EPISODE 17 :


『ん……』

柔らかで暖かいものに包まれていたはずなのに、身体を動かしたら少し冷たい風を背中に感じて、目が覚めた。
眠りが浅くなっていたのだろう。早々に瞼を開けるとともに、金子はハッと気づいた。
暗い部屋に豆電球が1つきり。だが、襖の向こう側は明るいのだろう。隙間から僅かに光が漏れていた。
急いで上半身を起こした金子は、自身の状況を素早く確認する。着ているのは、どうやら自分の物ではない、
僅かに袖が長い寝間着。毛布と掛け布団が掛けられた布団の上に居て、しかも金子の知る部屋ではない。

うっかり、寝込んでしまったのか。

しかも暖かく包まれていたせいで少しばかり汗をかいたようだが、その控えめな具合からすると――それは夕方
に自分が引き起こした時のものとは違うように思えた。

金子は急いで立ち上がると、襖を開けた。
眩しさに一瞬顔を背けたが、確認しなければいけないことがいくつもある故に、一足先に口はすぐさま開いた。

『今何時だ』

居間で売上伝票らしき小さな書類を整理していた土田が、顔を上げた。

「10時15分だ」
『俺は、寝てたのか』
「ああ。布団で寝ていたのは30分程だが。腹が減ったのなら、茶漬けでも食べるか」
『ああ、そうだな……て、おい』

漸く目が慣れた金子は、土田の方を見るなり僅かに眉を吊り上げた。

『何なんだ、その長年連れ添った夫婦みたいな会話はっ』
「は?……ああ、いや、分からんが……」

そう答えながらも、土田には面白かったのだろう。顔が少しばかり笑っている。

『あぁ……全く……大体、俺の服はどうなったっ?』
「とりあえず、たたんで置いてある。洗って夜に干したところで、明朝でも乾くまい。お前に聞いてからと思ってな」
『……で、その、あの後、だが、始末というか……』
「……あー……お前は、眠ってしまっただろう。体調が悪かったのだから、当然だろうが。だから、タオルで拭い
ておいた」
『……だな』

金子は、全て想像通りの答えを聞いて、がっくりと肩を落とした。おまけに深い溜息まで出た。

「悪かったか」
『……いや、その逆だ。いっそ、放置するか、叩き起こしてでもくれた方がマシだった』
「?」



あり得ない程の恥のかきようだ。
自分から家に押しかけて、押し倒して、その後眠ってしまい、おまけにその間に身体まで拭かれて、寝間着に
着換えさせられただと?
一体、どこをどうしたらこんなに酷い目に遭えるのか。俺の悲愴な決意やタブーを犯した罪悪感は、一体どの
辺りに残されているのか。それとも、もう消え去ったのか。
お笑い番組の下手なオチだってもう少し同情すべき余地が残されているはずだ。

金子はちゃぶ台を挟んだ土田の正面に腰を下ろすと、再び溜息をついた。

『まるで、茶番だな。重々しい始まりがこんなにも軽々しく終わるとは、いっそもう俺も笑った方がいいのか?』

金子は、何やらひとり言のようにブツブツと呟いた。

「――よく分からんが、少しは、元気になったか」
『……ああ、まあ、元気というか……』

確かに、全ては完璧ではなかったのだ。
あれ程までに求めてやまなかった男だったのだが、思いばかりが先走っていたため、大切なことを失念していた。
それは土田ばかりでなく、自分自身も男を相手にしたことがなかったということだ。
ということは、要するにその知識もないということだ。まあ、他には考えられる形はないのであろう、という想像は
何となくついたのだが、といってそれが正しいかどうかも確かめようがなく、しかもそんな生半可な知識でコトを
進めるには躊躇われるような危険性をその想像は秘めていた。だから、結局互いの手で、という形になってし
まった。
それでも土田の身体の熱は感じたし、その肌にも触れた。2度までも達したのだし、数え切れない程キスもし
た。普段は見ない表情を見ることだってできた。
だから、それだけでも今はとりあえずいいと思えた。何も身体が目的という訳ではないのだから、尚更だ。
そして、それなりに満足したからこそ、どっと疲れと、安堵感が出て眠ってしまった訳だが……それにしても。

