EPISODE 15 :


「金子っ」

大きな声で名前を呼ばれた。それすら無視して立ち去ろうとしたが、後ろから腕をきつく掴まれた。それがやけ
に力強くて、足を止めざるを得なかった。振り向いて反論しようにも、腕が痛くてそれもできない。
第一、今の自分には「痛いじゃないか」位しか思いつかなかった。
一体どうしろというんだとふてくされたいような気持ちになって、ふと俯いてみたら、地面に買い物袋やぶちまけ
られた野菜が転がっていた。

『……馬鹿か、お前は。仮にも飲食店を営む男が、大事な食べ物を地面に放ってどうする』
「荷物を両手に持ったままではお前を掴めなかった」
『ならば掴まなければいいだろう』
「それが嫌だからこうしている」

相変わらず、土田らしい簡潔な答えだ。だが、土田は言葉のその先にある自分の気持ちを読んではくれない。

『……どうして。俺の用件はもう済んだ』
「ならばここからは俺が用がある」
『別の機会にしろ』
「お前は明日東京に戻るのだろう。ならば今しかない」
『……何の用だ』
「まずは中に入れ。熱があるというのに、また外に出おって。上着も冷え切っている」

金子は俯いたまま、小さく唇を噛んだ。

土田が、腹立たしい。
この優しさが、腹立たしい。

何故離してくれないのか。
俺のことなど単なる友人だとしか思っていないくせに。お前の心を占めるものは、他に居るくせに。

だが何より、自分が一番腹立たしい。

そうと分かっていて、この手を振りきれない自分が。





「緑茶でいいか」

野菜を、地面に落ちてダメージを負ったものとそうでないものとに仕分けた土田は、それから顔を上げてこちら
に視線を流してくる。居た堪れなさを感じながらも、金子は頷いた。

つい昨日も来たばかりの、土田の家の居間――だが、昨日よりも異質な空気を感じるのは、別に土田の家
のせいではない。

「どれ位外で待っていた」
『そんなの、いちいち計っていない』

土田の目元に険しさがやや増した気がした。
別に屁理屈を捏ねているつもりはなかった。ただ事実を言っただけだ。だが、土田には不満な答えだったようだ。
ちゃぶ台の上に湯呑みを2つ置くと、土田は腰を落ち着けることなく隣の部屋へ移動した。

そういえば、土田は自分に用があると言っていたが、一体なんだろうか。
何か約束したことでもあったか?頼まれたことでもあったか?――思い当たるフシはまるでない。

「とりあえずこれを羽織っておけ」

突然、背中が何かに包まれた。視線を肩の辺りに向けてみると、焦げ茶色の毛糸で編まれた洋服が肩から
背中にかけて掛けられている。厚手のカーディガンだった。

まるで子供扱いだ――そのお節介ぶりに、反射的に掛けられたカーディガンの裾を掴む。
だが、結局掴んだだけで、何もせずに裾を解放した。

確かに外で待っていた時、少しばかり肌寒いと感じない訳じゃなかった。だから、土田の行為は的外れではな
い。だが何より自分をとどめたのは、これ位のことで反抗的な態度を取る方がよほど子供っぽいと分かってい
たからだ。
何故、いちいち反抗したくなるのか。これが土田ではなく――例えば雛子であれば、穏やかな気持ちで何の
躊躇もなくありがとうと言えただろうに。

「――具合が悪いというのに、引きとめて悪かった」

そういって土田は、自分から少し離れた丁度斜め横の辺りにようやく腰を下ろした。


『何か話でもあるのか』
「……いや」
『は……?』
「……とりあえず、茶でも飲んだらどうだ」

何だ、それは。全く訳が分からない――そう思ってちらりと土田の様子を伺ってみて、ふと気がついた。

もしかしたら、土田にはこれといった用事などなかったのではないかと。考えてみれば、土田はここに自分が来
ることなど知らなかったはずだ。予想外の来訪だというのに、何がしかの大事な話が、急に降って湧いたように
出てくるはずがないじゃないか。
どうしてこの程度のことを、今の今まで気づけなかったのか。
いや、いつもならばもっと早くに、土田の家になど上がり込む前にきっと気付いていた。だが、今日はどうも調子
が出ない。もちろん、微熱のせいで頭がぼんやりしているというのが一番大きい。それだけではないかもしれな
いが、それ以外のことを考える気もなかった。



『――別の機会では間に合わないほどの用事じゃなかったのか』

ちょっとばかり問い詰めてみたら、土田の眉間にやや皺が寄った。どう対処する気だろうかと思って、さらにじっ
と土田のことを見ていると、土田が困ったように小さく息を吐いた。

