CHAPTER 1 : HEARTS GONE APART - after the story


金子が珍しく――初めてかもしれない――自分と同じ時間に家を出た。
宵っ張りで朝の弱い金子が、午前中の授業で早めに出かけることはまずない。大抵はギリギリで、
時には授業そのものをさぼってしまう。
逆に自分は、貧乏性なのだろうか、少々早めにでなければ落ち着かない。それは、大学の前に剣
道場で朝稽古をしたいということもある。普段の稽古は夕方からだが、剣道場の裏の勝手口から
の自由な出入りは許可を得ていたから、週に最低3度は早朝に立ち寄り、素振りをしたり瞑想など
をしている。そうすると、気分が落ち着くのだ。
だが、剣道場に立ち寄る予定がない日にも、やはり早めに出てしまうのは、それが身についてし
まったからなのだろう。

今日も、自分は道場に寄るつもりだった。だから、通常授業に間に合う時間よりも、1時間半は早く
家を出ていた。

『俺もちょっと寄る所があってな』

そういって俺と共に家を出た金子は、予定通りの時間に出られたことに満足しているのか、それと
もこれから寄る場所に嬉しいことがあるのか、いつもより楽しそうだった。
朝方目を覚ました時には相当に眠そうだったが、さすがは金子。出かける時にはすっきりした顔を
して、身だしなみも完璧に整えていた。

「この時間は電車のラッシュに遭うから嫌なんじゃなかったのか」
『ああ、いつもはな』

まるで語尾に♪でも付きそうなその口調――やはり、金子の機嫌はいつもより良いようだ。
そんな金子を見ていると、こちらまで心が温かくなってゆくような気がするから不思議だ。学校で
しか会う機会のなかった頃は、金子といえば、すましていて、時折余裕たっぷりの笑みを浮かべて
いるところしか見かけなかったが、実は案外表情が豊かなのだとは一緒に住んでから分かったこ
とだ。
そんな発見が出来ることを嬉しいと思い、新たな一面を好ましいと思うのは、この男との同居を
自分が肯定的に受け止め始めているからなのかもしれない――



『……さすがにすごい混みようだな』

既に寿司詰め状態の電車内に、俺達は何とかして乗り込んだ。
最後の方に乗ったからドアの傍を確保出来たが、身体を少し動かすことも困難な状態であるのは
どこの場所でも変わらない。

自分のすぐ目の前に居る金子は、独り言とも話しかけているともつかない声で一言呟くと、その
まま黙った。
その状況に呆れたように眉を顰めた金子の白い肌は、頬がうっすらと蒸気し、人混みに紛れ込ん
だせいで少しばかり乱れた前髪がおでこに張り付いている。

電車が出発して車内が揺れると、隣りの男の体重がかかったのか、金子が僅かに顔をしかめた。
だから、カバンを持っていない方の腕を、その男と金子の間を遮る様に伸ばして、扉のガラスに手
をついた。こうすれば、金子の前方と左隣からの圧力は支えることが出来る。金子の背後は電車
の扉だし、右隣は座席の側面だから、金子への負担はこれでかなり軽減されるだろう。

『――腕の見せ所、か?』

金子はすぐにそれに気づいて、目線を送ってくる。

「これ位なら、役に立てる」
『ああ。充分だな』

金子が艶やかな笑みを浮かべる。
誰かの役に立てるということは嬉しい。況してそれが友人以上の間柄の人間ならば尚更だ――



「?」

電車が2駅目を通過した頃だろうか――一瞬、己の身に微かな違和感を感じた。
混んでいるのだからそんなこともあるだろう、と思い直して電車の外に目線を送る。
だが、それはまだ、全ての始まりでしかなかった。

「?!」

すぐさま、再び感じる違和感。明らかに感じる、ソレ――俺は気のせいなのか、もしくは気のせいで
ないのならそれは何なのか、考えた。
答えはすぐに出た。それは考えた結果導き出された訳ではなく、ソレを直に感じたからだ。

「金子……」
『何だ?』

俺が僅かに見下ろすと、金子は、俺の目線に気づいて爽やかな笑みをこぼした。
奴の手は明らかに自分の下腹部に当たっているというのに、それとは明らかに不似合いな、清々
しい程の笑顔――

