EPISODE 12 :


体調が良くないというよりも、もしかしたら疲れているのだろうか――土田は、金子の様子を見ていて思った。

金子が作家であるということは本人から聞いたことがある。
金子の作品を読んだことはない。金子曰く、「土田向きではないから別に読む必要はない」そうだ。元々読書
をする方ではないから自分向きの作品とはどういうものなのかよく分からないが、作家の金子から見れば一目
瞭然なのだろうか。とはいえ、いずれ読んでみたいとは思っているのだが、それはともかく。

詳しいことは知らないが、作家という仕事も大変なのだろう。時間が不規則になるというし、締め切りが迫れ
ば普段の生活をしていても、頭はそのことで一杯になってしまうこともあるのだろう。
それで金子は疲れているのかもしれない。だから、突然考え込んだり、難しい顔をしているのかもしれない。

――だが、熱もあるようだし、あんな様子で東京に戻るつもりなのだろうか。1人で大丈夫だろうか。

座ったらどうだという自分の言葉に、体温計を脇の下に入れた金子は、やや億劫そうな様子を見せながらも
自分の傍のソファに座った。そうして、ただ黙って背もたれに寄りかかっている。

静かだ。
金子が話をしないと、このように静かになってしまうのだと改めて思い知る。そう考えてみると、金子と飲む時間
が心地よかったことの原因の殆どは、金子にあるのかもしれない。金子がその場をさりげなく、静かになりすぎ
ぬ程度に盛り上げてくれていたのかもしれない。

『……まあ、微熱だな』

金子が体温計を取り出して見ながら、呟いた。

「何度ある」
『37度4分』
「――生姜や片栗粉はあるか」
『男が1人で生活をしていてそんなものを常備していると思うか。況して、今回が初めての滞在だ』
「……普段の食事はどうしている」
『外食で済ませたり、管理人さんの奥さんが持ってきてくれたりしているな。朝食はコーヒー程度だし。いや、た
まには自炊をしないこともないぞ?こう見えてもスクランブルエッグなどは絶妙な――』
「冷蔵庫を見せてみろ」

一度話し出すとやはり金子は饒舌だ。うっかりすると、金子の話にそのまま相槌を打ち、そちらに流されてしま
いそうになる。だが、今は得意料理についてではなく、風邪に良いものを作るという話をしているのだから、引き
ずられてしまう前にとソファを立った。


「確かに、卵はあるな」
『別に卵料理ばかり作っている訳ではないがな』
「ならば、酒と砂糖はあるか。卵酒ならそれで作れる」
『それ位はあるが……お前、土田の顔をしているが、ホントは母親なんじゃないか?』
「馬鹿者」

少しだけいつもの調子に戻った金子を見て、安心した。
――誰かの様子や体調を心配し、何かできることはないかと考えるなど、そういえば久しぶりだ。

『……何だ』

ふと気がついたら、金子の顔をじっと見ていたようだ。金子が少々距離をおき、眉間に皺を寄せている。

「――いや。台所をかりる。お前は上に何か羽織ってきたらどうだ。シャツだけでは寒いだろう」
『やれやれ、仕方ない。母君に従うとするか』
「おい、金子」
『分かっているさ、meine mitfuhlende Mamma』

金子が小さく笑い声を上げた。確かに外国語は苦手だが、最後の単語から何となく意味を察すること位はで
きる。だが、その楽しそうな様子に、反論するよりも、どこか微笑ましさを感じる自分がいた。

――本当に、今日帰るのだろうか。

日本酒を小さな鍋に注ぎながら、思った。





2階の自室に入った金子は小さく溜息をつき、タンスの引き出しを開けた。そうして、薄いグレーのカーディガン
に手を伸ばし、それが指先に触れたところで自然と手が止まる。

気持ちが、不意にそこから遠ざかったからだ。

表層部分だけをいつも通りに装ったところで、何が変わる訳でもない――1人になると、動かぬ現実を前に気
分は冷静にならざるを得なかった。

夕方の電車の発車時刻までは、未だ5時間近くある。
土田の作った卵酒を飲み、少し横になって、それから食事をして東京行きの列車に乗るのは十分可能だ。
発熱というハプニングはあったものの、今朝考えた計画通りに事を進めるだけの時間はある。

次にこの別荘に来るのは、ずいぶんと先になるだろう。夏には去年同様、雛子と取材を兼ねたヨーロッパ旅行
に行くことになるだろうから、最短でも晩夏か、秋頃――半年も先だ。場合によっては今年中には来れないか
もしれない。

だが、そうであっても今日戻らざるを得ない。明日の朝の電車に乗り、昼過ぎに東京に着いたのでは、雛子の
乗る飛行機の便によっては迎えが間に合わない。別に出迎える約束はしていないが、本来ならばとうに東京
に戻っていてよいものを、1ヶ月半もこの別荘に滞在していたのだ。
そこに何の後ろめたさがある訳でもないが、痛くもない腹を探られても困る。せめて雛子が帰国する時には東
京に戻っていた方がいいという判断は、間違っていないはずだ。