「……お前は、人の話をよく聴いてくれるだろう。だから、俺も何かできればと思った」
『……土田、話を端折り過ぎだ』
「……いや、つまり、お前も色々とあるのだろう、と」
『――だから、相談に乗ってやるぞ、ということか。昼間、俺に悩みがあるようにでも見えたか』

その問いかけに土田は無言になる。つまりは、そうだということなのだろう。要するに昼間の俺の言動が土田に
考えさせ、そうしてこういう行動を起こさせたという訳だ。

別の見方をすれば、意図した訳では全くなかったが自分の想いは少々危うい行動すら引き起こしたというの
に、案の定というべきか、土田にはほぼ完ぺきなまでにそれが伝わっていなかったということだ。勿論、悟られて
はならないとは思っていた。自分すら、自分自身の心を読み切れずにいた部分もあった。
だがそれにしても、知られなかったと安堵する反面、微かに寂しさと、痛みを覚えるのは何故だろう。

抱きついて、あわやその唇に口付けすらしそうだったというのに、土田はその気持ちに気づいてもくれなかった訳
だ。

「――最近、俺はあまり昔のことを思い出さなくなった。お前が来るようになってからだと思う。お陰で少し気が
楽になったように思う」

俺は、どうやら過去に囚われていた土田の役に立っていたようだ。
土田の過去のことといえば、自分には1つしか心当たりがない。あの、大学ノートの持ち主のことだ。
持ち主――日向要という者と土田との間に何があったのかは知らない。だが、土田が思い悩んでいるとした
らそのことに違いない。

だが一方で、気が楽になった土田に比べて、俺はどうだ。
土田が悪いわけではない。だが、土田の存在のせいで気持ちがぐらぐらとして、この身に大きな石でも圧し掛
かっているんじゃないかという位の、いわば精神的な重さを感じている自分とは大違いだ。
過去に囚われていた土田はその呪縛から解き放たれようとしているというのに、これまで自身の生活に満足し
ていた俺は、思いもよらないところで足を取られ、逆に囚われそうになっている。
この出会いの、何と皮肉なことか。

そんなことを考えるうち、何故か苛立つ自分がいた。
それは八つ当たりじゃないかという冷静な思いもない訳ではなかったが、湧き出るような自然の感情を消し去
ることは難しい。熱があるせいか、どこかふわふわと、地に足が付いてないような感覚にあることも災いした。
理性が、まるで風に吹かれたろうそくの炎のように無力に揺らめき、そうして消えそうになっていた。


『そうか。お前は、俺のお陰で気が楽になったのか。それに比べて、どうやら俺の方は悩みごとでも抱えていそう
だと、そういうことか』

真面目な顔をして無言のまま頷く土田に、思わず皮肉な笑みがこぼれた。

だって、全く可笑しな話じゃないか。俺の悩みごとはお前だというのに、その俺に慰められていたというお前は一
体何なのか。
それにしても、鈍感にも程がある。昼間には唐突に抱きついて、そうして今度は東京に帰るのを半日ずらした
といってわざわざ家まで訪ねて来て、客観的に見ればどう考えたって俺の言動はおかしなことになっているとい
うのに、そのことを土田は何にも疑問に思わないのか。
それとも、どんなに逆立ちしたって俺がお前に特別な感情を抱いているなど、想像もできないことなのか?


『――俺が何のせいで心を痛めているか、本当に知りたいのか?』

あれこれと感情がごちゃまぜになって、少々自棄気味訊いてみる。
土田は表情ひとつ変えず、真っ直ぐにこちらを見ていた。

「無理強いをするつもりはない。だが、可能ならば」
『はて、可能かどうか、というよりは、望むかどうかという問題だとは思うが……男に二言はないのだろうな?』
「?どうして俺が変節する必要がある」

恐らくは自分とは何の関わりもない悩みごとを聴くのだと思っている土田ならば、そう考えるだろう。全く、ここま
で互いの思惑がずれにずれていると、もう痛快ですらある。

金子の僅かに開いた唇から、小さな笑いが漏れた。
我ながら、きっと意地の悪い笑みを浮かべているに違いないと思った。だが、もう何だか自暴自棄に近いような
気持ちになっていた。想像もしなかった自分の本意を知ったら、土田は一体どんな反応をするだろうか――そ
んな好奇心が湧いてきた。
いや、好奇心どころか、何だか知らしめてやりたいような気分にすらなっていた。

金子はちゃぶ台を手で押して少し前の方にずらすと、腰を上げて土田の目の前まで移動して、その筋肉質な
固い両肩に手を乗せる。
何が起こっているのか、これから何が起ころうとしているのか、まるで見当のついていない土田はやや怪訝そう
にこちらを見上げた。

