EPISODE 13 :


危ないっ――そう叫んで、不安定な体を支えたことが、そういえばかつては何度かあった。
何もない所でつまづいたり、足元の荷物にぶつかったり、そうして転びそうになって、その体を支えてやった。
成績はとても優秀だったというのに、どこか抜けているというか、危なっかしい――あの人のことを、ふと思い出
した。


柔らかな、少しばかりくすぐったい感触を耳の辺りで感じて、土田は我に返った。
指先よりも、頬よりもなお柔らかい――それが唇だと気づいたのは、金子が顔をずらし、顎の辺りにそれをか
すめさせて、その姿が視界に入ったからだ。
確かな感触ではなく、羽毛が触れるような、軽い感覚だった。それが、今度は自分の唇のすぐ下の辺りにおり
てきた。唇の縁をほんの少しかすめるような、そんな微妙な位置に押しつけられる。それは、今までのような微
かな感覚ではなく、強く、しっとりとした感触だった。
その唇が、小さく小刻みに揺れた。震えたそれは押しつける力が急に弱くなり、それから離れた。金子の顔は、
まだ自分のすぐ目の前にあった。
その顔は――悲しげに見えた。
俯きかげんのまま、僅かに唇を噛み、それでも視線を横の方に流して口元に笑みを浮かべる。いや、正確に
は笑みを作るつもりで、口元を少々歪めていたと言った方が近い。実際には、それを意図する気持ちは伝わっ
たものの、その表情は微笑んでいるようには見えなかった。
それどころか――何故だかわからないが、金子の顔は、その心は、自分には泣いているように見えた。

「金子……」

何をどう言えばいいのか分からなかった。だが、金子の悲しそうな顔が胸の辺りをじりじりと痛みを覚えさせる。
金子の様子がどこかおかしかったのは、体調の悪さのせいだけでなく、恐らくはそれ以上に何か悩みを抱えて
いたからなのではないかと今になって思う。

何がそんなに辛いのか。
俺にどうして欲しいのか。
それとも――俺がそうさせているのだろうか?お前を悲しませるような何かをしたのか?


下を向いた金子の顔が一瞬見えなくなる。そうして次の瞬間には、金子は身を翻してソファの隣に戻っていた。
顔を完全に逆の方に向けてしまった金子の顔を見ることはできない。

『……何でもない。冗談だ』

金子が小さく呟いた。まるでひとり言のように、自分自身に言い聞かせるような調子で。

冗談?

「俺にはそ――」

その時、音がした。玄関の呼び鈴だった。
金子はその音に反応してすぐさま立ち上がると、少し顔を背けたままソファの後ろを抜け、居間から玄関の方
へ消えてしまった。

俺にはそうは思えない――そう言うつもりだった。だが、言葉は言い終わる前にかき消された。
仕方のないこととはいえ、今は邪魔をされたくはなかった。今を逃せば、後から訊いたところで金子は答えては
くれないような気がした。だからこそ、今訊いておかなければならなかった。
金子は――今日、東京に戻るのだから。





来訪は、管理人さんの奥さんだった。昼時だからと昼食を心配して、煮物を片手に様子を見に来てくれたよう
だ。昼食ならば大丈夫だからと、御礼だけ言って、金子は玄関のドアを閉める。
だが――すぐに居間には戻りづらかった。

未だ体に残る、土田の感触と、ぬくもり。
自分のしたことを考えると羞恥と後悔の念はある。だがそれ以上に、胸の辺りが震えるように揺れ動いている。
土田を抱き締めたことで一層くっきりとその外縁を見せた自分の気持ち、そして、望んでいたこと――そういっ
たことが分かった今は、尚更だった。
土田の肌を唇で触れた時、目眩がしそうだった。全身が熱くなって、何故か、泣きたいような気持ちになった。
想いが全身にまわり、溢れて出てきてしまいそうだった。
こんな気持ちは、初めてだった。

だが、だからこそ、必死で自分を押しとどめた。
土田の唇を奪ってしまいたい欲望を、何とか抑えた。

それをしてしまったら、きっと、自分自身を止められない――そう分かっていたから。


金子は、胸のところに手をあて、目を閉じる。そうして、ゆっくり、深く呼吸した。

――この気持ちを悟られる訳にはいかない。

こんな気持ちは、持ってはいけないものだ。これは、自分にとっても、そして土田にとっても迷惑でしかない。
もしこの想いが土田に知れたら、土田はきっと困惑するだろう。それだけでなく、余計な悩みごとを増やしてし
まうに違いない。あの男は、優しい。仮に自分に想い人がいても、きっと土田はこのことで気を揉むだろう。
それは本意ではない。そうでなくとも――自分は今日、東京に戻るのだから。

東京に戻る。いや、戻らなければいけない。
……だが、できるだろうか。
こんなにもこの心はここに執着しているのに。こんなにもこの気持ちは強く、そして泣き出さんばかりだというのに。





