EPISODE 10 :


アルコールのせいで少々体温が上がっているのか、それとも動いているからだろうか。まだ春先だというのに寒い
と感じない。

だから、着ていたジャケットを脱いで肩にかけた。だがそうすると、今度は少しばかり肌寒い。全く、これだからこ
ういう季節は難しい。とはいえ、再びジャケットを着込む気分にもなれなくて、金子はただ小さく肩を竦めた。


土田との花見のささやかな酒宴は、振り返ってみれば、瞬く間に時が過ぎていた。

「もう12時近い。泊まっていくか」

用意した酒も粗方飲み尽した頃、土田がごく自然に声を掛けてきた。
確かに、酔っているから少しばかり目蓋が重い。おまけに動くのも少々だるい。いっそこのままごろんと横になっ
てしまいたいとすら思っていたから、それは渡りに船ともいうべき言葉だった。
だが、もう一方で躊躇する自分がいた。躊躇う理由は判然とせず、ただ掴みどころのない気持ちだけが胸の
辺りを彷徨う。

だから窓の外に視線を移し、そうして、静かに土田の提案に対する答えを出した。

『いや、まださほど遅くもないし――帰ることにするよ』



そうして、タクシーを呼ぼうという提案すら今度は幾分丁寧に断った後、土田と別れて今、こうして山麓の道を
降り、がらんとしてひと気のない商店街の中を歩いている。土田の家から商店街までは緩やかな下り道だった
が、商店街を過ぎ、駅の向こう側に渡ったあとは別荘まで20〜30分間、なだらかとはいえ山を登るようになる。
駅前でタクシーを呼ぼうか――そうも考えたが、頭とは裏腹に足は自然と小さな駅の構内を通り過ぎ、そうし
て別荘への道のりへと向かっていた。
実際、1人でいたかった。タクシーの運転手ですら、傍にいて欲しくはなかったのだ。





土田という存在は、ここでの生活空間というパズルの、一かけらのようなものだった。
それはこの別荘地で過ごす上で、大きな重要性はなくとも、欠けていてはごく小さな穴があく――そんな存在
だった。実際、土田はたまに行く食事処の店主から、時折傍にいるのが自然で、あまり気がねせずに済む相
手へと、短い間に変わっていた。だが、それ以上の何者でもなかった。

口数が少なく、実直な男――そんな土田には見せたくない心の内でもあるのだろう、ということは何となく感じ
取っていた。それは、土田が自分のことをあまり多く語らないということ以外にも、共にいて肌で感じていた。
とはいえ、そのことはあまり問題ではなかった。そこに立ち入る気はなかったし、触れるべきことでもないと分かっ
ていた。
全く好奇心が湧かないと言えば嘘になるが、敢えて聞き出そうとする程の興味の対象ではなかった。実際、
重い真実を打ち明けられる関係よりも、程良い距離間で付き合う心地よさを自分は求めていたのだ。

それなのに、今日、その「重い真実」の一端に触れてしまった。
いや、重いというのはあくまで主観でしかないが、実際、ちょっとした知り合いに打ち明けるような話ではなかっ
ただろう。

心地よい距離を保った間柄――そこに、ヒビが入った。

期せずとはいえ、そのきっかけを作ったのは自分だ。
あの一冊の大学ノート――あれが、触れてはいけない土田の過去を紐解くものであったとは知らなかった。だ
が、偶然にも自分はそれを手にした。
そして、そのことにより土田は重い口を開き、過去の一端を話した。


金子は、夜空を見上げ、そうして軽く息を吐いた。


それが、何だと言うのか――そう自問する。

気にすることではないとはよく分かっていた。
実際、気にすることなど何もない。土田だってそんなことは望んでいなかっただろう。ただ、あの場で茶化さずに
耳を傾けてさえくれれば、それで良かったに違いない。

にもかかわらず、土田との空間が、あれから少しばかり息苦しく感じた。

話した後の土田の態度にぎこちなさなどまるでなかった。いつもの、自分のよく知る土田だった。それなのに、
共にいればいる程感じた――違和感。
それは恐らく自分だけが感じていたのだと分かる。何故なら、土田の態度にはどこも不自然なところがなかった
から。だからこそ、土田はごく自然に提案したのだ。「泊っていくか」と。

