。

そういう意味では、土田はこれまでに泊まりで旅行に行ったことがなかった。
土田の実家がある鹿児島の山奥では、生まれてからこのかた一番の遠出が鹿児島市内、という者
も1人や2人ではない。そんな環境に育ったから、旅行などしたいと思ったこともなかった。だから
大学受験のために初めて東京に行くと決まった時など、あっという間に近所中の噂になって、前
日には近所のあちこちから人が集まり、合格祈願と共に何故か交通安全のお守りを何個ももらっ
た。中には厄除けすら混じっていた。他所の土地に行くということが、それほどまでに非日常的な
ことだったのだ。
そんな地で育った土田が、今回「旅行」などという大イベント(?)を思い立ったのは、ごく小さな
きっかけだった。だが、いくら小さくとも土田にとってそのきっかけは、看過できないものだった。





『ああ……何だか、すっかり食べ過ぎたな』

自分の正面に座っている金子が、箸を置きながら天井を見上げるように少しばかり顎を反らした。
1時間ほど前、自分達の面前には部屋に運ばれてきた山の幸やら川魚を中心とした、豪勢な料理
が所狭しと並べられていた。どれも、土田にとっては御馳走だった。だが、今やその大半はきれい
に食され、片付いていた。

「よく食べたな」

金子は、普段小食という程ではないだろうが、多くは食べない。剣道やバイトで身体を普段から
動かしている自分と比べれば、それは当然なのかもしれないが、細めの外見も含めてあまり食べ
るという印象がないことは確かだ。だが、今日は冷酒を伴に箸が進んだようだった。

『残しては悪いだろう。美味しければ尚更だ。それに、温泉旅行では食が進む』

温泉は体力も使うというから、という意味なのだろうか……まだ入浴していないが。
土田は、ただ軽く頷く。

いつもよりも食べたせいか、やや億劫そうに立ちあがった金子は、それでもすらりと伸びた背を
こちらに向けて、窓の方に歩いて行く。そうして、窓際に置かれた小さなテーブルセットに腰を下
ろした。

『やあ、こんな山奥まで来た甲斐があったな。外は真っ暗闇だ』

金子は少しだけ窓を開けると、窓ガラスにおでこがつきそうな程顔を近づけては、外を覗き見る。
それから煙草に火を付け、夜空を仰いだ。確かに、窓は山河に面しているから暗く、そして静かだ。
窓を少し開けたせいか、耳を澄ませば川のせせらぎも微かに聞こえてくる。
平穏だ。
土田は座敷に胡坐をかいたまま、冷酒の残りに手を伸ばしかけた……ところで、暫く外を見てい
た金子が急にこちらを向いた。

『おい、まさか、ここまで計算済みか?』
「何のことだ」
『あれだ、あれ』

金子は窓ガラスの少し上の方を指さした。

「外に何かあるのか」

そういえば、何やらチラリと光るものが見えたような気がするが、窓の外に注意を払っていた訳
でもないし、第一座敷の方からではよく見えない。だが、立ち上がって窓際の方に近づいていくう
ち、再び遠くから光が発せられた。それは、駅の方向から上がったように見える。華々しくも大きく
もなく、小ぶりなものではあったが、周囲が暗いだけに、その光は眩い。

「花火か」
『花火か、じゃなくて。今何月だと思ってる。そんな時期じゃないだろう』

確かに、一般に花火と言えば、夏休みだ。そうして今更だが、今は春休みだ。時期は外れている。

「俺は知らん。麓のお寺前の祭りと関係があるのではないか」
『祭りか。有り得る話だな。――まあ、偶然だとは分かっていたが、それにしても季節はずれの花
火が観られるなど、心憎いハプニングじゃないか』

金子は細く紫煙を吐き出して、そうして小さく笑みを浮かべた。
花火如きで、という自嘲的な気持ちが働いたのだろうか。緩やかな孤を描いた口元はやや歪ん
でいる。だが、それとは裏腹に瞳は輝いていた。

当然、計算などではなかった。実際、翌日から祭りがあることも、今夜、花火が上がることも知らな
かった。アルバイト先で良い温泉宿はないかと尋ね、ここを薦められたが、とはいえ詳細な地域情
報など知る者はいなかったし、日付にしても、予約が取れたのがたまたまこの日であったに過ぎ
ない。明日から週末にかけての予約が一杯だったことを考えれば、小さな町のお祭りとはいえそ
れなりの集客力はあるのだろう。

そう、もちろんこの温泉旅行はたまたま社内抽選会で当てたものではない。それをあたかも当たっ
たように見せるためにはバイト日数の増加は言わずもがな、バイト仲間に協力してもらって、あれ
やこれやとお膳立てした。
だが、一旦事が成ってしまえば、アルバイト仲間への感謝の念はともかく、あれやこれやと動いた
ことなど、済んだ話だ。何より、金子が楽しそうならば、それで良い。