居間に戻ってきた金子の顔は、少し青ざめているように見えた。その表情には、既に何も映していなかった。

『――時間を取らせて悪かった。タクシーを呼ぼう』
「タクシー?俺のことならば心配いらん。歩いて帰る」
『いや、それ位持たなければ俺の気持ちが済まない』

金子は、そう答えると既に電話の受話器を取り上げていた。
冷静に電話をする金子の背中を、ただ見つめていた。見つめているしかできなかった。

自分とは話したくないと、金子が言っているように見えたから。


『10分程で来るそうだ』
「――そうか」

電話を終えた金子がソファのところに戻ってくる。テーブルを見下ろした彼は、先程床に落ちたはずの箸を洗っ
て戻しておいたことに気づいたのだろう。一瞬考えるような素ぶりを見せたものの、すぐに腰を下ろした。
元の、自分の隣に座った金子。だが、居間に戻ってから、金子は一度も自分を見ようとしなかった。

『……すっかり冷えてしまったな』
「温め直すか」
『いや、いい』

卵酒の入ったマグカップを手にした金子は、静かに一口飲んだ。

この間に、湯豆腐を温め直すこと位は可能だ。そして、湯豆腐に手を付けたなら、その隙に卵酒を温められる。
だが――タクシーが来るまであと10分足らず。この間に、何とか話をするきっかけはつかめないだろうかと考える
と、席を立っている時間が惜しい。だから、座っていた。
金子がゆっくりと卵酒を飲む傍らで、その様子を窺った。


「今日、帰れるのか。具合が悪いのだろう」

金子がマグカップを置き、箸に手を伸ばした時に、さりげなく口を挟んでみた。金子の手が、少し止まる。

『…………何、自分で運転する訳じゃない。電車に乗ってしまえば、ゆっくりできる』

答えるまでの長い間は、金子の気の迷いだろうか。帰ることを、少しは躊躇しているのだろうか。
だが、そのことを問うのは止めた。金子の横顔が、とても青白く見えたから。卵酒を口につけ、微熱があるとい
うのに、血の気がなく、そうしてとても、疲れているように見えたから。

自分は、金子に無理を強いているのかもしれない。
金子に、不本意な言葉を言わせようとしているのかもしれない。

その時――何て、細い、頼りない肩なのだろうと思った。
これがあの、金子だろうか。これまで顔を合わせ、話をしてきたあの金子と同一人物なのだろうか。
だが、これもまた、おそらく金子の一面なのだ。自分が知らなかっただけの、この男の別の真実なのだ。

放っておけない――そう思った。
そうして自然と手を伸ばし、傍らの男を抱き寄せた。

「何故笑いたくもないのに笑おうとする。何故平気でもないのに平気な振りをする。それが、本当のお前の気
持ちを楽にするのか?」

何が分かっている訳でもない。その原因も、理由もよく分からない。だが、金子が苦しんでいることだけは分か
る。そうして、にもかかわらずそれを無理に消そうとしている金子は、余計に痛々しかった。

腕の中に抱いた金子は、瞬間的に体を強張らせた。胸の辺りをどんと叩かれた。だが、そのまま手を緩めずに
いたら、金子は抵抗しなくなった。体は強張らせたままだったが、それでも、腕の中で大人しくしていた。

「金子」

何か言って欲しかった。自分の言ったことが見当違いであればそれでいい。そうではないと反論すればいいの
だ。何でもいい。ただ、馬鹿、と一言でもいい。何か答えて欲しかった。
だが、自分の呼び掛けに金子は答えなかった。答えたくないのか、答えるべき言葉が何もないのか分からなかっ
た。

俺は、金子を追い詰めているだろうか。

そんな思いが頭を過ぎる。だが、もう何をすれば良いのか、悪いのか、分からなかった。分からないまま、ただ金
子に何か悩みがあるのならばそれを聞いてやりたい、不安を和らげてやりたいという一心だけで、腕に力を込め、
強く抱き締めた。

『……お前は……』

金子の言葉が、小さく聞こえた。その声は、か細く、震えているように聞こえた。

『……俺に、何を言わせたい……どんな言葉を、待っているんだ……』
「どんな言葉でも構わん。お前が言いたいことを言えばいい。それを聞きたいだけだ」

金子が、顔を押し付けた肩の辺りで小さく息を吐いた。
そうして、ため息交じりの声で言う。土田、と、2回。呼ばれる度に、何故だか胸の辺りが締め付けられるよう
だった。それは、答えではなくただの呼び掛けだったのか。それとも何らかの”答え”だったのか――金子は、や
がて自分の腕を掴み、そうして、それをゆっくり振りほどいた。金子は俯いたまま、それでも何か言うつもりなの
か、僅かに口を開いた。