ならば、今日帰らなければならない。5時間後に。例え次にいつ来られるか分からずとも。そうすべきだと、それ
が一番良いのだと頭では十分冷静に判断できている。
にもかかわらず――心が、決断できない。

強く惹かれる何かがあるとは思わない。
目が離せない程に好奇心の駆られるような事柄がある訳でもない。
だけれど、不思議と、酷く心地よかったのだ。
ここでの暮らしが。
土田との時間が。
それは、まるで呼吸をするようにごく自然と、あって当然と思える日々の生活の一部となっていたのだ。

金子の掌はカーディガンの表面を滑り、そうしてその上で握りこぶしが作られた。


だがもしも、
本当にもしも、だが、先程思いついた”あまりに非現実的で、到底まともとは思えないそれ”が心のどこかにあ
るのなら……

頭が微かな痛みを訴える。

あの男に、惹かれている?
馬鹿な――そんなことは、あってはならない。土田は男だし、自分も男だし、何よりも自分には雛子がいる。
単に雛子を裏切るとか、そういう問題ではない。雛子は、自分が金子の家を継がず、作家でいるという危うい
道を紡ぎ続けるための鍵だ。失えば、同時に作家である自分も捨てなければならない程に重要な存在だ。
万が一にも何かがあったとして、そんなに簡単に別れを決断できるような相手ではない。
それに――何より土田には、想い人がいるではないか。
例え今は会えず、行方が知れずとも、土田の心の中はその”想い人”を忘れてはいない。その姿は今も瞼に
焼き付いて離れないに違いない。でなければ、あんなノートなど後生大事に置いておく訳がない。辛そうな顔
をして、そのことを話す訳がない。

ならば、他に答えなどないじゃないか。自分1人の気持ちだけを空回りさせたところで、どうにもならないのだ。
半年も会わなければ、人は変わる。自分の、あるかもしれない”一時の気の迷い”だってきっと消えて失せる
はずだ。東京に戻れば――目が覚めるのだ。

金子はカーディガンを取り、そうして肩に羽織る。
自身の不安定な気持ちなど振り落とすように背筋をきちんと伸ばして、部屋を出ると1階に、土田の居る場
所へと降りて行った。





「丁度できたところだ。ソファに座るか」
『ああ。悪いな』
「それから、勝手に豆腐を使わせてもらった」
『豆腐?』

ソファに座ると、土田が卵酒の入ったマグカップとともに、小さな小鉢と箸をテーブルの上に置いた。

「何か作れるような材料がなかったから、ただの湯豆腐だ。卵酒は風邪に良いといっても酒だろう。軽く腹ごし
らえをしてからの方がいい」

土田と駅前のロータリーで会ったのが午前11時過ぎ、今は丁度昼時だ。
蕎麦屋をしているせいで食事の管理には細かいのだろうか。こういうところは感心してしまうほどに気が利く。

『……そうか、ありがとう。そういえば、お茶を出していなかったな。いや、それよりもお前も何か食べていくか?
もう12時を過ぎただろう。大した材料はないが、スパゲティやトマトソースの缶といったものならばあるぞ』
「いや、俺はそろそろ帰らねばならん。材料の買い出しもあるし、子供たちへの剣道の稽古もある」
『え?今帰るのか?』

大人らしく冷静さを装う暇もなく、つい間の抜けた調子で早口に問いかけてしまった。

『あ、いや、別に帰らないでくれと言っている訳じゃないんだ。そうではなく、ただ……その今すぐというのは急で
はないかと、そう思ってだな……』

これでは逆に言っているようなものだと思って、言葉が途切れた。すると、何故か正面ではなく、斜め横でもな
く、土田は自分の隣に座ってきた。

近い。
ソファは決して小さい訳ではないが、それでも、体格のいい土田が隣に座れば、まして敢えて端に座ることなく
当たり前のようにすぐ傍に腰を下ろしたのでは、近くて当然だ。

「お前が食べ終わったら、帰ろうと思う」

そう言うと、土田は目元に微かに笑みを浮かべる。そうでなくとも近距離だというのに、さらには笑顔まで見せら
れて、胸の辺りが熱く脈打った。早まる鼓動はきっと微熱のせいもあるはずだ。
だが、それだけでないとは分かっていた。認めたくはないとせめてもの抵抗を見せる自分が、無力に思えた。
結局のところ、もし今がその”一時の気の迷い”を生じている時であったとしたら、現実に自分が感じている思
いは否定できない。
ここで勘違いだと、その思いを切り捨てられるのなら、東京へ戻ることにだって何の躊躇いも感じていなかった
だろう。だが実際には、そう簡単にはいかない。意外にも、想像以上に執着していた自分に気づかざるを得な
かった。

先程決心したはずの心が、崩れていきそうになる。

いっそ、今すぐにでも土田が冷たく立ち去ってくれれば良かったのだ。
自分の気持ちなどお構いなしに、帰ると一言言ってくれれば良かったのだ。
そうすれば、自分の気持ちを確認するようなことはなかったのに。
あってはならない思いと向き合わずに済んだのに。