こんなに緊張感のない「コトの後の会話」があるだろうか。
茶漬けだと?それまで何をしていたか、この男には自覚はあるんだろうか。





「――あまり色々と考え込むな。また具合が悪くなるぞ」

ムッとなった金子は、顔を上げる。

『それじゃあまるで、俺が考え込んで熱が出たみたいだな。知恵熱だとでも言いたいか。俺を馬鹿にしているの
か?大体っ……大体、お前は、分かってるのか?状況をっ』
「――ああ」
『ああって……』
「――だからこそ、ではないのか」
『は?どういう意味だ』
「お前は、明日東京に戻るのだろう」
『……そうか。そういうことであれば、納得、だな』

確かに言われてみればそうだ。俺との関係など、そもそも最初から土田は深く考える必要などないが、それ以
上に、自分はもう東京に戻るのだ。明日帰るような男との関係をきちんと考えろだとか、状況を理解しろなど
と求める方が勝手だ。
そもそも、俺は一方的に思いを遂げたかっただけだ。
それなのに――土田が予想外に優しく、協力的だったものだから、何が何だか分からなくなってしまった。今だっ
て、状況は何も解決していないのだから、土田の優しさに、どこかで自分は甘えているのかもしれない。

だが。


「だから、お前はあまり考えるな」

繰り返すことでそればかり強調するような土田に、ふと違和感を感じてその顔を見つめた。土田はあまり表情
を変えない。普段から、喜怒哀楽が分かりにくい。だがそれでも、醸し出す空気が変わることはある。僅かな
表情の変化はある。
今の土田の言い方は――あんまり考え込むな、といったアドバイス程度の気楽な言葉以上の何かを意味し
ているように聞こえた。土田が考え込まないことを選んだ理由は、俺に考え込ませないためだとでも言うような
口ぶりだった。考えすぎならそれでもいい。だが、何とはなく気になって土田の顔を見つめていた。
すると、土田は無表情ながらも僅かに視線を落した。

『……どういう意味だ』
「深い意味はない」
『そうは聞こえなかった』
「本当だ。――ただ、元気になってから、東京へ戻るのが良かろうと……それだけだ」

その言葉に、言い方に、何故か金子は胸の辺りに小さな痛みを感じた。
気のせいではないかもしれない――そんな直感だった。そうと気付くと、身にある覚えを思って独りでに鼓動が
速まっていく。

『……土田。何か、言いたいことがあるんじゃないか』

土田が、僅かにこちらに視線を向ける。それは、どちらかというと躊躇うような目だ。
気のせいではない、と金子に直感させるに余りある様子だった。

まさか。
まさか、知っているのか。

金子は、土田を直視することに困難を感じて、視線を落した。握った掌が冷たく湿ってくる。
――何を自分は浮かれていたのか。何を自分は現実逃避していたのか。

『……深く聞くつもりはない。だが、つまり、お前は、東京に何があるか、知っている、というのか』
「……」

土田の無言は、是という答えだ。
土田は、知っている。どこまで正確で、詳しくなのかは分からないが、多分知っているのだ。自分の身の上を。

『……どうやって』
「……お前が、パーティとやらの帰りだと言って、寄った時があっただろう。あの時――指輪をしていた」

決定的だ。
金子は、ふっと小さく息を吐いた。

『お前にしては、随分と細かいところに目が行ったな』
「家に長く居ただろう」

あの日は退屈なパーティの帰り、土田の店に寄ったものの既に閉店しており、その代わりに土田の自宅に上
がり込んで夕食を御馳走になった後、酒盛りになだれ込んだ。確かに食事にしろ酒を注ぐ時にしろ、目にする
機会は多かっただろう。
あの日は土田がどこか元気がなく、何となく酒に付き合ってやろうと思った。あの頃はまだ、無邪気にも初めて
土田の家に上がり込んだことすら楽しかった。勿論、自身の土田に対する気持ちなど友人程度のそれでしか
なかった。
だからこその、油断と言えばそうかもしれないが、何もあの日だけでなく、普段はしまってあるもののパーティや
接待、実家に絡むイベントの時など、自分の中で公と区別される場所では世間体も考えて付けていたのだ
――結婚指輪を。

今となっては悔やんでも遅い。あの時は、土田との関係をより複雑にしようなんて考えてもいなかったのだから、
気のつけようがない。だけれど、それでも悔んでしまう。

できれば、知られたくなかった。
勿論、いつかは知られることだ。だが、今はまだ知られたくはなかった。あとから卑怯だと罵られようとも、この男
にだけは。

『……軽蔑したか』
「……いや」

どうして土田は否定するのだろう。
応えた自分にも非はあるとでも思っているのか。それとも、俺は最初から軽薄な男だとでも判断されていたの
か。こんなことを遊びでする男だと看做されていたのか。

