EPISODE 11 :


ブランコか。いや、小舟にでも乗っているのか。

だが、何やら心地よくは感じられない、少々不安定な揺れに金子はうっすらと瞼を開く。
何だ、これは?――判定不能な物が視界に広がっていたものだから、金子は瞬きした。

「手伝いましょうか」
「いや、大丈夫だ」

事態がよく飲み込めないが、何かあったのだろうか――そんなことを考えていたら、唐突に、肩を力強く掴まれ
た。さらには、膝の裏辺りにずるっと何かが差し込まれた。

『!ぅわっ』

何だ、何だ?!
思わず体がびくっとした。驚いて完全に目の覚めた金子の、すぐ間近にいたらしい男が、顔を覗きこんできた。

「起こしたか」
『え……は?』
「さすがに子供のように容易くは抱きかかえられん」

何の話をしている?

唖然とした金子は、すぐ目の前に居る男の顔をまじまじと見つめた。
土田だ。
よくよく見てみると、土田の右腕は左側から自分の背後に回され、抱きかかえるようにがっちりと右肩を掴んで
いる。さらに、もう一方の左腕は座る自分の両膝の裏の辺りに回されていた。

『な……っ』

何をしているんだと声を上げそうになって、ふと我に帰った。
そういえば、自分は土田とタクシーに乗っていたのではないかと。

「起きたのなら、自分で歩けるな」

土田の両腕が自分の体から引き抜かれる。既に自分はタクシーから降りて、後部座席に上半身だけを突っ
込むようにして身をかがめていた土田は、助手席の背もたれに手をついて少しばかり背を伸ばした。
土田が離れると、少しばかりひんやりとした外の空気が流れてくる。

ようやく今自分に起きている事態を把握した。
つまり既に目的地にタクシーは到着しており、タクシーの中で寝込んでしまった自分を、土田は抱えて降りよう
としていたのだ。

『あ、当たり前だっ!何も抱きかかえようなどと考えず、起こせば良かったじゃないか!』
「声はかけた」
『起き……っ――ああ、いや、とりあえずいいから出よう』

起きるまで何度でも声をかけ続けろと言うのも無茶な話だが、といって大の大人を抱きかかえようなどと考える
のもどうかしている。
だが、今は言い合いをしている場合ではない。ここは未だタクシーの中で、運転席では運転手が多少の好奇
心を織り交ぜつつ後ろを向いて自分たちを見守っているのだから。

土田の上半身が車外に出たことで、ようやく視界が開け、体も動かしやすくなった。


『すまなかった』
「いえいえ。あ、もうお支払いはいただいてますよ」

体裁を取り繕おうと少しばかりジャケットの襟を直し、ついでに胸ポケットから財布を取り出したら、運転手が
急いで付け加えた。

何て失態だ。

金子は内心舌打ちしながらも、顔には笑みを浮かべて運転手に礼を述べながらタクシーを降りた。

男の肩に寄りかかって寝込んだ上に、運賃まで払わせ――もちろんこのままにする気などないが――、おまけ
に抱きかかえられて車を降りようとしていたなど、あってはならない失態だ。大人の男としても、さらに金子光伸
個人としても。大体が、1つ目以外は土田の行動次第でいくらでも避けられた事態ではないか。
だが、土田への追及はタクシーがその場を離れるのを待ってからにすべきだろう。そんなことを考え、何となく突っ
立ったままタクシーがUターンするのを見送っていると、背後から土田の声が聞こえてくる。

「熱があるのだから、早く家に入った方がいい」
『……分かっている』

正論を言われて、金子は喉の奥から絞り出すように答えると、渋々玄関の方へと歩いて行く。そうして、玄関
前で鍵をポケットから出した時、背後にいた土田の言葉に唖然とした。

『……帰るだと?』
「お前は寝た方がいい。邪魔する訳にいかん」
『それはもちろん休むさ。だが、お茶位飲んでいけばいいだろう』
「病人が気など使うな」
『お前こそ余計な気を使うな。大体、病人などと大袈裟過ぎるっ。俺は外出していた位なんだぞ?大した熱
じゃない』
「しかし――」
『お前の意見は却下する。お前だって、問答無用で俺をタクシーに押し込んだんだからな』

土田が言葉を詰まらせる。その隙にドアを開けて、今度は自分が土田を屋内へと押し込むことにした。





別荘はさほど大きなものではない。だが、未だ真新しい木材の匂いが微かに漂い、玄関ホールから短い廊下
の先の左手にあるリビングは明るい春の陽で満ちており、爽やかな風情を醸し出していた。

