EPISODE 19 :


土田に対して心にもないことを言ったつもりはなかった。至極、真面目だった。嘘など1つもなかった。
だけれどある意味予想通り、予定していた列車の指定席に座り、暫くもすると高ぶっていた気持ちは冷静さ
を取り戻し始めていた。
自慢にもなりはしないが、そうなる自信はあった。恐らくは、少々賢しらな方向に柔軟性があるであろうことにも。


列車は昼過ぎに東京駅に到着した。そこから地下鉄に乗り換えて30分と少し、都内の自宅マンションに着い
た時、時刻は13時半になっていた。雛子の乗る飛行機の到着時刻は、今すぐ車で成田に向かって間に合う
かどうかというギリギリのところだ。着いたはいいが、空港内でまごまごしている内にすれ違ってもおかしくないと
いう時間だった。
だから、電話で大きめの花束をオーダーして届けてもらうと、それをダイニングテーブルに飾り、自分は荷物を
解いて家に居た。

予定していた前日の列車をキャンセルしたことも、迎えに行けなかったことも、”微熱をともなう風邪”は意図せ
ずに、最良の言い訳となった。夕方になり玄関に彼女を出迎えた時、自分はごく自然に、何の躊躇いもなく
彼女の背中に手を回し、そうして抱きしめた。

夕食は近所の鮨屋を予約して、彼女の催したNYでのショーの話を中心に、ディナーでの話題には事欠かな
かった。
傍から見れば、恐らくは何の問題もない、微笑ましい夫婦の光景に見えたに違いない。美しく才能溢れる妻
に、多少なりとも成功しつつあると言って憚りない程度に順調な自身の仕事、そして他人が少々羨む程には
ゆとりのある生活――そんな、文句のつけどころのない世界に、自分はごく自然に戻っていけそうだった。
そうしたくなるだけの価値がそこにはあったし、一番無理ない着地点でもあった。

こんなことを思う自分は、不実な男なのだろう。おまけに自分勝手で、随分と人騒がせだ。

だが、所詮これは自分自身の問題でしかない。不誠実な行いに対する真摯な反省は必要だとしても、事後
の対処とそれに伴う責任は全て自分にある訳で、これは他人の顔色や状況を窺って決めることではなく、まし
て何らかの義務が生じる訳でもない。あるとすればそれは道義的、若しくは法律上の問題のみであって――
まあ、要するに極めてざっくばらんに結論を言ってしまえば、自分さえ納得がいくのなら、一時の気の迷いと片
付けてしまってもいいんじゃないかと考えた訳だ。

実際、そう結論づけて困る者は本来自分以外にいない。土田は一方的に想いをぶつけられただけで、土田
自身は自分に対する拘りなどないはずだ。雛子は、もし昨日の自分の言動を知ったとすれば、”一時の気の
迷い”の犠牲者ということになる。だが、知らずに済めば、知られずに済めば、きっとそれに越したことはない。
つまり、”困る者”である自分がそれでいいと思えるならば何も問題はない訳で、元に戻れば、そしてそれが可
能であるならば、このまま何事もなかったように片付けてしまうことが、三者とも一番傷が浅く済むではないかと
思った。

何だかんだと人騒がせな振る舞いをして、特に土田に対しては迷惑をかけてしまったが、そこはいずれ再会し
た時にでも率直に謝ってしまえば、それでよいのではないか――そんな風に思った。多少軽薄な感は否めな
いが、元よりそこまで生真面目な性質ではないのだし、と開き直ってしまえばもう結論は粗方出た気さえする。

実際、それは叶いそうに見えた。途中までは。



”大切な君に風邪を移しては大変だ。自由気ままに物書きなどしている僕と違って、忙しい身なのだから。そ
うでなくとも、大事なNYでのショーを成功させて凱旋帰国したばかりだからね。マスコミに注目される時だ。そん
なタイミングで、万が一にも君を寝込ませてしまっては、君の会社に僕が叱られてしまう。だから、今日は僕は
書斎の簡易ベッドで寝ることにするよ”

その日の夜になって、もう寝るという段になって、その思いもかけないことは起きた。

内心自身に愕然としながらも、何も知らずに真っ直ぐな目を向ける雛子に対して、冷静に言葉を放つことが
できた自分は、演技の才でもあるのではないかと思った。
そんなことは気にしないという雛子に対して、こちらの気が済まないと返した自分に、雛子はそれ以上言い募
りはしなかった。途切れた言葉の合間に、雛子の頬を優しく手の甲で撫でる。彼女の顔に、柔和な微笑み
が浮かんだ。
きっと、妻を気遣う夫の役を演じきれたのだろう。
正直なところ、例え一時の間とはいえ、こんなにも己の気持ちに蓋をできた自分に感心すらした。

雛子の腰に手を回し、頬にキスし、そうして抱きしめた後、すぐさま寝室を出る。
演技はそう長くは続けられそうになかったから。それだけ、自分に対する衝撃が大きかったから。