ヨーロッパ旅行のような豪華な旅行など到底自分には用意できないが、それでも、少しはこの男
なりの気遣いに報いることが出来ただろうか――そんなことを思いながら、土田は金子の顔を見
つめた。





土田の和んだ目元が、紫煙の向こう側に揺らめく。
金子は、土田の様子に少しばかり目を細め、そうして、視線を窓の外へとずらした。

この旅行で、土田は時折こんな風に和んだ表情を見せる。
それは、温泉旅行というのんびりとした時間の過ごし方に心身ともに癒されているという意味も
あるだろう。だがそれだけでなく――きっと、嬉しいに違いない。自分が計画した通りに事が進み、
そうして、この俺がその上に素直に乗っかって、楽しんでいるのだから。
いや、何もそれをどうこう言うつもりはない。土田の立場にすればそれは当然のことだ。それに、
こちらにも些か事情がある。土田は自分の為に裏で密かに計画を立てていたというのに、その間、
土田が春休みの話に乗ってこないことに腹を立て、そうしてへそを曲げた。もちろん、それは知ら
なかったからなのだが、そうとはいえ、もう少し鷹揚に構えているべきだったと反省しないことも
ない。
だからこそ、今回は土田の思惑に気づかないフリをして乗っかってやろうと思った。もちろん、旅
行自体が好きだからそれがなくともいくらでも楽しむことは出来るが、それ以上に、土田の厚意を
素直に受け取っておこうと思ったのだ。

尤も、土田のこの「厚意」の真意が未だ不明ではあるのだが……





それから2人は、暫く窓の外の花火を無言で眺めていた。

椅子に座る金子の傍に立っていた土田は、不意に腕を掴まれて下を見る。すると、金子が薄い笑
みを浮かべてこちらを見上げた。

『土田』

引っ張られるままに膝を床につくと、肩に腕が回され、そうして、唇を寄せられた。
艶やかな笑み、有無を言わせない、それでいてさりげない動き――こんな時の金子には、つい釣
られてしまう。もちろん、端から拒むつもりであれば、最初にきちんと釘をささねばならないが、そ
れでも抗いきれない時もあるのだから、別に拒む理由も見つからないこのような状況下では、流
されてしまっても仕方がないだろう。

同じ男だというのに、何故金子には人を惑わすような雰囲気――つまり、それを色気というのだ
ろう――があるのか。
自分もそうなりたいということでは全然ないのだが、それでも、一体どうすればこんな風になれ
るのやらと感心する。尤も、抗えないと感じるのは、それだけ自分が金子という男を近い存在だ
と感じている証拠なのかもしれないが。


触れた唇は、しっとりとしていた。
その薄い唇に何度となく甘噛みされ、小さく吸われ、やがてどちらからともなく開いた口で互い
の舌をからめ合う。肩のところに置かれていた金子の腕が首の後ろに回されると、口づけはより
深くなった。
椅子に座ったまま身体を捩じらせ、腕はこちらに回してきているのだから、当然金子の姿勢は不安
定だ。そのせいで、自分の胸の辺りに金子は身体を預けるような形になる。だから、金子の背中に
腕を回して、少し強めに抱き締めた。その方が、身体が安定して金子が安心できるのではないか
と思ったからだ。
すると、金子は開いた口の隙間で微かに笑った。

『ふ……その気になったか?』

確かに、それは否定できない。
だが、初めてではないものの気になった土田は、頭に浮かんだままに感想を言う。

「少し、苦い」


金子は、煙草を吸う。最近は本数を幾分減らしたと本人は言うが、それでも喫煙していることに変
わりはない。
嗜好についてとやかく言うつもりはないのだが、それでも可能であれば止められないものかと
思う。それはもちろん、金子の健康面を考えてのことでもあるし、と同時に、この苦味が少しばかり
苦手でもあった。普段、金子は煙草を吸った直後にはキスをしてこない。それは金子の気遣いだと
思う。だが、日常生活から離れたこんな日は、きっと思うままに行動するのだろう。クリスマスイヴ
に夜景を見た時もそうだった。そんな金子を微笑ましく思う。
だが、その気持ちと今口に広がる苦さは生憎別問題な訳で。

金子は、自分の言葉に一瞬目を瞬かせたが、特に機嫌を悪くした風でもなかった。

『あぁ……煙草のことか?』
「他にはないだろう。どうだ、もう少し本数を減らし……」

さりげない提案は、しかしながら言い終わらない内に却下された。金子がその身を離して立ち上
がり、座敷の方に歩いていってしまったからだ。話している最中に、ちょっと待て、という言葉は聞
こえたから機嫌を悪くして立ち去ったということではないのだろうが、唐突に立ったものだから
訳が分からなかった。
一体どうしたのだろうか。まさか、歯磨きでもする気だろうか。

