CHAPTER 1: LIVING TOGETHER 〜追憶―昭和の記憶


ある日曜日の朝――
布団以上に暖を与えてくれる巨大なクマのぬいぐるみが、俺に断りもなく自分の傍らを離れてい
こうとした。

『……起きるのか』
俺はクマのぬいぐるみに話しかける。
「ああ。外出するが、昼過ぎには戻る」
『外出……?どこに行く?』
俺はクマの……もういい加減くどいので、呼び名は土田に戻しておこう――の言葉に目を開けた。
「江ノ島に」
『江ノ島?何故?』
「親父の恩師が江ノ島の近くに住んでいる。もう80近いんだが、先日その奥さんが亡くなったと親
父から聞いたので、親父の代わりに焼香に行こうと思っている」

土田の父親の恩師の奥さん――自分との関連は限りなく無に近い。おまけに昼過ぎには帰る、と
言っている。ということは、今の時間はかなり早いはずだ。俺はこのまま土田を見送って、再び眠
るべきだろう。次に起きたら、土田も帰ってきている頃かもしれない。

だが――

『今、何時だ』
「今は7時10分前だ」
『やっぱり早いな……』
俺は独り言を言いながら上半身を起こした。

「金子……?」
『俺も起きる。車で送ってやる』
「お前の気持ちは有りがたいが……俺ならば、電車で行くから大丈夫だ」
『いや、俺も江ノ島に行く』

俺はきっぱりと言った。
――何故かは分からない。だけど、俺は行った方がいいと直感していた。

『何も一緒にその恩師の家に上がりこむつもりはない。俺は他人だからな。傍の海沿いの店で食
事なり一服なりでもしているさ。鎌倉の方へは、俺も何年も行っていないからな。冬の海を眺める
のもたまにはいい』

俺はさらなる言葉を、さりげなく続ける。これで土田が黙って承知するであろうことを、よく分かっ
ているからだ。案の定土田は黙った。そうして一言、礼を言った。軽くお辞儀までして。
相変わらず、律儀な男だ。一緒に住んでもこういう所は全く変わらない。

――お前はいい男だな
そう言いたくなったが、勿論それは口には出さなかった。口にすれば、きっと土田は困ったような
照れたような顔をするのは目に見えている。そんな顔を見るのも好きだったが、今それを言うと、
何だか言葉だけでは足りなくなりそうな気がした。今はそんな場合ではない。そんな時間はない。
あとでゆっくり……いやいや、だから、今はそんなことを考えてる場合じゃないだろう。

俺はベッドから降りた。
『俺の方が用意が遅いから、俺が先にシャワーを使うからな』
「わかった」
土田はこういうことで仕切られても、不満を言うことはまずない。
この男、こんなごついナリだが案外奥さんにしたらいい奴なんじゃないかと、こういう時思う。
料理も掃除も卒がないしな――俺はバスルームに向かいながら心の中で密かに笑った。





土田の父親の恩師の家は、江ノ島より少し内陸に入った所にあった。
俺は土田を家の前まで送り届けると、湘南の辺りで遅い朝食を取ることにした。
土田は朝ごはんをきっちり家で食べたが、自分はそれよりもコーヒーを飲んでゆっくりと一服した
い。だから当然、朝食を取る時間はなかった。

――俺は何で一緒に来たんだろう?

レストランでゆったりと食事前に一服しながら、ふと思う。
別に土田とドライブがしたかった訳ではない。別にしたくない訳でもないが、そんなものは今日で
なくともいいことだ。第一土田という男は口数が少ない。ただ黙って横に座っているからといっ
て、ときめく程俺は女々しくはない。
江ノ島も、正直な所どちらでも良かった。確かにこの辺りにはここ暫く来ていない。無論、海岸沿い
のレストランで海を眺めながらの食事も悪くない。だが、どうしてもそれがしたかったのかと言え
ば、そうでもない。何も、いつもよりずっと早い時間に起きてする程のことでもないのだ。
勿論、土田を車で送迎してやることだって別に構わないが、動機としては弱いものだった。

何となく――
理由は、ただそれだけだった。確かに朝、土田が江ノ島に行くと聞いた時、俺は何故だか一緒に行
く気になったのだ。直感、というには何だかもやもやと曖昧な気分だったし、その提案にすごく魅
力的な響きを感じた訳でも何でもないのだが、何故か、俺は行かなければと思った。
これって、何だ?
確かに勘が働かない方ではないし、嫌な予感とかいうのもまんざら外れない方だ。
だが、これはそれに当てはまるのだろうか――自分でもよく分からなかった。