腕などさして伸ばさずとも、すぐに土田の硬く筋肉の付いた右の太腿に、自分の左手が触れた。間もなく伝わっ
てくる土田の体温に、微かに震える。
体が震えたのか、心が震えたのか分からない。だがそれを合図に、まるで理性のたがが外れてしまったように、
頭は考えることを止めてしまった。
開き直った訳ではなかった。何かを期待していた訳でもなかった。だが、このまま何もなかったように密かに抱え
たままでいるには、この気持ちは重すぎた。何の答えも出ずとも、何の解決にもならなくとも、構わなかった。そ
んな楽観的な予想などしていなかった。

ただ、ほんの少し――未だどうとでも引き返せる範囲内の中でだけでも、この苦しみから解放されたかった。


すぐ左横に座る男の体を捕えるのは、容易な動作ではなかった。自分たちのすぐ前にテーブルがあったから尚
更だ。
だが、そんなことは気にしていられなかった。もっと近づきたい、触れたい――体の奥からあふれ出てくるような
思いに突き動かされて、太腿に乗せた左手を上の方に伸ばし、体を捩じらせて土田の広い肩に抱きついた。
土田の短く叫ぶ声が遠くで聞こえたが、その理由を考える気もなかった。自分にはそれが、何であろうと大した
問題ではないように思えた。

抱きついた土田の体は、硬くて温かい。まどろむような温かさというよりは、微熱のある自分に近い気がした。
硬くて、自分よりも大きくて、そうして発散される汗と熱の入り混じった、男のにおいのする体――本来ならば、
何の興味も、好奇心もないはずのものだ。抱きしめるならば、柔らかくて、花のような香りを微かに漂わせた女
性がいいと分かっていた。
それなのに――こんなにも目の前の現実は違っていて、これまでに望んだことすらない状況なのに、心が土田
に吸いついてしまって離れない。まるで一度くっついてしまったら離れないと言わんばかりに、体が動こうとしない
のだ。
それどころか、より深いところまで土田を感じたくて手は土田の頭を撫で、肩を撫で、背中の辺りをさ迷って居
場所を見つけようとしていた。





「!危ないっ」

そう言ったが、遅かった。
突然金子が体を捩じらせて反転させた時、金子の足がテーブルにぶつかって、湯豆腐を淹れた小鉢と、卵酒
の入っていたカップはガタガタと音を立てて揺れ動いた。箸は転がり、テーブルの下に落ちた。

金子の手が自分の太腿の上に乗せられ、その後何が起こったのか、よく分からなかった。
全てが咄嗟のことで、全く想像もしていなかったことで、動くことも忘れた。
だが、風にそよぐ若葉のような金子の柔らかい横髪に頬の下の方を撫でられて、ふと気がついてみればソファ
の背もたれに押し付けられるような形で金子に抱きつかれていた。
その様子から現状は認識できた。だがそれは、何が起こったかの答えにはなっても、何故起こったのかの部分
の答えにはなっていない。

「金子……?」

一体これはどういう意味なのだろうか。分からないが、具合が悪いとか、むさ苦しい自分であっても頼りにした
いという何らかの気持ちの表れだろうかと見当をつけて、そっと声を掛けてみる。だが、答えはなかった。

あくまで印象でしかなかったが、金子は背が高く、顔が小さくて色の白い、やせた外見の男だった。やせ細って
いるという程ではないが、華奢だと思っていた。
だがこうして今、その身体が自分の腕の中に収まってみると、やはり痩せてはいても、女性のような華奢さとは
違うのだと気がついた。金子を女性らしいと思っていた訳ではないのだが、金子にはどこか軽やかな、掴みどこ
ろがないような部分を感じていたから、そのしっかりとした質感は予想外であった。考えてみれば当然のことで、
今までふわふわとした印象を持っていたこと自体がおかしかったのだろう。

にもかかわらず、今の金子はどこかか弱く見えた。
体調が悪いと知っているから余計なのかもしれない。

『土田……』

ひとり言のような、病床のうわ言のような小さな呟き声が耳の後ろの辺りから聞こえた。
首の辺りにかかる息が熱い。

金子は、悩みを抱えて1人苦しんでいたのだろうか――もどかしそうに自分の肩や背中の辺りを掴む金子の
手の感触に、土田はふと思った。

どこか飄々としていて、いつも冷静な男だった。頭の回転が速く、都会的な洗練された外見と軽妙洒脱とし
た印象を与える言動は金子には相応しく思えたし、順調な人生を歩んでいるのだろうと感じていた。
だが、金子を単に器用で何事も易々とこなしそうだと思っていた自分は、やはり過去にも何度か言われた通
り、少々鈍感だったのかもしれない。
金子がこんなにも苦しんでいる時に、自分は何も気づかずにいたのだから。

金子がここに来てからひと月半、週に何度となく会っていたというのに。
恐らくは誰よりも金子のことを見る機会があったであろうはずなのに。

『土田……』

小さく自分を呼ぶ声に、助けてやりたいような、守ってやりたいような、そんな気持ちになって、金子の背中に腕
を回した。

密着した膨らみのない互いの胸からは、不思議と早まった心臓の鼓動が伝わってきた。





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