EPISODE 1 :


時は昭和63年(1988年)初春――


Das Leben ist schon, wenn es nicht zu heis aber nicht zu kalt ist.


……よし。

我ながら、今回ははっきりと自覚できる程に順調にペンが進んだ。締め切り前に原稿が上がるなど、3年前に
デビューしてこのかた、自慢じゃないが初めてではなかろうか。一体どうしたものやら。
やはり、この地に別荘を買ったのは正解だったかもしれない。生まれ育った都会での生活に満足しているもの
の、たまには田舎で過ごすのも悪くない。ヨーロッパへは何度となく行っているが、ヨーロッパの田舎と日本の田
舎では少々趣きが違うものだ。ヨーロッパの方が肌に合うと自分では思っているが、どうやら20代も半ばを過ぎ
ると、少しずつ意識というのも変わってくるらしい。

――とはいえ、フランスに続いてオーストリア旅行記の連載が当っている今、日本の情緒なんぞに浸っていて
は作品にも差しさわりがあるかもしれないが……。

そんな他愛も無い事を考えながら、たった今仕上げたばかりの原稿に目を落とした。

『Das Leben ist schon, wenn es nicht zu heis aber nicht zu kalt ist……』

章の終りに添えたドイツ語を目で追いながら、無意識の内に声に出して呟く。

日本語にすれば、人生は熱くもなく冷たすぎることもない、そんな状態が美しい――とまあ、そんな意味では
あるのだが、これは自身のこれまでの人生を総体的に考えた上での実感でもある。
少々贅沢を言えば刺激というか、ジグソーパズルでいう一欠けらの欠如というか、満ち足りたというには、何か
が僅かに足りないような気がしなくもないのだが、恐らく人生とはそんなものだ。
一片の欠如を追い求めるなど、きっと見果てぬ夢を追い続けるようなもので、分別のつく大人がすることでは
ない。況して自分には、公私共に恵まれていると自覚があるから、尚更だ。

――幸福とは、きっとこんな風に緩慢なのだろうな。

望みうる形での達成感とでも言おうか――そんなものを感じて、自然表情は緩んだ。
実際、文句などつけるつもりはなかった。つけるべきところなどなかったし、そうする理由もないのだから。





『ちょっと、街まで買物に出てくるよ』
「車を出すよう夫に言いましょうか?」
箒で玄関口を掃除していた中年の少々ふくよかな女性が、顔を上げる。別荘の管理人の奥さんだ。
『いや、いい。有難う。どうせ、歩いて30分もあれば行けるからな。今日はいい天気だ。散歩がてら、ちょっとぶ
らぶらしてくるよ』

原稿が上がって心に余裕ができたら、何やら急に外へ出たくなった。
こんなに自然に恵まれた環境に居るというのに、新しく建ったばかりのこの別荘に来て1週間――あまりに順調
にペンが走りすぎて、家の庭にすら出ていない。さすがに外の空気が恋しく思えた。



高原らしい、少々肌寒くも心地好い風に吹かれながら30〜40分ほど、なだらかな山道をゆったりと歩いて
下っていくと、山と山の谷あいから駅と、そしてその周辺に開かれた小さな町並みが見えてきた。

――さすがに、昔とは変わってしまったな……

駅まで歩いてくると、駅前の小さなロータリーを囲んだ商店街は、小ぎれいな建物が目立つ。
コテージ風に建てられた土産物店、明るい雰囲気のベーカリー、香ばしいコーヒー豆を挽く薫りが漂う落ち着
いた雰囲気のコーヒーショップ――どれもこれも、10年前にはなかった店ばかりだ。


この辺りは、昔から高級別荘地として有名だ。駅から少し離れた西側の一帯は、古く明治や大正の時代に
は華族や名士、外交官などの別荘が立ち並ぶ上流階級の社交場のようなところだった。
尤も、今では別荘として使われている建物も半減し、戦時中に取り壊されたものや、資料館や歴史館だの
といった観光スポットに変貌している物件も多い。
この駅前も、かつてはあまり開けた場所ではなかった。元々別荘に住む人間は車で来る者が大半だったから、
そもそも駅を利用する人口が少ない。この辺りに立ち寄ることがあるとすれば、別荘に滞在する者や少ないな
がらも地元に住む住人が食料品や日用品の購入や、お茶に立ち寄る程度だった。

だが、今はすっかり変わってしまった。

恐らくはここ数年の間にできたのであろう、新しいお店が目立つ商店街を少々異質な思いで眺めながら、歩
いていく。駅の周辺がこのように変わったのは、ここ数年の記録的な好景気に湧いて北東の辺り一帯にニュー
リッチ層を狙った、新しい分譲別荘が次々と建てられたせいだ。滞在する人口が増えれば、自然訪れる人数
も増える。そうなれば、がらんとした駅ではニーズに追いつかない。
……まあ、自分も例に漏れずつい一ヵ月程前にその北東の一角を別荘として購入したのだから、駅周辺が
便利になってくれることに不満はないのだが。