土田にもきっと土田の言い分があって、それもこれもきっと気を使ってのことなのだろうと想像はつく。だが、その
方がよほど辛い。いっそ罵ってでもくれた方がまだマシだった。
自分だって、自身の愚かさをよく分かっているのだ。
だけど、どうしようもなかった。こんな気持ちに、今までなったことがなかったから。欲しくて欲しくてたまらないと、
まるで駄々っ子みたいに泣き叫ぶような、そんな泣きたくなるような想いなど、今まで抱えたことがなかったから。
何故今になってこんな気持ちを知ったのか。知らずに一生を終えられるなら、それに越したことはなかったのに。
知らないからといって、今まで何1つ不自由なく暮らしていたというのに。むしろ、知らなかったからこそ、今まで
幸福でいられたのだ。恐らく、それ――適度で、自分自身を見失うことのない、品良く収まった愛情ではなく、
前後の見境すら付かない程に身を焦がされる、執念にも似た感情――以外の全ては、自分の生活に揃っ
ていたのだから。
それなのに、何故今になって”それ”を知ってしまったのだろう。雛子には、感じたことのなかった「感情」を。

「――金子」

不意に、力なく座っていた自分の肩に、温かい手が乗せられた。

「……確信していた訳ではないが、お前には待っている人が居るのだろうという予想はしていた。だが、俺はお
前の手を振りほどかなかった。止めろとも言わなかった。俺も――同罪だ。俺は、軽い気持ちでお前が動いた
のだとは思わない。……だが、もう、忘れ――」
『土田っ』

言葉の途中で大声を上げた俺に、土田は驚いて、言葉が途切れた。

分かっている。土田の言いたいことも、何が正しいかも、自分には分かっている。土田の言葉など聞かずとも。
だが、聞きたくない。自分勝手なのは自覚していた。自分の行動が、色々な人間を傷つけていることも分かっ
ていた。

でも、今すぐ関係を断ち切る決意をしなければいけないのか?もう、全てを忘れなければいけないのか?
やっと想いを伝えたばかりなのに。きちんと土田と向き合うことができたのに。
つかの間の夢を見ることすら、許されないのか?





金子は、声を荒げて名を呼んだきり、黙って下を向いてしまった。
だがそれでも、金子の顔が完全に見えなくなってしまった訳ではない。
唇を噛んで俯く姿は小さく見えて、胸を締め付ける。

全てを確信していた訳ではない。
だが、金子を待つ人が東京に居るのなら、自分の出る幕などない。

自分が拘っては、金子は苦しむばかりだ。そう思ったからこそ、忘れた方がいいと言おうとした。
だが、その言葉もやはり、金子を苦しめてしまう。

そんなにも、自分のことを思ってくれていたのだろうか。
金子のそんな気持ちをきちんと正面から考える前に身体が動き、そうして今また、それ以外の問題が付きつ
けられて、結局金子の気持ちよりもそちらの方にばかり話が進んでしまう。
だが、少なくとも金子と過ごした時間は楽しかった。つまらないと思ったことは一度もなかった。何が面白いかと
問われれば特に何が思い浮かぶ訳でもないのだが、それでも、金子と話す時間も、また話さずただ杯を重ね
ただけの 時間も、穏やかな気持ちでいられた。もしも好きか嫌いかと問われれば、自分は即座に好きだと答
えられる。それは金子の”そんな気持ち”とは少し違うかもしれないが、それでも、自分なりに金子に対しては
好意は感じている。
だからこそ、金子をこれ以上辛い目に遭わせたくはない。そう思ってのことだったのだが。

忘れるということもまた、金子を苦しめるのならば、自分はどうすればいいのだろう。
どうしていれば、いいのだろう。


少しばかり大きい自分の寝間着を着た金子が、何やらしおらしく見えて、胸の辺りをざわつかせる。
それとも、今になってそんなことを考えるのは、卑怯だろうか。



春の夜の少し肌寒くも爽やかなはずの空気が、家の中だけ、僅かな言葉すら押し込めてしまう程の重苦しさ
に覆われていた。





tto the EPISODE 18



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