EPISODE 2 :


「らっしゃい」

ガラスがはめ込まれた濃茶色の木枠の引き戸を横に引くと、低音の、殆ど抑揚のない男の声が奥から聞こえ
てくる。

紺色の暖簾の裾を左手で横に除けて中に入ると、決して広くはない店の空間が広がっていた。左手に広が
るL字型のカウンターは6席余り、他には小さな木製の2人掛けのテーブル席が2つと、4人掛けの席が1つ、そ
れに右手の奥には座敷であろう畳敷きの小さな和室が1部屋だけ見える。

――何というか……全体的にあっさりだな。

実際、カウンターやテーブルセットなど、必要最低限の家具しかおいていない。一面の白い壁を飾る小さな額
すらなくて、強いていえば窓の外に見える竹林が唯一の店の装飾品と言えるだろうか。それでも雑然としたと
ころがなく、小ぎれいなところは好印象だが、といって些か殺風景過ぎるのは否めない。
これで席が全て客で埋まっていれば、その様子も特に目に留まらなかっただろうが、生憎今は2人掛けのテー
ブル席に老夫婦らしき客が1組いるだけだった。

――まあ、季節外れの別荘地の、しかも商店街から外れた店ならばこんなものか。

そう思いを巡らしつつ、ちらりとカウンター奥に居る店の者に視線を移すが、その男はこちらに背を向けたままだっ
た。


『忙しいところ悪いが、ここに座ってもいいか』
「ああ。好きなところに座ってくれ」

店の男は、やはり振り返りもせずに答える。どうやら自分の厭味は全く通じなかったらしい。

些かそんな様子に呆れつつも、とにかくカウンターの1番端の席に座ると、そこから男の姿が斜め後ろから少し
見えた。
何やら先程から随分と熱心に作業しているようだが――そう思って、その男の手元を覗き込む。すると、男は
老夫婦の頼んだものらしき蕎麦麺を盛り付けていた。

たかが麺をざるそば用のせいろに乗せるだけじゃないのか――とつっこみを入れたくなったが、どうやら男には拘
りがあるらしい。でなければ、よほどの不器用者だろう。新しい来客に見向きもしない程真剣に取り組んでい
るのだから。

やがて盛り付けが終わったのか、店の男はお盆に料理を乗せると、自ら老夫婦のテーブル席へと運んでいく。
その間も、男はこちらには一向に振り向かない。やれやれ……と思いつつ煙草とライターを胸ポケットから取り
出した。


「ありがとう。いつも手間をかけちゃって、申し訳ないねえ……」
「いや」

そんな会話が背後から聞こえてきたから、首を少々横に向けて視線を流してみる。2人掛けの席に座っていた
老夫婦と見える客の、女性の方が何やらはにかんだ笑顔を店員に向けていた。

――まさか、お年寄り用に一口サイズにでも蕎麦を切ってたのか?

そんな馬鹿げた思いが頭を過ぎったが、さすがに離れた位置から見ただけでは判断がつかない。元よりさほど
興味があった訳でもないから、すぐ前に向き直した。



「――すまん。待たせた」

店員の男がカウンターの中に入ると、漸く俺の正面に立った。顔を上げると、男の正面姿が見える。
背丈は恐らく180cmは軽く越えているだろう。こうして座ったままの状態で男を見上げると、少々威圧感がある。
体格が良いから尚更だ。藍色の作務衣に同系色のエプロンを腰に捲いたその姿は、認めるのは少々癪だが
様になっている。

癪だったからということではなく、とにかく一服したかったので、男の顔に特に注意を向けることなく俺は煙草を
箱から一本取り出しながら言った。

『いや。――ところで、灰皿はあるか』
「ああ」

男は、すぐ横の棚から濃灰色の焼き物の小さな灰皿を取り出して、カウンターの上に置いた。何気なく視線
を移したその灰皿は、深い黒に近く、といって黒ではない不思議な色をしていて、まるで宝石のように艶やかに
輝いていた。

『ほう……変わった灰皿だな』
「薩摩焼の一種だ。桜島岳の火山灰や鉱物が含まれていて、こういう色になるそうだ」
『へえ……なかなか良い色だ』
「くれた者からの受け売りだ。俺は良し悪しはよく分からん」

男は、それを特に世辞とも褒め言葉とも思わなかったのか、あっさりと話の腰を折ると、濃い緑茶の入った湯
のみをその横に静かに置く。

『あー……では、鴨南蛮そばを1ついただこうか』

何やら頭上の辺りに鋭い視線が注がれているのを感じ、カウンターにあるお品書を見ながらオーダーすると、
男は分かった、と一言応えて台所があるのであろう奥に行ってしまった。

――あの男は、どう考えても奥に引っ込んだままの料理人向きだな。愛想がない。正にチラシから想像した、
頑固職人そのものだ。……ということは、あいつが店主かもしれないな。アルバイトに、もう少し愛想のいい女
の子でも雇った方がいいのではないか?