寝室のドアを閉めた途端、胸に敗北感のようなものが広がった
実際、これは一種の敗北だ。都合よくことを収めようとした自分の考えが浅はかであったと、早々に知らされた
のだ。
それも、理性で下した結論に対して、他の誰でもない、自分自身の本能によって。

今日の夕刻、雛子を玄関に出迎えた時、彼女を抱きしめるのに何の躊躇いも感じなかった。
それなのに、夜になり、寝室で身なりを整える彼女の後ろ姿を見た途端、説明しがたい、胸を騒がせるような
緊張感を感じて、落ち着かなくなった。どうということはない、会話の端に何気なく身体に触れられて、戸惑い
と、違和感を感じた。雛子の手が、何か他人のもののように感じられた。
確かに感じたのは、異質な感覚。
嫌悪感という程ではない。そんな強いものではない。だけれど――自分の皮膚が、身体を巡る神経が、躊
躇いを感じているのが分かる。きっとそれは、そこまでではなくとも、拒否反応に近い。

嫌悪なんかじゃない。俺は雛子のことだって好きだ――そう自分に言い聞かせるものの、言葉でどうにかなる
ものではない。皮膚感覚にそんなものは通じない。
無論、その感覚は脳や心の動きと連動しているはずだ。
頭では、別に拒否してはいない。心だって……嫌いだとか、触りたくないなどとは思っていない。
だとすれば、自分の抑制が効かない部分で拒否しているのか。

何故?


書斎のドアに力なく寄りかかった金子は、僅かに広げた自分の両腕を見下ろした。
抱きしめることだってできた。頬に口付けることだって、できた。

状況的に、その先には繋がらないと、分かっていたから。

土田の姿が思い浮かびそうになって、急いで両手を握ると、ぎゅっと目を閉じた。
だが、実際にはそれは成功しなかった。その姿が瞼の裏にまざまざと浮かぶことはなくとも、身体が――皮膚と、
肉の感覚が土田をすぐにでも思い出す。土田の肌が、匂いが、まるでここに居るかのように再現され、身体を
包みこんでいく。

それだけで、身体が熱くなった。

『……ちっ……最悪だ……っ』

金子は苛立つ思いを小さく吐きだす。
己のあまりに直接的な、正直すぎる性に怒りさえ覚える。人の気も知らずに、とはこのことだ。
だが、理性で抑えつけた本能は理性など容易く裏切ってしまう。

金子は大きく何度も深呼吸した。

熱い想いだけではない。土田のことを思い出すと苦しい。満たされない思いで不安と焦りばかりが募る。すぐ
傍にいる時は触れずとも、話さずとも、そこにいるだけで気持ちは落ち着いていたのに、遠くに切り離された今、
いや、例え土田の家から自分の別荘までの1時間の距離であった時さえ、心は掻き乱された。

急激に燃え上がった炎だからこそ、最初の頃は手もつけられない程激しいのかもしれない。
だが、理性の部分ではそんなことだって分かるのに、実際には心は理屈などでは押さえつけられず、もがき苦し
むばかりだ。
こんな思いまでして、それでも土田なのか。何故土田でなければいけないのか。
雛子はこれ以上望むべくもない程自分に相応しい女性だと分かっているのに、彼女の元にさえ戻ることができ
れば一切の苦しみから逃れられるのに、何故彼女ではないのか。

自分の気持ちに確信を持った昨日から、自分は同じことばかり自身に問うている。
その答えに納得できず、間違いであって欲しいと願って何度も何度も問い続けている。だが、どうやっても答え
を訂正できない。足掻いても、足掻いても、答えを変えられない。

結局、自分はそう簡単には戻れないのか。


書斎のデスクの椅子に腰を下ろすと、金子は頭を抱えた。

何より、自分自身に対する苛立ちと焦りが大きかった。
今日の未明にはまだ土田の元に居たということも一因かもしれない。だけれど仮にそうだとしても、自分にはそ
んな執念にも似た執着心や、貞操観念など希薄だと思っていた。これまでの自身を振り返ってみても、やや
軽薄であった自分は思い出せても、貞淑かつ一途な自分は残念ながらあまり覚えがない。最も当て嵌まると
言えば、雛子との出会いから短い婚約期間を経て入ったこの結婚生活位だ。
それですら今現在この有様なのだから、救いようがない。
そういう意味では、物事にあまり拘る性格ではないと自負していた。そんな自分だからこそ、淡い期待も、いや、
それよりも強い予感めいたものすら、持ち抱いたのだ。
自分は、上手い具合に乗り切れるのではないかと。

それなのに、このままではそれも覚束ないかもしれない。自分がこんな風では、今までのような結婚生活は続
けられないだろう。何より、そこまで雛子を裏切ることには耐えられない。彼女は何1つ悪くないのだから。