土田が金子の後姿を視線で追うと、金子は座敷の、未だ机の上に広げられたままの夕食の皿の中
から、何かを拾い上げる。そうしてこちらに振り返った。

『これならば、文句はないだろう?』

金子は指で摘まんだ一粒の苺をこちらに見せると、それを口に含んだ。
噛んだことで口内に苺の果汁が広がったのだろう、甘いな、と呟いた金子は視線をこちらに流し
ながら口角の辺りを親指でゆっくりと拭う。その仕草や視線も既に妙な色香を漂わせているが、
さらにはにやりと笑って手招きをしてきた。

そういう問題ではない、と思う。思うのだが――金子という男は、恐らくどのように振る舞うこと
で、どんな効果を生むかということが分かっているに違いない。しかも、明らかにそれを楽しんで
いると分かるから、始末に負えない。
……と思いながらも、結局釣られてしまう己の方こそ始末に負えないのではないか、とも思うが。

土田が立ちあがって金子の元へ近づくと、金子は満足げな笑みを浮かべて手を伸ばしてくる。

「全く、お前は……」

金子の白い手が首の後ろに回る。
そんな土田の姿は、まるで首根っこを押さえられた猫のよう――いや、牙を抜かれたライオンだ
ろうか。

何だかんだと言ったところで拒まないと分かっているのか、金子はただ小さく笑う。そうして、再
び唇が押し付けられた。触れた唇は果汁で濡れていた。程なく口は開かれ、それと同時に甘酸っ
ぱい苺の香りが口から鼻孔へと……

「っ……」

土田は、一瞬舌を引いた。至近距離過ぎて見づらいが、それでも瞬時に答えを探して金子の目を
見ると、金子の目は笑っていた。
美味しいか?――まるでそう言っているように。

金子が舌先で口内に押し込んできたもの。それは苺だった。
もちろん、先ほど金子は口にしていたのだから、考えてみればそれが何かはすぐに分かる。だが、
すっかり飲み込んでしまったものとばかり思っていた。何より、金子の舌とは違う、何やらふにゃふ
にゃしたものが不意に入り込んできたのだから、驚くのは当然だ。

驚いた土田を尻目に、金子は笑うように微かに息を吐くと、そのまま一息吸いこんで、より深く口
づけてきた。苺の肉片をそのままに、舌先で歯列をなぞり、そうして舌を絡めてくる。
最早香りの褪せた果肉が、2つの舌に押しつぶされて、最後の微かな酸味を漂わせた。

ぐちゅ……くちゅ……

卑猥な響きを帯びた生々しい音は、絡めた舌と唾液のせいか、それとも何度となく互いの口の中
を行き来した生暖かい苺の残骸ゆえなのか――まるで追い立てられるように土田の腕は自然と
金子の腰を擁き、金子の手は土田の頬に触れ、その硬く短い黒髪に触れ、そうして抱えるようにそ
の頭を擁く。

熱い――それは、金子の熱が腕から伝ってきているのか、それとも己の身体から発しているのか
よく分からない。恐らくは、どちらもそうなのだろう。

土田は腕の力加減に気を遣いつつ圧し掛かり、床に金子を押し倒す……が、イマイチ滑らかな動
作ではなかった。少々性急だったのか、金子は尻もちをつくようにして畳の上に転がった。その上
に圧し掛かった自分は、少し位置が上方だった。だが、金子はそのことには何も反応しなかった。
ただ、艶っぽい目で見上げてきては、再び腕を首の後ろに回してくる。

『つちだ……来いよ……』

微かに口元に笑みを浮かべて、そうしてもう一方の手の細い指先をシャツの上から胸の辺りに触
れさせて、そのまま撫でるように腹部へと降ろしてゆく。同時に熱い吐息に顎の辺りを撫でられて、
微かな目眩を覚えた。

「金子……」

土田は、まるで無意識に吸い込まれていくように、緩やかなカーブを描いたその口元に唇を寄せ
る。そうして、丁度唇が触れるか触れないかという辺りまで近づいた時――

コンコンッ

続いて、座敷の襖のさらに先にあるドアの開く音がした。

「お客様、失礼いたします。お食事の方はお済みでしょうか」




『!!』

ドカッ

「っ!」

土田は上半身を両腕で横の方に力強く押しのけられ、さらには金子の足に残っていた左足を払い
蹴りされた。唖然とする土田を尻目に素早く起き上がった金子は、後ろ髪をささっと右手で撫でつ
け、空いた左手で土田に無言であっちへ行け、とばかりに手で追い払う。

いや、間違ってはいない。確かに、仲居さんが襖を隔てた外側に居るのだ。この状態はまずい。

「……」

迅速に座敷の座布団の上に移動する金子の横で、土田はのっそりと立ち上がった。

――間違ってはいないのだが……。

行き場所に迷った土田は、窓際に向かう。背後で、金子の極めて涼やかな声が聞こえた。

『あぁ、はい、もう粗方済んだので、宜しくお願いします』
「はい。では失礼いたします」

すすすっと襖の開かれる音。

少し開いていた窓をガラッと開けた土田は――窓の外に向けて溜息をつくのだった。





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