EPISODE 18 :


掛けるべき言葉がない。何の決意もない。
ただ、考えることから、少し逃れたい。

金子は、無言のまま、やがて窓の外を見た。
冷静になろうという気持ちもあったが、感情は合理的に動く訳ではないのだ。何をすべきかということよりも、今
どうしたいかという方が優先されてしまう訳で、そういう意味で今は何も言いたくないし、何も決めたくなかった。

静かな時が流れた。その間、土田は何も言わず、ただそこに座っていた。
どれ位時間が経ったのか。やがて、土田が立ち上がるのが視界の端に映る。だが、特にそちらを関心を向け
ることもなく、ただ外を眺めていた。

その内、コトン、という小さな音がして我に帰る。視線を向けてみれば、机の上にお猪口が置かれていた。

「――少し、飲むか?」
『……そうだな。もらおうか』

土田が徳利から冷酒を注いだ。

どれ位黙っていたのか、時間が過ぎたのか、よく分からない。だが、そのお陰で気持ちが大分落ち着いた。
普段は鈍感だの不器用だのと言っているが、案外土田は人のことをよく見ている。今だとて、話したくないと思っ
ている内には声をかけてくることもない反面、落ち着きを取り戻してきた頃にはそんな自分の気持ちを見計らっ
たように酒を用意してくる。
土田が少々落ち込んでいる時に自分が偶然立ち寄ったり、少し飲みたいと思っていると土田が誘ってきたり、
何故かこういうタイミングは自分と土田との間であまりズレがないようだ。性質も、性格も、まるで違うというのに、
何故か肝心な時に、偶然にも相手のことが見えてしまうのだ。

注がれたお猪口の中の酒を一気に飲み干してしまうと、土田も一気に飲んでしまったのだろう。改めて2つ、
注ぎ足す。

それから暫く、ただ静かに飲んでいた。交わした言葉は殆どなく、といって無理して黙り込んでいる訳でもない。
自分も土田も互いに視線を合わせることもなく、まるで1人で飲んでいるかのように相手を意識しなかったが、
それでいて不思議と違和感は感じなかった。

こんな関係もあるんだな――金子は漠然と思った。

何だかんだとあったのに、今は自然とお互いが一番良いという距離感で向き合っていて、無理がない。現実
逃避をしている訳でもなく、無理に気持ちをここに縛り付けている訳でもなく、何もせずとも気持ちが穏やかに
なっていく。ただ、この男が傍に居るというだけで。


『卑怯な形で、逃げるつもりはないんだ。だから……少し、時間をくれ』

心が、すっかり警戒感を解いていたのだろうか。ふと、勝手に言葉が独りでに口から出てきた。
だが、それは本音であったし、何ら計算した言葉でもなかった。

『今日のことは……別に忘れてくれても構わない。お前がしたいようにすればいい。だが……俺は、生半可な
気持ちだった訳じゃない。だから……自身の問題として、俺は、もう少し冷静になってから考えたい』

結局のところ、これは自分の問題だ。土田が今日のことを覚えていようと忘れようと、現実に問題を抱えてい
るのも、気持ちの整理をつけなければいけないのも、自分なのだ。
土田が自分の気持ちに応えてくれなかったとしても、自分が今感じているこの気持ちは否定のしようがないし、
少なくとも”誠実な夫”という役割を大きく傷つけてしまったことにも変わりがない。土田との関係を一方的に変
えてしまったことも事実だ。

土田が、空になったお猪口に静かに注ぎ足した。

「そうか。……俺は、いつでもここに居る。疲れたり、困ったりしたら、来るといい」
『は……何だか、身の上相談所みたいだな』
「そんな身分ではない。話を聞いても、何も解決してやれん。だが、聞くだけなら俺にもできる」

土田らしい、等身大な答えだ。
だが何より、土田が自分の気持ちを知った上で、自分を遠ざけるつもりのないことが嬉しかった。
本来であれば、その可能性だってあった。一方的に2人の関係を変えようとしたのだ。高みを望んだ結果、気
の置けない友人という立場すら失いかねなかった。
同性に好意を寄せるなど、寄せられるなど、普遍的な価値観とは言えないのだから。