――確かこの辺りに……

所々にぽつんぽつんと残る少々古めかしい建物を目で追いながら、駅から放射線状に伸びた商店街を歩い
ていく。そうして1本に続く商店街もその半分以上を過ぎた頃――

『あ……』

この辺りのはずだと目星をつけていた場所まできて、思わず小さく声を上げた。
幼少の頃家族と共に何度か来て、最後に1人で立ち寄ったのは10年程前だ。だが、その記憶にある懐かし
い洋食屋の建物は、既に影も形もなく、代わって全く見覚えのないブティックが建っていた。

――閉店……それとも移転したんだろうか。いや、確か、あの当時でオーナーは60才を越えていた。となると、
移転の可能性は少ないかもしれない。

最後に来たのは10年前――とすれば、オーナー夫妻は今現在70歳を越えているはずだ。店をたたんでしまっ
ていても、不思議はない。少々落胆した思いで辺りをくるりと見渡すと、ふと記憶の片隅に引っかかる何かが
視界に入った。それは、ここから2軒先にあった。
店の前まで歩いていくと、既に文字も殆ど消えかかったような懐かしい、古本屋の看板がそこにあった。

ちょっとした安堵感の一方で期待に胸をざわつかせて、少々がたついたガラス戸を横に引く。

『こんにちは』

入った店先で声をかけると、奥の方で背中を丸め、A4サイズのノートのような物を見つめていた年配の男性
がゆっくり顔を上げた。

「いらっしゃい。何か探し物でも……お……?お客さん、初めてじゃないな……んん……?ああ、ダメだな、
年取るとホントに物覚えが悪くて……いや、すまないね、確かに覚えてるはずなんだ……えーと……」

男性は老眼鏡を外すと、何とか記憶の中から探り出そうと、唸りながら頭を掻く。すぐに名乗り出るのも失礼
かと思って暫く待ってみたが、どうやら助け舟を出した方がよさそうだ。

『お久しぶりです。おじさん。金子です。かつては夏の季節にこの上の別荘に滞在していた――』
「あぁ……!ああ、そうか!あの西の上の方の別荘の、金子家のお坊ちゃんか……!確か、みつ――」
『光伸です』
「おお、おお、そうじゃそうじゃ!光伸くんだったな!こりゃ、懐かしい……!」

もう70代も半ば近いであろうご老人が、丸椅子から膝を押さえながら立ち上がると、こちらに近づいてくる。

「いやあ……何年ぶりだい……もうすっかり大きくなって……」

こちらを見上げた老人が、嬉しそうにぽんぽんと腕を叩く。

『最後に立ち寄らせていただいたのは、15年程前です。あの頃、こちらにはすっかりお世話になりまして……』
「いやいや……世話になったのは、こっちの方だ。よーく覚えてるよ。よく、何冊も小説を買ってくれただろう?そ
れに、いつも礼儀正しい、いい坊ちゃんだって感心してたんだよ。……しかし、15年かあ……子供が大きくな
るのは、本当にあっという間だ。そうそう、ご家族は皆お元気かい?」
『はい。親父さんこそ、お元気そうで何よりです』
「いやいや……もうすっかり老いぼれだよ」

――懐かしい。
小学生だったあの頃に見上げていたおじさんは、今ではすっかり自分が見下ろす立場になってしまったけれど、
それでもこうして話していると、まるであの頃に戻ったようだ。

幼少の頃は、避暑地でもあるこの地に夏の間来ることが多かった。既に子爵家などという古めかしい肩書き
はとうになくなっていたが、それでも明治末期に祖父が建てた洋館風の別荘は未だ人手に渡らず、あの頃も、
そして今も金子家が所有している。
そもそも実家の別荘があるにもかかわらず、比べ物にならない程ささやかとはいえ同じ地に新しく自分で別荘
を購入したのは、半分はここで過ごした幼い頃の思い出のせいだろう。幼少の頃病を得ていた自分にとって、
ここは避暑地ばかりでなく、療養の地でもあったから、決してこの地に楽しい思い出ばかりがある訳ではない。
だが、やはりここにいると落ち着くのは懐かしさゆえだろう。
……まあ、今はそんな複雑な思いについてはともかく、それでもこの古本屋と2軒先の洋食屋は自分にとって
は楽しい思い出だ。通った分だけ、お世話にもなったし、心の支えですらあった時期もあるのだから――


『そういえば――子供の頃の記憶なので、名前が定かではないのですが……ここから2軒先に、かつて洋食
屋があったと思うのですが……』
「ああ……坂田さんのことだな。店なら、生憎去年たたんじゃったよ。3年前に奥さんが亡くなってね……その
後おやじもすっかり元気なくしちまってたよ。店をたたんだ後、息子さん夫婦のいる静岡に行くっていってたけど
……今頃元気かねえ……」
『――そうでしたか……それは残念です』


