EPISODE 14 :


「せんせー、いつまでやるのーっ?」

そんな声にハッとして顔を上げる。
思い思いの位置に竹刀を持ちあげたままの子供たちが、少々不安そうにこちらを見上げていた。

「あ、ああ。すまん。もう止めていい」

子供たちの少々安堵した顔とともに、もう100回やっただの、いや、200回やっただのといった、不満げとも自慢
げとも取れる声が聞こえてくる。
少し休憩しよう――そう言うと、子供たちは思い思いに床に座り込み、道場内はあっという間に喋り声で満ち
た。そこはやはり小学生だ。疲れたという割に、皆案外元気がいい。

その様子を確認してから、土田は道場を出てすぐの所にある小さな水飲み場に向かう。そうして蛇口を捻ると、
少しかがんでその水を両手ですくい、少々乱暴に何度も水を顔にかけた。

稽古の最中に考えごとをするなど、教える立場の者としては失格だ。子供たちに素振りの指示を出した後、
最初はその数を頭で数えていた。序盤はきちんと覚えていた。それが、いつの間に気もそぞろになってしまった
のか。

――あんな別れ方をしてしまったせいだろうか。

土田は、手を伸ばして水道の蛇口を止めた。

体調不良であるということだけでなく、いつもと様子の違った金子――別にそこまでそのことを意識していたつ
もりはなかった。だが、異変の理由が分からぬまま、中途半端なままに別れたためか、金子のどこか辛そうな
表情が忘れられない。頭から離れずに、何度となく脳裏に浮かんでいたことは否めない。

体の調子は大丈夫なのか。
何より、金子に一体何があったのか。何を悩み、苦しんでいるのか。

そんな答えの出ぬ問いだけが胸の辺りでつっかかっていた。

金子はもう列車に乗ったのだろうか――土田は、赤味がかった空を見上げた。

気にしても仕方がないことだとは分かっていた。もう少し自分に何かできることはなかったのかと考えてみたとこ
ろで、金子はすぐにもここを去るのだ。無論、いつかは再会できよう。だが、いつになるのかも分からない。それ
に、再会する金子は当然のことながら今日在る金子ではない。金子が今日感じた痛みを、いつか再会した
時に癒してやることなどできないのだ。
それなのに、結局自分は何もできずに別れてしまった。だからこそ、気にしても仕方がないこととも言える。
だが。

金子には色々と世話になった。何度となく店に足を運んでもらい、酒を酌み交わし、親身に話を聞いてくれた。
この地で初めてできた友達と呼べる男だった。それなのに、自分は金子に何の手助けもしてやれなかった。
そうして挙句、金子もまた、自分の元から去って行く――あの人の時のように。

土田は頭を振った。
今は稽古に全力を注ぐべきだろう。そうでなくとも、先程素振りの最中に集中力を欠いて子供たちに迷惑をか
けてしまったばかりなのだ。

土田は、一度大きく深呼吸し、そうして背筋を伸ばしてきちんと前を見据えた。
そうして、この後にすべきことをいくつか頭に描き、その中からこれからやるべきことを順を追って整理する。


今目の前にある為すべきこともできぬ者に、人の手助けなどできるはずもない――そう己に言い聞かせて、土
田は再び道場へと入って行った。





「おう。今日は来ないかと思ったぞ」
「すまん。昼間買い出しにこちらの方まで来る時間がなかった」
「いや、構わんよ。まだ6時だ。まあ、入れ」

剣道の稽古を終えて、昼間に行きそびれた買い出しへと駅前に出た土田は、買い物前にロータリー前の交
番に立ち寄った。入り口にたどり着くと、相変わらずの鋭さで中に陣取るお目当ての人物――巡査部長が顔
も上げずに口を開く。促されて土田は中に入ると、男はうーんとひと伸びしてから顔を上げた。