では、自分だけが感じるこの違和感は何なのか。
この違和感の理由は、恐らく自分だけがそれを単なる”知人の打ち明け話”だと思わなかったからだ。いや、話
自体はそうと分かっているのに、土田自身に対して割り切れない思いを抱いたからなのだ。
では何故、土田に対して自分はそのように感じたのか。

金子は1人溜息をつき、そうして眉間に皺を寄せ、それからややもして肩を少しばかり落として首を軽く横に振
る。傍から見れば1人で歩きながら一体何をしているのかと訝しがられただろうが、幸い夜更けの別荘地へ向
かう山道にひと気はなかった。


――いっそ、知らない方が良かった。

知らなければ、今夜の花見はもっと満ち足りた気分で終わったはずだ。
心地よい時間を過ごしたと満足し、そうして、涼やかな気持ちで数日後、東京へ戻ることができただろう。

だが、実際には、そんな気持ちになれない。

話を聞いた時に感じた、土田に対する落胆と、そして苛立ち。
そんな、理不尽な感情が喉のさらに奥の辺りに、まるで濡れた砂のように今でもずっと張り付いて、後味の悪
さを残している。

何故落胆するのか。
何故苛立つのか。

そんな感情を持つ必要などどこにもないと分かっているだけに、尚更、今有る自分自身に躊躇いを感じる。

土田のことを嫌いになった訳ではない。
確かに行方の知れぬ、十中八九再び巡り会うことはないだろうと自覚している相手を思い続け、悩み、他者
との間に壁を作っている姿など、らしくない。
真っ直ぐで、正直で、そうして不器用ながらもどこかストイックな男気をあの男に感じていただけに、少々がっか
りした、というのもどうかと思うが、実際偽らざる感情として、それならば自身にも納得がいく。
だがいずれにしろ、今回の打ち明け話は、あくまで他人事だし、本来その程度のものなのだ。何だ、お前らし
くない。男らしくはっきりしたらどうだ――そう言ってあの男の肩をポンと叩けば、それで済むような話であったは
ずだ。あるいは、何だ、案外つまらない男だ、とこれ以上の深入りを考え直せば済むだけの話なのだ。
どうせ、自分はじき東京へ戻るのだから。

それなのに、何故自分は必要以上に拘っているのだろう。
何故肩を叩いて、軽く流してしまわなかったのだろう。
何故適当な距離感でもって、その場を取り繕ってしまわなかったのだろう。
一体自分は、何が気に入らなかったというのか。何に感情を乱されているのか。

もしかしたら、自分は土田という男を、色々な物事とオーバーラップさせていたのかもしれない。

慣れ親しんでいたこの土地への色褪せかけた郷愁やら、病弱だった幼い頃の純真なる他者への期待やら、
好景気に浮かれた今の世の中へのアンチテーゼとも言うべく存在への好奇心やら……そういったものをあれこ
れとあの男の背中に見、そうして、自分はそれを眺めていたかったのかもしれない。





ガチャ……ガチャン

鍵を開けられる音が僅かに聞こえて、金子はふっと意識を戻した。
目を開けば、寝室には自然の優しい光が満ちている。

いつの間にか、朝が来ていた。目を細めて少し丸めた背中の方を振り向けば、カーテンは開かれたまま。
どうやら、昨晩夜中に戻ってくると、カーテンも閉めずに眠ってしまったようだ。

やがて、階段をゆっくり上ってくる足音が聞こえてくる。金子は自然とベッドから上半身を起こそうとして、気が
ついた。カーテンを閉め忘れたどころか、布団も掛けず、洋服もそのままに眠ってしまっていたことに。
おまけに、変な眠り方をしてしまったせいか、少々頭が痛い。いや、軽い二日酔いかもしれない。

コンコン……

「お早うございます。起きてらっしゃいますか?」

寝室のドアがノックされ、外から管理人の奥さんの声が聞こえた。

『あぁ……どうかしたのか、朝はや……』

そう答えながら壁に掛けられた時計に視線を移すと、もう9時半近い。朝早く、という程ではなかったのだと気
づいて、金子は言い淀んだ。

「昨日届いた郵便物をお預かりしてましたので」

ここは別荘だから、必ずしも誰かが常にこの家に居る訳ではない。だが、郵便配達人にしてみればこの家にい
つ人がいていついないのかなど判断しかねる訳で。それに、滞在中であっても校正原稿などの大事な物が届
くこともある為、自分が不在の時は管理人さん夫妻の家に郵便物を届けてくれるよう、お願いしてある。
昨日は思いもかけず午後はずっと不在にしていたから、昨日も預かってくれていたらしい。