1時間程レストランでゆっくりしていただろうか。コーヒーを飲みながら持ってきていた本を読んで
いると、土田から携帯にメールが来た。土田には、家を出る少し前にトイレを借りて、予めメールで
大凡の帰る時間を知らせるよう言っておいたのだ。
”あと10分位で失礼する”――その一言しか書いてなかった。10分前じゃ間に合わないだろう。
大体、一言とはシンプル過ぎる。もう少し、例えば、待たせていてすまない、とか、今は何をしてい
る?とか、そんなちょっとしたコミュニケーションがてらの気遣いの言葉位付け足すべきではない
のか。
こういう男を世間では、無駄のない男と評するだろうか。いや、愛想のない男と評するに決まって
いる。あとは人によってそれが気になるかならないか、というだけの問題だ。
ちなみに俺は気になるが、一方であいつらしいと思ってしまう――待て、これは決して惚れた弱み
じゃないからな。
――て、誰に向かって俺は反論してるんだ?

それはともかく、俺はチェックを済ませて土田を迎えに行くことにした。





「ついでに、海を見ていかないか」
車に乗り込んだ土田は、車が動き出してすぐに言った。
『――まあ、せっかくだからな』

冬の海は寒い。しかも自分は先程レストランで海を眺めてたから、別に敢て海沿いまで足を運ばな
くてもいい。だが土田は恩師の家に行っただけだ。確かにここまで来て、それだけで帰るのでは
勿体ないだろう。

だが、そういうことではなく……いや、気のせいだろう。
何故か、一瞬自分の胸の奥底に形容しがたい、湧き上がるものがあった。でも、それはきっと気の
せいだ。何故なら、それが何かも分からなければ、そうなる理由も全く見当たらないのだから。

車をコインパーキングに停めると、海岸に向かって歩き出す。
『寒い……』
セーターも着ていたし、厚手のロングコートだって着ていた。だが、さすが海沿い。
潮風が冷たい。
「これを使え」
土田も似たような格好をしていた――いや、もしかしたらロングコートは自分より若干薄めかもし
れない――が、カシミアのマフラーをしていた。そうしてそれを自分の首から外すと、俺の首にか
けようとする。
『別にいい。お前だって寒いだろう』
「いや、俺はお前ほど寒いとは思わない」
土田がマフラーをくるりと俺の首に巻く。土田の熱で十分に暖められていたそれは、俺の首だけ
でなく胸の辺りも暖かくした。
……いや、待った。この台詞は撤回だ。女のようにときめいていると思われるのは、不本意だ。

――だから、俺は一体誰に向かって主張してるんだって。

それはともかく(2度目か)、海が間近に開けていく。冬の、いつもより濃い色をした果てしない海。
今日は波がイマイチなのか、寒すぎるのか、サーファーも、人影も遙か遠くに影が見えるだけだ。

「この辺は初めてだ」
土田がポツリと言った。
『そうか。お前の生まれた所から海は遠かったのか?』
「ああ。俺の実家は山の方だ」

鹿児島県の山中(?)で生まれ育った土田には、海は特別な何かがあるのだろうか。
土田は波打つ海際に近づいていく。

その時――心臓がどくんと脈打った。
何故かは、本当に分からない。
だが、海に向かう土田の背中を見た俺を、例えようもない不安が襲ってきた。
何なんだ?一体、何だと言うんだ?
自分にも分からない。だが、咄嗟に思った。俺は止めなければいけない、と――

『土田っ!』
まださほど土田との間に距離は無かったというのに、俺は土田を大声で呼ぶと、その背中を追っ
て、急いで腕を掴んだ。

「金子……?どうした?」
俺は、何と言ったらいいのか分からなかった。
「何をそんなに気の急いたような顔をしている?俺が海に入ると思ったのか?」
『いや……その……入るつもりだったのか?』
「まさか。冬の海にいきなり飛び込む程俺も馬鹿ではない。それは自殺行為だ」
『自殺?』
「いや、ものの例えで言っただけなんだが……」
『……』