「呼び出して悪かったな。いや、あれをやろうと思ってな」

そう言って小さな四角い部屋の角にある小さな木製の棚の上を指差されたものだから、土田は指図通りにそ
の上に置いてあった少々大きいビニール製の買い物袋を取り上げる。

「これか」
「ああ。女房の実家が送ってきた野菜だ。段ボールに二箱も送ってこられても家だけじゃ食べきれん」

土田が中を覗くと、キャベツに玉ねぎ、大根、ほうれん草などなど、春の旬の野菜が盛りだくさんだ。

「こんなに、いいのか」
「こんなにいらんと言われても家も困るんだ。重いだろうが体力づくりと思って持っていけ」

相変わらずだ――土田は僅かに頬の辺りを緩ませた。
言い方はぶっきらぼうだし、決して正直にその思いを表してはくれないのだが、昔から面倒見のいい人だった。
自分が1〜2週に1度蕎麦を持ってくるのは、普段から世話になっているからであって、決して何か見返りを求
めてのことではない。第一、これ位のことで恩を返せるなどとは思っていない。
だが、彼は当たり前のように蕎麦を受け取る代わりに、こうして時折別のものを用意してくれる。一度、これで
は却って気を遣わせているのではないかと思い、受け取りを断ったら酷く怒られた。

そこへ立て、と怒鳴られ、馬鹿野郎、と一喝された。
俺は人の好意を無碍にしろなどと教えたつもりはない、と。

今日だって、午前中に自分が蕎麦を届けたものだから、恐らく昼間の内に一度家に戻り、そうしてこれを用意
して持ってきてくれておいたに違いない。だが、彼はそういったことは一切言わない。
全く、この人らしいと思う。

以前人づてに、彼は正義感が強く、優秀な警察官で、周囲から将来を期待されていたのだと聞いた。だが、
家庭の事情があって自ら昇任試験を受けず、出世しないまま交番勤務を選んだのだと。
だが、それは自分とは関わりのないことだ。彼の立場がどうであれ、今も尊敬している人物であることに変わり
はない。かつて――自分がこの人のことを巡査部長ではなく、助教と呼んでいた頃から。



「――そういえば、例の件だがな」

視線だけで促されて、傍のパイプ椅子に座ると、巡査部長は世間話でもするかのようにのんびりと口を開いた。

「M号の2は、実家が届けを取り下げたらしいぞ」
「!見つかったのか?!」
「いや。――M号のままじゃ不便も多い。だから親心で、ということも考えられるが、体面を気にした可能性も
ある。下げれば、そのものが消えるからな」
「……単なる独立だと、事件などではないと、そう看做すということか」
「あり得ることだ。子供じゃないのだし――それに、時間も大分経っている。1と違って独り身だし、ここまで何
もないのなら、無理にということもないのだろうと見做したんじゃないか」
「実家に連絡があったということはないのか」
「いや、特に聞いてはいない」
「……そうか。……それで、つ……1の方は」
「あちらは変わりない。何かあれば1の線から追える可能性はあるだろう。だが、2が外れた以上、連中は転入
転出が容易になる。あるいはこのまま――ということもあり得るな」


――確かに、時間が経てば経つほど、あの人の行方追うことは困難になるだろう。
土田は、頷きながら小さくため息をついた。

かつては、目を閉じればあの人の姿を容易に思い出すことができたが、今ではややぼんやりしているように感じ
る。それだけ、時間が経ったということなのかもしれない。もう、5年……いや、6年近くにもなるのだから。
きっと、どこかで元気にしているはずだと思いながらも気にしてしまうのは、答えがいつまでも出ないからだ。
幸せにさえなっていれば、それでいいのだ。それを知ることさえできたら――

「土田」

ふと呼ばれて顔を上げれば、巡査部長の視線が幾分厳しさを増していた。

「1つ言っておく。お前が大学時代の友人の行方を心配することは構わん。それにお前は元は身内だ。今回
のような、直接ヤマとかかわりない情報なら、流してやる。だがな、お前にはお前の人生がある。これからのこと
だって考えていかなきゃならんだろう」