『そうか、すまない』

金子はベッドから降りると自身の格好を見下ろし、そうして少々皺になっていたシャツを掌で急いで伸ばして、
ドアを開けた。


受け取った郵便物は光熱費の引き落とし明細と、それに1枚の葉書だった。
窓際の椅子に座り、足を組むと金子は引き落とし明細の封書を、封も切らずにテーブルの上に置き、葉書に
視線を落とす。
葉書の差出人は、雛子だった。

端正な縦書きの文字、裏はニューヨークの摩天楼……ではなく、ハドソン川と思しき川のすぐ傍に咲く一輪
の薄紫色の花の写真だった。
雛子は活動的な女性だが、控えめで奥ゆかしい面も持ち合わせている。この葉書もそうだ。ちょっとした近況
と、明日の夕刻には帰国するというごく簡単な内容――本来ならば、電話にすれば話はよほど早い。
だが、恐らくは自分の仕事を邪魔するのではないかと気にするのだろう。雛子は国内の出張の時ですら、帰る
日をいつも葉書で知らせてくる。

美しく、賢く、それでいて慎ましさを持ち合わせた女性――だからこそ、気持ちも動いた。

父と、そして雛子の父との間で何年も前から自分の預かり知らぬところで取りきめていた、雛子との仲のお膳
立て。反発する気持ちもあったが、作家になる道を選ぶ時、家を継がぬのならせめて雛子との話は断るなと
言われた。そんな条件で将来の伴侶を易々と決められるものかと当初は突っぱねたが、といって特に他に心
に決めた相手もいない以上、断り続けることは容易いことではなかった。
作家の道を諦めきれない以上は尚更だ。
そうして、半ば自棄気味に雛子との見合いに応じたのだが――なるほど、確かに雛子は自分には相応しい。
いや、作家などという安定しない職を選んでいることを思えば、むしろ雛子は自分には勿体ない女性と言える
だろう。金子家の跡取りであればこそ、大手銀行の重役のお嬢さんである雛子には分相応な相手だったのだ。
だが、雛子は作家の道を選ぼうとしていた自分で構わないと言った。

”私は金子家の息子さんではなく、光伸さん自身を見ているのです”――雛子は見合いの席で静かに、だが
きっぱりと言ったものだ。

あの時の雛子の言葉と、そうして雛子の凛とした姿は、今でもよく覚えている。



『明日の夕刻……か』

余計な気遣いをしないようにと敢えて何時着の何便かは葉書には書いていない。だが、東京の家に戻れば
緊急用にそういった情報は全て書類として置いてある。
今日の夕方に帰京すれば、明日成田空港に雛子を迎えに行くことも出来るだろう。ちょっとした花束を用意
して、”ニューヨークでのショーは成功したのだろう?”と笑顔で迎えれば、きっと雛子は喜ぶ。

そんな姿を想像すれば、微笑ましくも温かい気持ちが広がる。

『それが、一番良いかもしれないな……』

金子は1人小さく呟いた。


このまま、夕方にはこの地を去る。
考えてみれば、ここにはもう十分居た。当初は2〜3週間の予定だったが、実際にはその倍以上滞在している
のだ。仕事も粗方片付けたのだから、次の締め切りが来るまでに少し余裕のある今が丁度良い頃だろう。
そうして、あの男――土田には、一言電話を入れればいい。

”今夕帰ることにしたよ。次にいつここを訪れるかは未定だが――来たらまた連絡するから”

そんな感じで、ただ知らせれば良い。

東京に戻れば、きっと目が覚める。

目が覚める?
何から?

分からない。ただ思いついただけだ。
だが、言い得て妙な言葉だ。

東京に戻れば、土田のことも、そうして昨晩土田に感じた奇妙な焦燥感も、きっと過去のものとなるだろう。
その感情の出所になど思いを馳せる必要もなくなるのだ。


金子は、そう決心したら少し心が軽くなった気がして、善は急げとばかりに椅子から立ち上がる。

早速、電車のチケットを取りに駅まで行こう。いや、まずは管理人さん夫妻にスケジュールを告げなくては。そう
して駅でチケットを取り、ついでに駅前の喫茶店で軽く昼食を取って帰ってくれば丁度よい。
土田への電話は、それからだ。