土田の存在と、土田に対する想いは、自分の従来の価値観を吹き飛ばしてしまいそうだった。実際、もしも
この想いを遂げるつもりならば、価値観どころの話ではない。自分の生活も吹き飛ばしてしまう。
きっと人生は大きく一変するだろう。

勿論、その可能性は頭の片隅でいつも考えてはいた。
今までだって何度となく恋はした。激しい恋愛ではなくとも日々の生活に彩りを添えるに足る程には華やかで、
好奇心を刺激される、一種の好ましいイベント――そういう意味で、いつだって誰かに恋することは好きだった。
だが、今回はそういったものとは大分違うのだと、最初から分かっていた。

分かってはいても、心のどこかで期待していた。いや、人生を大きく変えるであろうことが予測されたからこそ、
自分はその道を歩まないで済むこともあるのではないかと淡い希望を抱いていた。
従来の自分から鑑みて、割合にすんなり目が覚めるのではないか。きちんと分別がつき、状況から自ずと最
善の道を判断し、それに沿って振る舞えるのではないかと。
そういったことは不得手ではなかったのだから。

だが、少なくとも今は認めざるを得ない。
不器用で、分別のない、女々しい自分を。
自らの手で今まで築き上げてきたものを壊しそうになっている自分を。





「イチゴだ。なかなか甘いぞ」
「いつもすまん」
「女房からだ。この前もらった調味料の御礼だと。あれは色々使えてすごく重宝だと、喜んでいたぞ」
「そうか。必要ならば、今度作り方を書いてくる」
「いや、それはいい。またお前が多く作った時にでも、分けてくれ」
「別に門外不出のものではない」
「バカ。家で素人などが作ってみたはいいが、失敗してみろ。その失敗作を片付けるのは俺の胃袋なんだぞ?」

そういって渋面を作るかつての警察学校での師に、土田は僅かに笑みを浮かべた。

「――もう少し、ここに居てもいいか」
「あ?……ああ、構わないが。ただし、誰かが尋ねてきたら帰れよ。交番は狭いからな」
「無論だ」

土田は、事務作業に戻った巡査部長の傍らの、少しばかりがたついたパイプ椅子に腰かけた。
仕事を邪魔するつもりはなかったから、黙って出入り口から見えるロータリーを眺める。

少しずつ、暖かくなってきたからだろうか。最近、少し駅前にも人が増えてきた気がした。

「そういや、もう5月だな。ゴールデンウィークは実家に帰るのか」

ぼーっとしていた土田を尻目に、チラリと視線を向けた巡査部長が再び紙面を見下ろしながら問いかけてきた。

「いや。店もあるし」
「まあ、休みは別荘に遊びに来る者も多いか。5月といえば、お前は誕生日だったな。いくつになる」
「27だ」
「……まったく、いい若いもんが、たまには店など休んで遊びにでも行ったらどうだ」
「――別に、今の生活に不満などない」
「それがダメだというんだ。お前は若いくせに人生を型にはめ過ぎだ。たまには羽目でも外してみろ」
「……」
「何なら、俺が非番の日に店番でもしてやるから」

巡査部長の言葉に、土田が僅かに相好を崩した。

もしかしたら、励ましてくれているのだろうかと思って。



自分は、いつも通りだ。何も変わりはない。
唯一変わったことといえば、気にかかることが1つから2つに増えたということ位だ。相変わらず行方不明のあの
人と――そして金子のことと。
金子がこの地を去ってからまだ10日程だ。だが、あの人と違って最近というせいもあるのだろう。金子のことが、
いや、どちらかといえばあの人のことよりも金子のことばかりが、気にかかった。

金子は元気だろうか。体調不良はもう良くなったか。奥方と上手くやっているだろうか。またあれやこれやと、考
えすぎてはいないだろうか。

だが、それとは別に金子がこの地を去ってから、自分の生活は少しまた、変わった。
金子がここに滞在していた1ヶ月半の間、特に後半の約1ヶ月は、金子がよく訪ねてきていた。単なる食事の
時もあれば、その後酒を飲むこともあった。
金子はこの地でできた最初の同年代の友人だ。あの男の話は面白かったし、新鮮だった。ただ訪ねてくるだ
けで、何とはなく明るくなった。それが急になくなると、生活の一部が欠けたような気がして、何やら喪失感を
感じた。
元に戻ったというだけだというのに。

それは、当然といえば当然だ。仲の良い友人が、急にいなくなってしまったのだから。
友人――自分はまだ、そう言ってもよいだろうか。


金子という存在を、未だどのように位置づければよいのか、自分は迷っている。
金子の気持ちを考えると同時に、金子の立場も鑑みるから、余計に困る。
あれはきっと金子の――恐らくはその時は真剣だったにせよ――一時の気の迷いだったのだろうとも思う。もし
かしたら、もう会わない方がよいのかもしれないとも思わぬではない。

だがそうであれば、少し寂しい、と思う。





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