――何だろう?この動悸は?
怖い。こいつが海に入ろうとするのが、怖い。

「……金子?お前も……夢を見た事があるのか?海の夢を……」
『え?夢?』
「いや――実は昨夜、俺は海の夢を見た。よく分からないが……自分が海中に漂う夢だ。親父から
焼香を頼まれていた後のことだったから、俺は早く江ノ島へ行け、ということなのかもしれないと
思っていたのだが……」
『……俺は別に夢など見ていない。ただ……』

海中に漂う夢を見たくせに、何故海になど来ようとするんだと思った。
そりゃあ、ウェットスーツでも着て漂っているなら話は別だが、それは漂うというのとはちょっと違
うだろう。だが、いずれにしろ、俺の不安は土田の夢と奇妙にリンクしている気がする。

「金子……大丈夫か?」
『え?ああ、大丈夫だ。……ただ、俺は何となく予感がしただけだ。お前が朝、江ノ島に行くと言っ
た時も、お前が海を見ていこうと言った時も、それからお前がさっき海に向かって歩いていった時
も――嫌な予感が』
「嫌な予感?」
『……俺だって、よく分からないさ。とにかく、こっちへ来い』

俺は土田の腕を掴んだまま、海とは逆の方向に引っ張って歩いて行った。
とにかく、どうでもいいから海から離れたい。理由は分からないが、とにかく土田に海はいけない。



俺は道路近くまで歩いてきて、土田の腕を離した。
これならば、波も土田を飲み込めない。

『とにかくな、海は止めよう。こんなに近づく必要はないんだ。海が見たいなら、遠くからでも眺め
られる。泳ぎたいならプールに行け。海に行くな』

言っていることがメチャクチャだ。未だ何も起こってないというのに、ましてその根拠など、夢と
同じ位あやふやだというのに、俺は土田に海に近づかないよう諭そうとしている。
だが――土田はその理由を問うでもなければ、反論するのでもなく、意外なことを言った。

「――お前がそんなに言うのなら、止めよう」
『え?』
あっさりと納得されて、驚いた。自分でさえ言っていることがおかしいと思っていたのに。
「いや、よくは分からないが……お前を見ていると、その方がいいのかもしれないと思った」
『俺の言い分がおかしいとは思わないのか?嫌な予感といったって、何がしかの確証がある訳で
も何でもないんだぞ?』
何故か俺は逆の方向に土田を説得しようとしていた。
いや、自分でも自分のしていることも、言っていることも、何だかあまりに奇妙なものだから、それ
に同意してもらいたいだけなのかもしれない。俺の気のせいだと、そう言われて相手にされない
方が却って気が楽だ。
そうすれば、あの嫌な予感など単なる冗談として、あっさり消えてしまうんじゃないか――

「お前が俺を止めるのも予感だというのなら、俺がお前の言う通りにした方がいいと思うのも、単
なる予感だ」

それなのに――土田は俺の予感を真っ直ぐ受け止めてしまった。
もしかして、土田も何かを感じ取っているのか――その方が怖い。

『海に行くなよ。どんな事があっても、10m以上……いや、20m以上近づくな』
「ああ」

俺は気が付いたらまた土田の腕を掴んでいた。
何してるんだ、俺は、とふと気が付いて急いで離したら、今度は土田が俺を抱き締めてきた。

――……は?ここは外じゃないのか?
辺りに人は殆ど見えないとはいえ、道路は車も通ってるんだが?しかも高台の住宅から俺達は見
えるんじゃないのか?もしどこぞの美しい女性とかが犬の散歩とか何とかいって歩いてきたら、
お前はこれをどうフォローするつもりなんだ?大の男が海辺で昼間っから抱き合ってるなんて!

俺は土田の身体を突き放した。

『何やってるんだ、お前は!ここは外だぞ?!』
「知っている」
『知っててやるのか?!大学の友達には一緒に住んでるなどと言えない、なんて言っておきなが
ら、これは何だ?!この方が却って恥ずかしくはないのか?!』
「――俺はただ……俺を心配してくれているお前の気持ちが嬉しかったから……」
『それとこれとは別問題だ!馬鹿!そんなことは家でやれ!もう、帰るぞ!』

――ん?今、俺は何か恥ずかしい事を言わなかったか?言ったような気がするが……まあ、いい。
気づかない振りをしよう。さっさと車に向かってしまえばいいんだ。

そうすれば、この赤い顔を見られずに済むんだから――




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