物書きの、お節介と紙一重――いや、習性にも似た観察眼を自分が向けてしまっていることに自覚はあった
が、その分析はあながち間違っていないだろうと思った。


カチ……

煙草に火を点けようとし、ふと老夫婦の姿が横を向いた視界の端に入った。
広い店内ならば未だしも、ここでは些か配慮に欠けるかもしれない――そう思って金属製のライターのキャップ
を閉じると、煙草とライター、そして灰皿だけを拝借して席を立った。



初春と言えども、山麓の林間では風も少々冷たい。東京の方では、昼間など随分と暖かくなってきたと感じ
るが、ここはまだまだ春の萌芽も見え隠れし始めた程度なのだろう。幼い頃に何度も来た馴染みの土地とは
言え、家族でこの別荘地に来たのは大抵夏だったから、この季節にここで時間を過ごしたことはない。少々寂
しい趣といえど、こじんまりとしていてどこか温かさもあった商店街もすっかり変わった。
ここは懐かしい場所とは言え、かつての思い出とは違う。季節はともかく、場所としても大分変わってしまった。
勿論ノスタルジーに浸る為にここに来た訳ではないが、それでも時間の経過を思わずにはいられない。
人は変わり、町も変わる。…いや、ここに限って言えば、自分は年齢を重ね、町は若返ったのだが。

だが、願わくばこれ以上、この場所には変わって欲しくない。
幼い頃、ここに静養に来る度、時間だけは持て余し気味な位にある中で色々と考えた。自分にできること、
できないこと、自分のしたいこと、したくないこと、自分にとって必要なもの、必要であっても、手に入らないもの
――そういった普段、気づけそうで気づけないものに気づかせてくれたのがこの場所だ。
今となっては苦々しい思い出でもあるかつての日々だが、だからこそ”楽しい夏休み”という時間だけでは気づ
かぬことにも気づいた。最初は時間つぶしにと何気なく手に取った本――だが、文章を追うことで時間を忘れ、
そこに広がる無限の可能性を知ったのも、この時だ。
今在る自分は、正にこの場所と、あの時の時間がなければ、なかったはずだ。

だからこそ、この場所には変わらぬ部分を持っていて欲しい。そして、清清しくて、純粋で、大人になってもこの
体の奥底に眠る真っ直ぐな思いをどこかに残した――そう、かつての時間を思い出させる、何かを残していて
欲しい……そう願うのは、少々都合が良過ぎるだろうか。




ガラッ……

突然店の引き戸が開く音がして、そちらの方を見た。店の店主が玄関口に立っていた。こちらからはすぐにそ
の姿が見えたが、小道を隔てた向かい側の竹林の側に居た俺の方は、すぐには店主の目に付かなかったのだ
ろう。男は左右を見回した後、漸く少し離れた正面に立っていた俺の方を見た。

まるで射抜かれるかと思うような鋭い目つき――何だ何だ……そう思いかけて、ふと気づいた。

そういえば、先程この灰皿のことを褒めたばかりだ。
店主の眼光の鋭さに、もしかして自分は泥棒にでも間違われたのかと急いで道を渡ってくると、店主に灰皿
を差し出した。そこには自分が吸ったばかりの煙草の吸殻が1つ。
失敬するつもりであれば、こんなところで暢気に一服しているはずがないだろう――そう伝える意味もあって差
し出したのだが、男はその灰皿を一瞥すると、顔を上げて己の思いの丈を告げた。

『勝手に灰皿を持ち出してすまなかった。別に失敬しようとしていた訳ではなくてだな……』
「灰皿ではない。――蕎麦が伸びる」

…………。

その顔をじっと見た。そして――

『いや、失礼。もうできていたとは……』

言葉の途中で、どうにも可笑しくて、つい吹き出した。






「何か、ありましたの?」
『え?いや、何故?』
「どことなく、楽しそうですわ」
『あぁ……そうだな。原稿が順調に進んだからね』

電話口でそう答えながら、昼間の蕎麦屋のことを思い出していた。

”灰皿ではない。蕎麦が伸びる”――そう告げた時のあの男の真剣な顔。そうして俺が吹き出した時の、何
が可笑しいと言わんばかりの顔――あれを思い出すと、どうしても自然と表情が緩んでしまう。

あの男の愚直さと、その後に食べた蕎麦のさっぱりとした旨さが、新鮮な驚きだった。田舎に相応しい純朴さ
――そう言ってしまうと、あの男にも蕎麦にも失礼に聞こえるかもしれないが、決して馬鹿にしている訳ではな
い。むしろ、何故かそこに<この場所の変わらぬ何か>を感じてしまったのだ。
俺がこの場所に、心のどこかで望んでいた清清しくて、純粋で、真っ直ぐな思いを――初めて行った店で、初
めて会った男だというのに――そこに見つけたような気がしたのだ。

ノスタルジーにしては新鮮過ぎるが、一種のアバンギャルド、というにしては素朴で、仄かな安堵を感じさせる
何か――そこまで何か良いもののように思えてしまうのは、原稿が上がった後で気持ちがどこか高ぶっていたせ
いなのだろうか。


「どうかなさいました?」
『あ、ああ、いや。ところで、明日からニューヨークだったね。今回は残念ながら一緒には行けないけれど、どう
か気をつけて。ショーの成功をこの片田舎から祈っているから』
「どうも有難う。勿論、頑張りますわ。光伸さんこそ、無理しないで下さいね。貴方は執筆に夢中になると、お
食事には見向きもなさらなくなるんですから」

『ああ、ああ、分かっているよ。それでは、お休み。――雛子』

受話器を置くと、廊下の窓から零れる月明かりに顔を上げた。


その穏やかな静けさは、いつまでもずっとそこにあるような気がした――





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