だがその時――終わりを告げる、呼び鈴の音が聞こえた。おそらくは、タクシーが来たに違いない。

金子の言葉を聞きたい。聞かずに帰りたくはない。そう思って、金子の腕を掴む。だが、金子はただ首を振った。
口元を少しばかり歪めて、”笑み”と呼べるものを作って。

『タイム・アップだ、土田。……もう、帰れ』
「金子、俺は――」
『早く』

金子が、掴まれた腕を静かに振り払った。金子の言葉は、どこか冷やかに響いた。



金子は自分とともに玄関まで出てくると、要らないという自分の言葉を無視してタクシーの運転手に料金を前
払いし、そうして自分の店の住所を告げると、開いたドアの傍で、乗車を促した。

『――じゃあな』

タクシーの後部座席に乗り込むとすぐに窓を開け、そうして金子の顔を見上げた。

「金子、また、会えるのか」

金子は、視線を逸らしたまま、微かに顔を歪める。

『――ああ、きっと』
「本当だな」

金子の答えが心許なく思えた。何故か、金子が消えてしまうんじゃないかと思えた。だから、つい念押しをした。
すると、金子が漸く自分を見た。見下ろしてくるその顔は――薄く、だが今度は本当に、笑みを浮かべていた。

『お前がそういうなら、それで再会する理由は十分だ』

答えが、やや分かりにくい。だが、是ということなのだろう。
金子は言い終わるとともに、2、3歩後ろに下がった。それとともに、タクシーが動き出した。

「金子、体に気を付けろ!」

窓から顔を出して遠ざかる男の姿を追うと、金子が手を挙げた。小さく、だが本当の笑みを見ることができて、
少しだけ安堵した。





遠ざかっていく車の後ろを、見つめていた。その姿が小さくなる程に顔が強張っていくのが、自分でも分かった。
振り切るように急いで玄関のドアを開け、中に入る。
重い体を引きずるようにして居間に入ると、そこに先程まで土田が座っていたソファが、その先に土田が作った
湯豆腐と、そして少しだけ減った卵酒の入ったマグカップが見えた。

その時、自分の内から何かが失われたような気がした。膝の力が抜けて、思わず床に座り込んだ。

土田は、もういない――先程とは違うその風景に、現実をつきつけられている気がした。
自分と土田を繋いでいたこの土地から今日、自分は去るのだ――その事実が、こんなにも辛く苦しいものだ
とは、想像もしていなかった。

この苦しさから逃げ出したくて、逃げ道を探した。
会えないと思うから想いが募るものなのだと、許されない想いだと思うからこそ、余計に想い焦がれるものなの
だと、もう少し冷静になれさえすれば、こんなに思いつめるようなことではないはずだと、必死に考えた。

こんなことは、誰しもあり得ることなのだ。まるで落とし穴のように、ふとしたきっかけで、恋に落ちたと錯覚する。
だが、よく考えろ。万が一にもこの恋が実ったとして、雛子と別れたとして、どうなる?今よりも不自由な生活
をすることになるであろうことは目に見えている。第一、父が許さない。雛子と別れた自分は、金子家の跡を
継ぐしかない。作家の道も半ばに、父の会社に入るしかないのだ。
まさか、作家の道を諦めるつもりか?そんなことを、本当に望んでいるのか?

いや、そんなこと以前の問題として――もっと、冷静になるべきじゃないのか。
失恋したばかりじゃない。失意と悲しみの日々を埋めるべく、何かを求めていた訳でもない。自分は、決して
恵まれぬ境遇にあった訳じゃないのだ。
むしろ、幸せだったじゃないか。公私ともに充実していると自覚していたじゃないか。そんな状況の中で、人は
新たな恋になど落ちるのか?満ち足りた生活を諦めたいなどと考えるような酔狂な奴など、いるのか?
いる訳ない。第一相手は男じゃないか。同性に惹かれたことなど、今までに一度もなかったじゃないか。それ
なのに、どうしてこの気持ちが恋であるなどと思うのか。間違いじゃないのか。そうだ。きっと、勘違いだ……

だが、否定しようと足掻き、自身の説得を試みる自分とは別の自分が、そのすぐ傍らで心を躍らせていた。

土田は抱きついた自分の手を払い除けたりしなかった。
耳や、首筋や、限りなくキスに近い程、唇のほんのすぐ下に口づけたのに、拒みもしなかった。
おまけに、土田の方から自分を抱き寄せることさえした。言いたいことを言えと言って、強く抱きしめてきた。
それに――

土田は、再会を望んでいた。
つまり、土田にはまた会いたいと思う程度の気持ちはあるということなんじゃないのか……?

――何て、浅はかなことを考えているのか、俺は。

諦めなければいけないと思うよりも強く、そんなはずはないと思うよりも強く、土田との関係に期待を繋ぎたがっ
ている自分がいる。土田も少しは自分に対して関心を持っているかもしれないという証拠を見つけて、嬉しく
思ってしまう自分がいる。

まるで、分別のつかない子供のように。

到底許されることではないと、分かっているはずなのに。





to the EPISODE 14



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.


inserted by FC2 system