「まずは体温を測って、それから体の温まるようなものを飲んだ方がいい」

金子がジャケットを脱いでソファの背もたれに投げ掛け、そのまま奥の台所へ向かおうとすると、土田が追い打
ちをかける。

『……お前は母親か』
「熱のある病人がすべきことなど皆同じだ」
『……ああ、ああ、分かった分かった。体温を測ったら茶を淹れるから、お前も客らしくソファに座ってろ』

全く、口うるさい。大体タクシーに押し込んだことといい、今のことといい、今日の土田は何だかお節介焼きだ。
今まで身内からしかお節介など焼かれたことがなかったから、どう対処したらいいのやら。
土田の言っていることは別に間違ってはいないのだが――どうにも素直に頷けない自分がそこにいた。

金子は土田にソファの場所を指差してやると、リビングから続くダイニングの方へと移動した。



ここは別荘地だから、大きな総合病院がすぐの距離にある訳じゃない。おまけに山間部だから虫にさされたり
擦り傷を作ることもあり得るだろう。そう考えて、家具を揃える時に一式揃えた薬箱も用意しておいた。

サイドボードの観音開きの扉を開け、中から目当てのものを取り出すと、金子はそれをダイニングテーブルの
上に置く。そうして、薬箱を開けた時――


「金子」
『何だ……さて、体温計はどこだったか……』

金子は顔も上げずに返事だけすると、箱の中を覗きこむ。

「今日、東京へ戻るつもりだったのか」
『………え?』

その唐突な内容の問いかけに、金子は一瞬、何の話をしているのか分からなかった。そんな記憶自体が、抜
けていた。
躊躇いながらも顔を上げると、ソファのところに立ったままの土田と視線が合う。土田の手には――小さな紙
が握られていた。

「ソファに切符が落ちていた」

切符――片道の、東京行きの特急券か、もしくは乗車券だ。
ジャケットの胸ポケットにしまっておいたから、先程脱いでソファに投げ掛けた時にでも落ちたのだろうか。

金子はそんなことをのろのろと考える。
何故だか、先程まで感じていなかったというのに、こめかみの辺りがズキズキしてきた。

『……それがどうした』

我ながら、棘のある口調だと思った。少なくとも、好意的な言い方ではないに違いない。
実際、少し苛々していた。土田に悪気があるなどとは思っていない。だが一方で、何故そんなことをいちいち
問うのかと、理不尽にも苛立ちを感じる自分がいた。

「何故言わなかった」

昨夜、一緒にいたではないか。言う機会などいくらでもあったではないか――きっと、そう思ってのことだろう。
土田がそう考えるのも無理はない。

『今朝、決めたことだ』

自分の少々突き放したような言葉に、土田は黙った。
逆の立場であれば、きっと自分もここで黙る。何か言うとすれば、そうか、残念だ、という位の言葉しか浮かば
ない。
そこに、自分たちの関係の度合いがよく表れている。自分たちは、そこまで相手の行動を追求するような、非
難し、水臭いなどと腹を立てるような仲ではない。ここに居る間の、つかの間の友情――いや、本当に友情と
言えるのかどうかすら、確信がない。何度となくこの男の許に通い、時間を過ごしたというのに、容易く途切れ
てしまうような脆さすら感じる。

まるで、ここに居る間だけの、夢物語であったかのように。
ここを出てしまえば夢から覚めて、全てが泡と消えて無くなってしまうかのように。

気分が重い。
自分が後ろめたいことでもしているみたいだ。
悪いことなど何もしていないのに。

土田が無言のまま自分を見つめていた。まるで咎められているかのように感じる。
不意に息苦しさを感じて、思わず視線を逸らした。喉がカラカラに乾いて、唾を飲み込んだ。

視線を逸らした理由が分からない。喉が張り付いてしまいそうに乾いている理由も分からない。
きっと、自分は具合が悪いのだ。それほどまでに。
それ以外に、思い当たる原因がない。

視線を逸らしたことの理由の答えには全くなっていないが、その部分を考える程の余裕はなかった。

「金子?大丈夫か。どこか痛いのか」

俯いていても、気配で土田が近づいてくるのが分かる。
逃げたいような気持ちになったが、体が思うように動かない。だが、何とか土田に背を向けることはできた。

「何故背を向ける」
『……別に、痛むところなどない。少し気分が悪いだけだ。それより、体温計を探すのだから、どけ』
「――体温計なら、これだ」

どうやら、土田は薬箱の中からすぐにそれを見つけてしまったようだ。
だが一度背を向けたのに、すぐにまた振りかえるのもおかしい。いや、背を向けたこと自体がおかしいかもしれ
ないが、そうしてしまった以上、そう簡単に振り向く訳にもいかない。
どうしたものかと思った時――不意に腕を掴まれ、ぐいっと振り向かされた。