金子は洋服を着替えると、すぐさま行動を開始した。
管理人さんに話をすると、丁度駅前に用事があるというからついでに車に乗せて行ってもらう。駅で管理人さ
んと別れると、金子は駅に向かった。今夕の特急券のチケットは難なく取れた。
駅の構内を出てからロータリーの中央に立つ時計台を見上げる。時間は未だ11時前だ。

昼食には、少々早い。

本屋で少し時間を潰そうか――そんなことを考えていると。

「金子か」

背後から、低い声がして、少しばかり脈が跳ねる。
振りかえってみれば、案の定、そこにはあの男がいた。

『あぁ……土田か。どうした、こんな……そうか、今日は水曜、定休日だったな。買い出しか?』
「いや、蕎麦を、知り合いに届けに来た」


(何だろう)


そう言って、土田が左手に持っていた紙袋を少し挙げる。
そういえば、前に1度、土田がこの先の交番でそこの警察官と親しくしているのを見かけたことがあった。

『交番か?』
「え?」
『ああ、いや、前にな、お前が交番の前で警察官に親しげに肩を叩かれているのを見かけたことがあったんだ。
だから、 それかと』


(何だか、思考が定まらない)


「そうか……確かに、交番に届けに来た。あそこに勤務している巡査部長は、昔世話になった人だ。今も何か
と俺を気遣ってくれている」
『昔、世話になった?』
「あ、いや、刑務所で、ということではない」

急いで土田が付け加えたものだから、ああ、そうかと気付いて、笑いそうになる。出会ったばかりの頃、そう言え
ばそんな疑念を感じて、少々不躾な質問をしたことがあった。
だが、瞬間的に笑いそうになった顔とは裏腹に、心がブレーキをかけた。面白いと思ったのに、気持ちがついて
いかない。

土田への、昨晩感じた苦々しさだけを思ってのことではない。
自分は、もう半日とおかずに帰ろうと――ここから抜け出そうとしている。土田からも、土田に感じた焦燥感の
理由を考えることからも、逃げ出そうとしている。

目の前に居る土田には、一点の曇りもないというのに。どうして、自分はこんなにもやもやとしているのか……


「――金子?具合でも悪いのか」
『え……?』
「元気がない」
『あぁ……いや、そういう訳では……』

(頭が痛い。ごちゃごちゃとして、何だか気分が悪い)

金子は、思わず俯いてこめかみの辺りを押さえた。

――ああ……きっと埒もないことばかりあれこれと考えていたからだ。全く、何故俺がこんな目に……。

不意に、こめかみを押さえる自身の手の横を何かが遮る。その正体が判明する前に額が人の熱に包まれた。

「熱がある」
『は……?何を……』

予想外の言葉に顔を上げた。

「自覚がないのか」

ないに決まっている。
いや、考えてみれば朝から少々頭が痛いと感じていたが、それは熱があるとか、そんな理由ではないと思って
いた。
そうか、別にあれこれ考えていたせいではなく、昨晩倒れこむように眠ってしまったせいでもなく、まして二日酔
いでもなく、もしかして、単に熱――風邪をひいただけなのか。
そういえば、昨晩の帰り道、少々寒かった。

「来い」

何だ、そうかそうか、そんな理由だったのか……て。

『え?』

土田の奴が、有無も言わさず人の腕を掴むと、ずんずん歩きだす。

『おい、ちょっと、離せって……土田、おい、聞い――』

土田が手を挙げた。
そうして、車の前で止まった。
そうして――その中に無理やり押し込まれた。

『待て、土田?ど――』
「住所はどこだ」
『え?』
「別荘の住所だ」


続いて土田が入ってきたものだから、さらに奥へと押し込まれた。
――大体、何故こんな大男と車の後部座席に詰め込まれなければならないのか。狭いじゃないか。

だが、頭がごちゃごちゃとしていて何かを考えることが酷く億劫だった。何より、土田の迫力の前に、反論する
力も残っていなかった。だから、ただ別荘の住所を告げると、そのまま黙った。


一つ二つと深呼吸して、そうしたら、だんだんと瞼が重くなってきた。
意識がふわふわとして、その内、温かいものが頭に触れてきた。きっと、人の手だ。土田だろうか。
その手に促されて少しばかり体を傾ける。そうすると体が支えられて安定した。
人の熱に、安心した。

何だか心地よくなってきたから、色々と考えるのも面倒になって、そのまま意識を手放すことにした。





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