だが、土田は優しい。本当にお人好しなのだと改めて思う。人のことより自分の身に起こったことを真っ先に考
えるのが当然だというのに、土田ときたら先程からこちらに気ばかり使って、随分と言葉を選んでいる。
俺を、追い詰めないように、余計なことを言わないようにと。
そんなことだから男になど押し倒されるのだと、ちょっと笑ってしまいそうにすらなるが、この状況においてそんなこ
とを考えるのは、少々恩知らずだろう。そんな土田に自分が救われていることを思えば、辛辣に過ぎる。

欲を言えば、土田の気持ちが知りたいという思いはあった。
何故土田は拒まなかったのか。気持ち悪いとは思わないのか。あんなことがあっても、そんな風にいつも通りで
いられるのは何故なのか。
少しは――期待してもいいのか。その優しさは、多少なりとも良い方に解釈してしまってもいいのか。

きっと土田は自分だけでなく他の者にだって優しい。
だが、今はそれが特別に映ってしまう。勘違いだとは分かっていても、やはり心の片隅ですら期待していないと
言えば、嘘になる。
だが、既婚者の身である今の自分に土田の気持ちなど問う資格はない。土田の気持ちがどうだから自分は
こうするとか、そんな考えは卑怯だ。



「――もう遅いが、どうする。俺はどちらでも構わん」

気が付けば、もう夜の11時を過ぎていた。
時間が経つのは本当に早い。誰かを追い求める想いは、時間すらいつも以上に食い潰してしまうのかもしれ
ない。

帰りたくない。この場所から、この土地から、離れたくない。
だが、それは不可能だ。明朝の列車は今度こそ、絶対に逃すことができない。せめて夜が明けるまでという甘
い考えが心のどこにもないと言えば嘘になるが、果たして自分が明日の早朝、時間が迫る中あっさりと立ち去
れるかといえば、少々自信がない。朝が弱いという現実的な問題も加味すれば、さらに不安要素は多い。

何より、東京にある、本来自分の在るべき姿をこれ以上蔑ろにはできない。何の結論も出さないでおいて、
これ以上雛子を裏切ることはできない。既に十分、自分は卑怯なことをしているのだから。


土田の傍らに居て、随分と穏やかに落ち着いていた気持ちが、少しばかり乾き、ざらつく。
目を逸らすことのできない現実を思うと、苦しい。
だが、これ以上は土田にだって迷惑をかけられない。土田の前で、辛そうな顔などしたくない。

『……勿論、帰るさ。明日の列車は午前中だからな』
「――そうか。ならば、途中まで送ろう」
『俺は女じゃないんだぞ。1人で帰れる』
「山道のところまでだ」

やはり、前よりも少し優しくはないか?土田――金子は改めて思う。
だが、深く追求しようとは思わなかった。土田に優しくされればされる程、みっともない姿は見せたくないと思う。
惨めな顔など見せたくないと思う。
恐らくは意図しないところだろうが、土田の優しさが、言動とは裏腹な心を抱え、ともすれば重くなりがちな今
の自分の背中を押していた。

返すのはいつでも良いなどとなどと言われて、少々ヨレヨレになってしまった自分の服の上に、土田の僅かに大
きいカーディガンなど着せられて外に出てみれば、確かに、寒さからすればこれ位が丁度いい。
恐らく熱は大分下がったのではないかと思うが、やはり風邪を引いていることには変わりはないのだろう。


『――桜、きれいだな』
「ああ」

土田の家の道場で花見をしたのは、未だ昨日のことだ。自分の土田に対する気持ちの違和感に気付いたの
も、あの時だ。たった1日しか経っていないのに、まるであの時が遠い過去のように見える。
だが、桜は相変わらず花を満開に咲かせている。
当然だ。実際には、時はほんの僅かしか流れていないのだから。


土田の家の敷地を抜け、暗い山道を歩くと、遠くでフクロウの鳴き声が聞こえた。
この辺りは本当に自然以外には何もなく、年代物の外灯も心許ない程度の灯りを燈し、随分と間隔を置い
て見えるだけだ。

『本当にお前の家は人里離れているな。まるで、隠れ家だ』
「まあ――元は豪農の家だと言うから、この辺一体が家主の土地だったのかもしれん」
『確かにな。それに、たまたまこの先に駅ができたからこそ、周辺が商店街という形で拓かれたのだろうから、別
にここが昔から特別に辺鄙だったとも言いきれないだろうし』