唖然として、土田の顔を睨むように見上げると、土田は真っ直ぐにこちらを見ている。ここで再び視線を逸らし
ては、それこそ自分の負けだ、そう思って、こちらも睨み返してみた。
すると、土田の眼光がますます鋭くなる。

「お前は、何をゴチャゴチャと考え込んでいる」
『は……?』

想像とはやや違った問いかけに、返答の言葉がすぐには見つからなかった。

「先程からずっと難しい顔をしているだろう。――俺は、別にお前を責めたつもりはない。お前がいずれ東京に
戻るであろうことは、承知していた。だが、何も言わずに帰ろうとしていたのなら、水臭いだろうと思った。一言
位言っていけばいいだろうと」
『…………』

いや、土田は勘違いしている。
難しい顔をしていたのは、何も土田が自分を責めていると思った訳ではない。それにここが別荘であり、そのこ
とを最初から土田に言っていた以上、いずれ東京に戻ることは別に秘密でも何でもない。
だが、その部分を抜かせば、土田の言葉は間違ってはいない。

『……案外、鋭いな……』
「?何のことだ」
『……いや。水臭いと、思うのか』
「それはそうだろう」
『どうして』
「――お前がどう思っているかは分からんが、少なくとも俺はお前を大切な、良い友人だと思っている」

まるで、昨晩のデジャヴのようだ。
”良い友人”――おまけに今日は、大切な、まで付いてきた。よほど自分は土田にとって良い友人なのだろう。

そう思われて、嬉しくない訳ではない。嫌われていないどころか、好かれているのだから。同年代の友人たちと
つるむような性質の男ではないと分かっているだけに、自分は少なくとも、土田の中で一定のポジションを獲得
しているのだろう。

しかも、土田はいとも簡単に言ってのけた。水臭い、と。
自分はそこまでの関係ではないと思っていたのに、土田はあっさりとそのボーダーラインを飛び越えてきた。
それを考えれば、自分は確かにゴチャゴチャと考えすぎているのかもしれない。

だが、それだけで全ての問いに答えが出せる訳ではない。
昨晩からの、”良い友人”という言葉に感じる違和感の元については、何ら解決していない。
大体、良い友人が納得いかないというのなら、何であればいいのか。悪友か。親友か。だが、そんなのは所
詮言葉遊びのようなものだ。良い友人という前提があれば、悪友にでも親友にでもなりえる。
要するに、そういう問題ではないのだ。つまり、自分が求めているのは、ただ土田をからかっていたいというか、い
じっていたいというか、傍らにいてその言動を観察していたいというか…………一体何なのだ、これは。



「金子?」
『あ、あぁ、いや、何でもない。そうだな……悪かった。――俺たちは、良い、友人だ』

土田が小さくうなづく。

『それより、体温計』
「ああ」

体温計を土田の手から受け取る。
そうして、こちらに背を向け、ソファの方に戻っていく男の後姿に、ちらりと視線を移した。

広く、大きな背中だ。気持ちいい程に背筋がきちんと伸びている。
大の男の自分を抱きかかえてタクシーから降りようとした位だ。広い背中もがっちりした体格もダテではないの
だろう。そういえば剣道をしているのだった。子供相手とはいえ教える程なのだから、なかなかの腕に違いない。
一体どんな様子で子供に教えているのだろうか。
容赦なく厳しい顔つきで教えているのか。それとも、案外と子供には弱いのだろうか。
この男の剣道着姿は夜目に一度見たことがあるが、実際に剣道をしているところは一度も見たことがない。
一度位、時間を見計らって覗きに行っておけば良かった。
どんな姿で、どんな様子で、竹刀など振っているのか――

土田がソファに座ろうとしてこちら側にその横顔を向けると同時に、視線を逸らした。
体温計のケースを開けようと手元を見下ろすと、視界の端に土田が顔を上げ、こちらを向いたのが分かる。
何故だか、指先が緊張してややぎこちなくなった。


何を、意識している?

まさか。

金子は、唐突に浮かんだ”考え”に困惑し、すぐさま頭の中から消し去ろうとした。
何故なら、”それ”はあまりに非現実的で、到底まともとは思えなかったから。
”良い友人”という位置づけに少しばかり違和感を感じたからといって、あまりに飛躍しすぎだと思えたから。



まさか、あり得ない……な。





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