「……少し隙間は作れないのか」
『無理だな。分かっているだろ』
「しかし……っ」

そう言い掛けて、一瞬息が詰まる。
触れてくる金子の手が、動いている――

「おい……っ」
『だから、何だ?』

金子は意味ありげな目線を流してきたかと思うと、ほんの一瞬、にやりと笑った。
その笑みで、確信犯なのだと悟った。だが、自分ではこの現状をどうすることも出来ない。片手は
カバンを持ったまま下に固定されているし、もう片方の手は扉について背後と横からの圧力を支
えている。それに自分と金子は互いに向き合った状態で、2人の身体の間には殆ど隙間がないか
ら、金子の手をどかすことも離れることもままならない。
俺が身動きの取れない状態なのだと、金子はよく分かっていた。いや、分かっているからこその
所業なのか――ロングコートの袷から手を差し入れ、ズボンの上から何度も細く、長い指でなぞり
上げてくる。

「……っ!」

俺が無言で耐えると、金子は何食わぬ顔をして見上げてきた。

『なあ……あとどれ位乗っているんだったっけ?』
「……知らん……っ」

金子は平然と喋りながらも、動かす手を止めようとはしない。

『何だよ、知ってるくせに……冷たい奴だな』

金子はまるで、仕方ないな、と言わんばかりの表情で僅かに肩をすくめる。
こちらはそんな場合ではないというのに……!

そうでなくとも車内は暑い。皆が皆上着を着たまま、こんな狭い空間に互いに密着して立ってい
るのだから当然だ。そこにきてこんなことをされては、堪らない。

「っ……何故、こんなことをする……」

俺は極力声を抑えるようにして問うた。

『こんなことって?』
「……だから、……っ」

こんな公衆の面前で、俺が同性である金子に向かって具体的なことを言える訳がない。そもそも
金子は自分よりも華奢だし、虫も殺さぬような上品な顔をしている。そんな男に、股間を触るな、
などと、一体誰が言えようか。周囲にそれが聞こえたとしても、この男のことだ。上手い言い逃れ
の方法などいくらでも思いつくだろう。それどころか、この体格差だ。下手をすると、自分の方こ
そ痴漢呼ばわりされかねない。
それを、きっと金子も分かっているのだ――



それからの僅か10分弱の乗車時間が、土田にはまるで1時間にも2時間にも感じた。
金子は最後まで、ついぞシラを切ったまま、土田の下腹部を緩々と悪戯し続けた。

目線があっただけで逃げ出されることもある程、周囲からは強面だと言われるこの俺が、まさか
電車内で、しかも同性で、同級の(ついでに言うと+同棲中の)男に痴漢されるとは思ってもみな
かった。しかも、その男は大学では随一の切れ者で通ってる金子だ。恐らくこんなことを信じる者
は、万一話したとしても、1人もいないだろう。


『――つまらないな。もう着いたのか』

目的の駅に近づき、電車が減速をし始めた頃、金子は薄い笑みを浮かべながら言った。
だが、自分にはそんな余裕はない。
あんな触られ方をしたら、当然反応してしまう。しかも身動きが殆ど取れない中で10数分もそんな
ことが続けば、現状あの部分がどういうことになっているかは、当然語らずとも察するに余りある
だろう――

「……金子、恨むぞ」

俺は頬に汗が伝うのを感じながら、一言呟いた。

すると、金子は一瞬目を見開いてこちらを見、わざとらしくも心配そうな顔をする。

『大丈夫か?俺にかかるはずの負担を一身に受けたからな。あちこち筋肉が硬くなってるんじゃな
いか?』

当然、”アソコを硬くさせたのはお前じゃないか!”などと、言えるはずもない。

俺が言葉を失っていると、金子が耳元に顔を近づけた。
電車がゆっくりと停車する。
その時、金子は他には聞こえない程の小声で、囁いた。

『なあに、悪く思うな。バースデーカードの礼だ』
「?!」

――まさか、金子は未だ拘っていたのか?
単なる詭弁なのかもしれないが、そんなことを言われると、もしかしてずっと金子は怒っていたの
だろうかと思う。もしそうであれば、俺のことをやけに拘っていただのなんだのと言っていたが、
自分の方こそよっぽど長い間拘っている。尤も、単なる口実であるという可能性も、金子であれば
充分にあり得るのだが。