幼少の頃の記憶というものは、時として必要以上に美化されるものなのかもしれないが、かつてあった洋食屋
のビーフシチューの味が妙に懐かしく、そして随分と美味しかったという感覚だけがまざまざと蘇ってくる。それは、
その他の温かかったお店の雰囲気や、優しかったお店のご夫婦の思い出とも混ざり合って、何か特別なもの
だとさえ思えてくるのだ。

「ほんとに寂しくなったよ、この辺りもすっかり変わっちまって……て、ああ、そうか。坂田さんとこで、お昼食べて
くつもりだったんだろ?光伸くん」
『え?あ……まあ……』

古本屋の親父さんも、まるで当時のまま、小学生だった頃の自分を相手にしているような口調で、何とも面
映い。もう20代も半ばを越えた大の大人なんだが――そう思うと、苦笑いがこぼれそうになるが、親父さんから
見れば、自分などいつまでたっても子供みたいなものなのだろう。
それに、確かにそろそろ昼時だ。洋食屋の、美味しかったビーフシチューのことなど思い出してしまったから、何
やらお腹が空いてきた。

「そうかあ……昔からやってる店も随分減ったからなあ……新しい店のことはよく分からねえしなあ……そうい
や、この前何だかチラシをもらった店があったな……。蕎麦屋なんだけど、お客の話だと、結構美味かったって」
『へえ、そうですか……』

蕎麦屋か……できれば食後にコーヒーを飲みたいんだが――そう思って、何となくあいまいに答える。

「確かこの辺りに……いや、俺は行ったことねえんだけどさ。何しろこっから20分位歩くっていうし、山麓だって
いうからさ、上り坂だろ?もっと若くて足腰がしっかりしてれば、行ってやってもよかったんだけど……」

そう言いながら、親父さんはレジのある机の辺りをガサゴソと探っている。どうやら、話題の美味しい店とやらの
チラシを探してくれているらしい。

弱ったな――そう思い、内心苦笑した。

熱心に探してくれている親父さんの後姿を見ていると、いや結構です、厚意を無にするのも気が引ける。

「……あー、あったあった。これだ」

親父さんが腰の辺りをぽんぽんと叩きながら、一枚の紙を持ってきた。

「よかったら、行ってみるかい?どうせ俺は足が悪くていけないからさ、このチラシあげるよ」

親父さんが昔からさほど変わらない、人の好い笑顔を浮かべて自分を見上げている。
すみません、行ってみます――この場合、答えはこれしか残されていないような気がした。





『それにしても……恐ろしいほどそっけないチラシだな』

チラシには店までの行き方の地図が書いてあったが、山麓を林の方に向かっていく道は単調だ。多少なりとも
土地勘のある人間ならば、地図を頼りにしなくとも大体分かる。
だからこそ、それ以外のところに目がいってしまったのだが――白い紙に、墨で書かれた手書きの文字のコピー
は、開店を知らせるチラシにしては随分と地味で素っ気無い。
大体、店までの地図の他に記載されているのは店名、住所、電話番号、開店日、営業時間、そして――
キャッチフレーズのつもりだろうか。<手打ち蕎麦屋です>の一言のみだ。あまりにシンプル過ぎる。

――手打ちなど、別に珍しくもないじゃないか。第一こんなあっさりした一文では、昨今の客は惹かれないだ
ろう。

今は空前の好景気に沸くご時世だ。グルメブームの到来でイタリアンやらエスニックやらと真新しい料理を出す
レストランがどんどんできている。
人は新しいものに惹かれがちだ。特に今はそうだ。皆が皆、一種金銭的に麻痺したような状況に陥っているか
ら、より派手なもの、お金のかかるものに向きがちなのだ。そんな時に商店街から外れた新規開店の蕎麦屋
で勝負しようなど、よほど自信があるのか、それともギャンブル精神が旺盛なのか。

確かに、最近の成金的な時世や人々の流れには妙な胡散臭さを感じるし、こんな状況が続くものか、と冷
ややかな気持ちは自分にもある。だが、一方でそんなご時世だからこそ、自分の軽妙な旅行記が当っている
のだとも自覚があるのだ。
時世の流れというものは、1人の力などでは到底変えられない。自分だけが止まったり、逆らって進もうとした
ところで、損をするだけだ。どうせ己の力でどうにもならないのならば、敢えて利用する――それが賢いやり方と
いうものだろう。

――全く、もしそのことに気づかないのだとしたら、少々同情したくなるな。

そう思いながら、手にしたチラシを指でパチンと弾いた。

これから出会うであろう、恐らくは実直で頑迷な店主に些かの冷笑と、そしてささやかな哀れみを込めて――





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