言わんとしていることは分かった。己の過去――元は警察官だったことも、それを辞めた理由も知る彼だから
こそ、余計な心配をかけているに違いない。

「承知しているつもりだ」
「それならばいい。だが、きちんと心の整理がつくには時間がかかることもある。例え自分に自覚はなくてもな。
――土田、今の仕事は楽しいか?」
「?……よく分からん。だが、蕎麦を打っていると……心が落ち着く」
「そうか。ならば、今在る生活を大切にしろよ、土田。――同じ失敗を二度繰り返すな」





土田は交番を辞すると商店街の道を通り過ぎ、そうして家へと続く山麓の緩やかな坂道を歩いていた。両手
にはずしりと重いビニール袋を4つも握っていたが、今となっては慣れたものだ。
4月ではまだ日が暮れるのも早い。恐らくは夕方も7時を過ぎた今頃は、商店街や駅前はまだしも隣近所も
殆どない山麓は既に暗くなっていた。

帰って食事を済ませたら、明日の店の準備をする――いつもと変わらぬ夕刻だ。
だが、あの時の後悔が蘇ってくるのだろうか。何かのきっかけであの人のことを思い出すと、いつも空しい気分
になる。

あれからもう、5年だ。
それだけ、年を取った。大学を卒業し、警察官になり、そうして――辞めた。だが、そこまでの自分は恐らく何
一つ変わらぬままだったのだろう。だからこそ、辞めるしかなかった。
だが、あれからまた、月日は過ぎた。この仕事に出会い、学び、そうして半ば譲られるような形で店を持つこと
もできた。常に心の拠り所としてきた剣道も、今は自由にすることができる。未熟な自分ではあるが、子供た
ちに稽古もつけてやっている。
きっと、時の力もあるのだろう。自分は少しずつでも変わっていると思う。
かつては心に空しさを感じることが多かったが、それは時と共にだんだんと減ってきた。だが、それでも行方知れ
ずとなってしまったあの人のことを思い出すと、やはり胸の辺りがざわつくのは否定できない。

――だが、何故だろう。そんな思いも、久しぶりのような気がする。

否、考えてみれば、つい最近、あの人のことは思い出していた。金子が、あの人の大学ノートを手にしている
のを見た時だ。つい、昨日の話だ。さらには金子にあの人のことを少し話した。あの時の自分は、確かに胸の
辺りにもやもやとしたものを抱えていた。にもかかわらず、そのことを今まで忘れていた。
昨夜の出来事だというのに。まだ1日と経っていないのに。
金子の異変のことばかり今日は考えていたから、今の今まで、忘れてしまっていた。そういえば、少し前にあの
人のことを思い出した時も、偶然、金子が訪ねてきた。そうして、ともに酒を酌み交わす内、何故かもやもや
が晴れた。翌日には、もうあの人のことは考えていなかった気がする。

金子といると、あの人のことを思い出す時間が減るのだろうか。
よく分からない。だが考えてみれば、金子がここに居たひと月半と少しの間、自分はあの人のことをあまり思い
出していなかった。かつてはもっと頻繁だったように思うのだが、最近は思い出しても、少しの間でしかない。
金子は2〜3日おきに店を訪ねてきたし、来たら来たで何となくあの男のペースに乗せられていた。無論、それ
は別に何かを強制するようなものではない。だが、何となくあの男の言葉につられている己を自覚していた。
あの男と過ごす時間は嫌いではなかった。時折訪ねて来ることを、自分はいつの間にか歓迎していた。

もしかしたら、金子という存在は、過去から自分を解き放ち、心を軽くしてくれていたのではないだろうか――


そんなことを考えながら家の傍まで来た時、何かの気配を感じた。

「誰かいるのか」

夕方稽古に来ていた子供たちの誰かが、忘れ物でも取りに来たのだろうかと思った。
だが、問いかけに返事はない。その代わりに、それが僅かに動いた。その姿は、子供にしては大きく見えた。