「金子?」

半ば自棄になって、冷静な判断すら放棄してしまったというのに、後先も考えぬ無謀なことをしようとしている
というのに、不謹慎にも見上げてくる土田の顔に胸が高鳴った。だから、鼻先が着きそうな程近づいて、笑み
を浮かべながら囁いた。

『知りたいのだろう?』

真っ直ぐに見上げる目から視線を外すと、少し顔を傾げて――そうして、土田の唇に口づけた。

望んではいけないもの。
許されないもの。
そうして、本来欲しいとすら思ってはいけないものに、俺は触れてしまった。

自分よりも肉付きのよい、そうして柔らかいというよりはやや弾力のある、締まった唇。
それに唇を合わせ、ゆっくりと丁寧に甘噛みすると、体が微かに震えた。気持ちがこみ上げて、溢れそうになる。
堪らなくなって、土田の体を強く両腕で抱きしめた。

――土田は、驚いただろうか。衝撃のあまり、身動きも取れなくなってしまったのだろうか。

だが、それを確かめるだけの気持ちのゆとりはなかった。





金子は、言った。
俺が何のせいで心を痛めているか、本当に知りたいのか――と。

そのことの答えが、これだというのか。

土田は、想像もしなかった金子の行動に言葉を失った。咄嗟のことで、避けることも忘れた。金子の心痛の
原因が自分にあったということが、少なからず衝撃だった。だがそこまではともかく、それがこの行動に繋がるの
だと言われても、理解が難しい。

何故、口付けなのか。

仮に性的に欲求を募らせていたとして、金子のような男であれば、何も同性の、女性に見紛うことなど到底
困難な自分など選ばずとも、他にいくらでも相手はいるだろうに。
だが、欲求不満を心痛の理由とするほど単純な話ではないだろう。考えてみれば今日の昼間、金子の別荘
に居た時、金子はいきなり抱きついてきた。もし、あれと今のことと関連があるのだとすれば、自分にも責任の
一端はあるのではないか。
あの時恐らくは自制したであろう金子に対して、自分は話をぶり返し、変調の理由を再び問うたのだから。

だが、俺のことで金子が心を痛めるなど、本当にそうだろうか――そんなことを口付けを受けながら考えていた
ら、唐突に圧し掛かられて、押し倒された。

「おい、金子……」

金子の腕に両肩を床に押し付けられて、馬乗りのような形になった金子を見上げる。金子はもう笑みを浮か
べてはいなかった。

『木偶の坊みたいにしていれば、呆れて俺が止めるとでも思ったか?』
「そんなことを考えていたのではない」
『……ふん、別に、どちらでもいいけどな』

金子はそう言い放つと、顔をすぐ目の前まで近づけて、そうしてふいとずらし、耳の付け根の辺りに口付けた。

自棄になっているのかと思うような言い草だ。まるで嫌々、義務で仕方なくしているようにさえ聞こえる。気が進
まぬのならば、何故こんなことをしているのか。

だが、首筋に口付けて、それから顔を埋めた金子は、僅かに唇を離すと、低く、少し掠れたような声で呟いた。

『……知らないぞ』
「は?」
『この辺で突き飛ばしておかないと、後で止めろと言われても、無理だからな』

その言葉に、小さな頼りない声に、何故か胸の辺りがずきんと痛んだ。
この男は自信があるのかないのか本当に分からない。だが思えば、金子は普段からそういうところがある。自分
のペースで話を進めて、そのまま行くのかと思えば肝心なところでこちらに振り返って、そうして様子を見るのだ。
本当にそれでいいのかと。

――もしかしたら、本当は不安で、だけれどそれを素直には言えないだけなのだろうか。それで自信のあるよう
に見せて、それでいて、気を使わずにはいられないのだろうか。

頭の良い男だから。すぐに空気を察してしまうのだろうから。

だからこそ、金子のこんな姿は少し心が痛む。金子には元気でいて欲しいと思う。

「――よく分からんが、止める気が起きん」
『……は……?』

金子が顔を上げた。目を丸くして、口もぽかんと開けていた。

「お前の心痛の元は俺なのだろう。ならば、俺が付き合ってやらねば、他にはおるまい」
『…………馬鹿か……』

長い間。それから続いた言葉も、金子らしいと言えばそうだ。
だがその顔浮かんだ微かな笑みは、やや照れたような、困ったような――それでいて、どこか泣き顔にも見えた。

何故だか、金子と触れている部分に熱を感じた。





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