そんなことを考える内に電車の扉が開くと、人混みと共に、雪崩のように背後から圧力がかかって
一気にホームに降ろされた。

『じゃあな。俺は寄るところがあるから』
「は……?!」

勿論、金子にこのあとの責任を取ってもらおうなどと思っていた訳ではない。これから剣道なの
だし、その後は大学の授業なのだし、第一今は昼間なのだから。

だが、この状態で1人で置いていかれて、俺にどうしろというのだ。
冬であるためロングコートを着ていたのは本当に不幸中の幸いではあったが、だからといって、
今現在、何とか解消しなければならない状況であることに変わりはない。

だが、金子は人の肩をポンと叩いて、艶やかな笑みを浮かべた。

『付き合ってやれなくて悪いな』
「……って、おい、金子!」
土田の低音は、人混みと、そしてホームの反対側に到着した電車の音で完全にかき消された。
金子は明らかに悪いなどと感じていないような捨て台詞を人の耳元で囁くと、あっさり人の雪崩
の中に消えていった。その後姿は、どこか軽やかで、楽しげな足取りですらあった。

この時ほど土田が余裕をなくしたことは、彼の人生の後にも先にもなかっただろう――





『くっくっ……』
既に土田とは別れて1人だというのに、こみ上げてくる笑いを抑えられずに思わず声がでてしま
い、急いで顔を引き締める。駅の階段を降りながら、先程までの土田の様子を思い出した金子は、
楽しくて仕方がなかった。

バースデーカードの誤解から、しつこすぎる位の情事にもつれ込み、後に散々な苦痛を味わった
あの日から早3日。
最終的には、あの件に関してはよしとしていた。互いの誤解の元も自分は既に分かっていたし、誕
生日詐称の件もバレなかった。おまけに土田の嫉妬などという天変地異にも似た驚きまであった。
得るものもあったのだからいいと思っていた。
だが、あの痛みの数々は寛大な心で以って許してやるとしても、自分がかなり一方的にやられた、
という事実については、話が別だ。
確かに最初のきっかけがきっかけなだけに、自分は完全に受け側になってしまっている。
しかも最近特に、それに対してまんざらでもなくなってきていることもまた、決して土田に言えは
しないが、事実ではある。だが、それであって多少なりとも自分のペースでコトを進めたいたい、と
いう気持ちはいつもある。いや、むしろ誰よりもある。最終的に受ける側に立たされる身としては、
尚更、途中までは自分も余裕でいたい。
――なのに、だ。
この間は一方的に手だけで達かされたことから始まり、あれやこれやとやられっぱなし。
まあ、何だかんだ言いつつも乗ってしまった自分にも多少の非はあるが、とはいえいくらなんで
もあれは少々自分勝手じゃないのか、土田?と思う訳だ。

だから、ちょっと悪戯してやろうと思った。
そう思ったからこそ、今日はわざわざ慣れない早起きまでした。土田の出る時間に合わせる為に。
立ち寄る場所があるからなどと言ったが、そんなものはちょっと新譜のCDでもチェックしてみよう
か程度な訳で、つまり今朝の早起きの第一目的は当然そんな立ち寄りなどではなく、電車で土田
に悪戯してやろう、ということだった。

そして、それは上手くいった。
正直なところ、土田の表情だとか反応だとか見ている内に自分の方まで興奮してきそうになった
が、そこは何とか抑えた。だが、土田の方は危険なところまでいっていただろう。それは、触って
いた自分が一番よく分かっている。

――まあ、多少下着を湿らせてしまったが、あいつは剣道場に立ち寄るつもりで着替えも持ってい
たから大丈夫だろう。

金子は物事を楽観的に考えていた。何より、普通ではないあの状況下を結構楽しんだのだから、
もうそれだけで良しとしていた。土田のその後については、まあ同情する気持ちもない訳ではな
かったが、やはり己の欲求には勝てない。
最終的には、まあ大丈夫だろう、の一言で片付けたのであった――





一方、土田のあの後について、知る者はいない。

駅からもの犯罪でも犯しそうな物凄い形相で走り去る大男がいただとか、果し合いでもしている
のかと思う程気合の入った声が剣道場の方から聞こえてきて、近所の人が震え上がったとか、そ
んな噂が暫くその辺りで囁かれていた――らしい。





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