「?誰だ」

すると、稽古場の方の入り口のところにうずくまっていた者が、ゆっくりと立ち上がる。外が薄暗い上に、入口は
建物の影の方にあるから尚見づらい。だが、自分はその姿に見覚えがあった。


「……もしかして、金子……か?」

建物の影から一歩前に踏み出して出てきたのは――金子だった。





『その……そういえば、お前の店の電話番号を知らなくてな。前にチラシをもらったんだが、紛失してしまって、
だから、連絡を取ろうにも取れなくて……あ、いや、大したことは何もないんだが』

自分は何をしているのかと今更ながらに思った。土田の声で、ふと我に返った気がした。それでも言うべきこと
は予め用意しておいたから、とりあえず口から言葉は出てきた。だが、金子の心の内には俄かに生まれた後悔
の念が瞬く間に広がった。

「一体どうしたんだ」

両手に大きな荷物を持っていた土田だったが、それでも姿を見とめてからすぐ傍まで来るのに、さして時間は
かからなかった。

『その……半日程ずらした』
「?」
『東京に戻るのを、だ。明日の午前中の列車に変更した……いや、別にお前にいちいち言う程のことでもな
いんだが、心配していたようだから、一応と思って、それで、駅まで来たついでにと……』

まるで、子供の言い訳だ――自分から発せられる言葉が、やけに薄っぺらくみえた。
言っていることは嘘ではない。全て本当のことだ。だが、それが単なる詭弁のように聞こえるのは、そこに説得力
がないからだ。理屈としては通っていても、自身のことは自分が一番よく分かっている。
それが単に自分自身に対する言い訳だと、分かっているのだ――

昼間、土田が帰った後、全身から力が抜けた。帰る支度をしなければと思いながらもどこか上の空で、ふと
気がつけば殆ど何も進んでおらず、ただ虚ろに時間が過ぎていた。
このままでは東京に戻ったところで何も手に着かず、却って雛子に不審に思われかねない――そう思い、考え
た。帰る日を1日ずらそうと。一晩経てば落ち着くかもしれない。それでなければ、いっそ全て土田にぶちまけて
玉砕してしまえば、案外すっきりするかもしれないと考えた。これで終わりだと思えば、諦めもつくはずだと。
そんなことを自棄気味に考えて、夕方早々に駅で列車の切符を変更すると、さほど頭の整理もつかない内
から、殆ど無意識のようにここまで来てしまった。
何とかなるなどといった楽観的な気持ちでいた訳ではない。だが、他にすべきことが思いつかなかった。引き寄
せられるように土田の店へと向かってしまった。

何だかんだと言ったところで、何のことはない。要するに、東京に帰りたくなかったのだ。
帰らなければと分かっていても、心が言うことを聞いてくれなかった――それだけのことだ。

――だが、本音に裏打ちされない軽薄な言葉など、すぐに見抜かれてしまうのではないか?下心など、容易
く見透かされてしまうのではないか?

金子は、カラカラに乾いた唇を手の甲で小さく押さえた。
認めたくはないが、怖気づいていた。まるで、心臓そのものが縮こまっているように感じた。

「――わざわざ知らせに来てくれたのか。留守にしていてすまなかった。いつ頃ここへ……」
『用件はそれだけだ。帰る』

湧き上がってくる羞恥からも、ここからも逃げ出したくて、土田の言葉を遮った。

早く、早く帰ろう。こんなみっともない姿を、これ以上見られたくない――金子は土田の顔を見ることなく、速
足で土田の方に近づき、そのままその傍らを通り過ぎた。
本来ならば逆方向に遠ざかりたいところだが、土田の居る方向に帰る道があるのだから、仕方なかった。

土田の声が短く聞こえたが、何を言ったのかは分からなかった。ただ、ここから立ち去ることしか考えてなかった。





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