差し障りのない会話――もしかしたら、自分と同様、その方が気が楽だと土田も思っているのかもしれない。
だが、土田の家は実際にはそこまで山の奥地にある訳ではない。確かに外れてはいるが、山麓でしかない。
山道などといっても、長くともに歩いていられる程の距離ではないのだ。
だからこそ、既に開いている店などなく灯りは限定的であったが、商店街の端が既に視界に見え始めていた。

強い意思が働いた訳ではなかった。少なくとも、自分にその自覚は全くなかった。
だが、行く道の先にある光を視界が捉えた時、無意識の内に足が止まった。

「?……どうした」

一歩二歩と先に進んだ土田が、ふと傍らの不在に気が付いたのか、言葉とともに足を止め、振り返る。
暗くてその表情はよく見えなかった。だが、計算していた訳ではないものの、その闇に感謝した。土田の顔が見
えないということは、土田にも自分の顔は見えないということだから。

だが、冷静に自分と状況を見つめていられたのはそこまでだった。
足を進め土田の胸の内へと近づくと、土田の首の後ろに左手を回して項を掴み、少々乱暴にその唇を奪っ
た。

荒々しい本能と、欲望と言われればきっと否定はできない。
余裕のない気持ちに変わりはない。

だが、別れを目の前にして、次にいつ再会できるかもわからない状況で、冷静でいられる者なんているだろうか。
暗闇であることと、押し倒した時からまだ日付が変わっていないのだということを言い訳とすることに、何の躊躇
いもなかった。

『っ……ん……っ』

滑り込ませた舌で土田の口腔の感触をいちいち確かめて、愛撫というよりも奪うように舐め尽くし、土田と舌
を絡ませる。すると、身体は瞬く間に熱くなった。
息をつく間さえ惜しい程に、何度も角度を変え、より深く繋がる場所を探す。

今なら、もしかしたら後ろから刺されようとも気づかないかもしれない。きっと自身の全神経は、土田に集中し
てしまっていただろうから。

唇を僅かに離すと、少々苦しかったのか、土田が小さく口で呼吸した。

「……驚かせるな」

唐突なキスは、土田を驚かせたのだろう。咄嗟に土田の身体が硬直したのは、自分にも分かっていた。だが、
土田の口調はきつく咎める風ではない。まるで子供に対して、困った奴だと半ば呆れるような、そんなゆとりが
ある。
だからつい、少しだけ追求してみたくなった。

『怒らないのか?』
「……今更だろう」
『ふ……まあ、それはそうか。今日の昼間、俺を受け入れておきながらキス位で怒るのもおかしいな』
「開き直るな」
『でなきゃ、今日1日分の言い訳を全部しなければならなくなる。ならば、いっそ開き直るさ』

そう言って鼻先で笑ってやれば、土田はやれやれと言わんばかりに、小さくため息をついた。

『――もう、ここまででいい』

未だ向き合い、鼻先がつきそうな程の至近距離のまま、金子が呟いた。

「大丈夫か」
『俺程のいい男だと、帰りの道中痴漢すら引きよせてしまいそうか?』
「馬鹿者、そうではなく――」
『分かっているさ。……大丈夫だ。もう、落ち着いた。今、お前からエネルギーをチャージしたからな』
「あのな……」

たまに見る困惑顔で口を開く土田に、笑みを浮かべながらもう1度、唇に触れるだけの軽いキスをした。

『また、来る。きちんと考えた上で、それがどんな答えであろうとも、必ずお前には言うから』
「あまり気負うな。まずは風邪をきちんと治せ」
『全く、お前は人の心配ばかりだな』

そう答えながら、身体を離す。急に、寒さが身体を覆った。

だが、大丈夫だ――金子は自分自身に呟いた。

土田は冗談と思ったようだが、確かに今、自分は土田から気力をもらった。
きちんと現実と向き合うために、そうして東京に戻る為に、力強く背中を後押ししてもらった。


だから、大丈夫だ――金子は笑顔で土田を見ると、背を向け、独り、商店街に続く道を歩いていった。

身体が寒さに包まれようとも、心は今、すっかり暖めてもらったから。





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