EPISODE 20 :


「こちらの日墺商工会共同主催のレセプションパーティーですが、ホントにご出席でいいんですか?」
『ああ……直筆で本の感想まで書き添えて招待状を送って下さっているんだ。断る訳にはいかないだろう』

机に向かう金子は、鈍いながらも万年筆を持つ右手を動かし続けた。

「そうかもしれませんが……前日は夕方から打ち合わせが入ってますし、翌日は仏国大使館でのパーティー
にも出られるんですよね。大丈夫ですか、その――」
『原稿を書く暇がないんじゃないかという心配か?無論締切前には全て片付けるさ、とまでは言わないが、連
載を落としはしないさ。開き直る訳じゃないが、僕が何とか許容範囲に収まる程度に遅筆なのは、何も今に
始まったことではないだろう?それに、どれも元はと言えばこの旅行記が売れたことの副産物だ。これも一種の
広報活動な訳だし、そうと考えれば君達編集社にとっても無関係な話、とまでは言えないんじゃないか?』

躊躇いがちになった背後の声に、金子は手を止めて振り向いた。

「勿論ですよ。先生にはとっても感謝しています。ただ、最近お話のあったものは予定が重ならない限り、全て
出席なさってるし、体力的にも少しキツイんじゃないかと……」
『大丈夫、自分の体調も省みず無鉄砲に動き回れる程、もう若くはないさ。まあ、編集担当の君に僕のスケ
ジュールまで見てもらっていることには些か罪悪感は感じているが』
「いえ、それは別に、先生の旅行記を出させて頂いてるんですし、構いませんが。――以前はパーティーなど
あまり熱心ではなかったですよね」
『――何、深い意味はないさ』

金子は小さく肩を竦めると、机に向き直り、置かれた未完成の原稿を見下ろした。

確かに、彼の指摘は決して的外れなものではなかった。これが無意識であったなら、その少々お節介な指摘
に軽い衝撃も受けただろうが、軽口とともに嘘をついてみせることも容易にできただろう。だが、現実には十分
な自覚の元、意図的な行いであっただけに、却って薄っぺらい言葉で取り繕うことには抵抗を感じて、ただ曖
昧に答えた。



パーティーの類は元々頑なに嫌いという訳ではないし、それに相応しい振る舞いもまた、苦手とするものでは
なかった。家庭においてそういった機会は既に学生時代から少なくはなかったからだ。
だが、できることと好きなことは違う。
当然、それでスケジュールを埋めてみたいなどという願望も目標も持ったことはなかった。それは今までも、そし
てここ最近も何等変わりはない。
第一自身の執筆ペースが安定していないことは重々承知していたから、前以ってあれこれと容易にキャンセ
ルしづらい予定を入れてしまうことには少々危険も伴う。
だから、パーティーへの出席はこれまでは何らかの必要性のあるものに限っていた。それなのに、何故今そんな
己のポリシーに反することをしているのかと言えば――それは緊急避難のための一種の方便に外ならなかった。
姑息な手であることは自覚している。そしてそれが何等ことを解決しないことも、分かっていた。



執筆と、そしてその他のスケジュールで多忙となれば、当然、雛子と過ごす時間は減る。より正確に言えば、
2人で過ごす時間がだ。
それこそが、この変節の理由だった。実際のところ、パーティーには夫婦で出席すべきものも少なくない。欧米
人が主催であれば、大抵がそうだ。だから雛子自体を避けている訳ではない。雛子と過ごす時間の長さは恐
らくほとんど以前と変わりがないか、むしろ幾分長いかもしれない。無論、自身のキャリアを築きつつある彼女
だから、そうそうあれもこれも同伴できる訳ではないが、多忙は何も今に始まったことではない。
だが、彼女は可能な限りスケジュールを合わせてくれていた。何の説明も言い訳もないまま、急に以前と比べ
て増えた華やかで社交的なイベントを共に、可能な限りこなしてくれていた。
当初は想像以上に快く引き受けてくれたものだから、自身が頼んだことも棚に上げ、その真意を計りかね、や
や不安に駆られたものだ。
自分が、彼女との接触をなるべく避けようとしている意図が知れたのではないか、少なくとも何らかの空気を
感じ取っているのではないかと。
だが、彼女にそのようなそぶりやさりげない言動はない。
無論、最低限の礼儀としてパーティーでは彼女をきちんとエスコートし、尊重してはいる。だから、行き先にお
いてはきっと不快感を与えてはいないだろう。実際、平均してパーティーを彼女は楽しんでいるように見えたし、
自分自身も彼女とともに過ごす時間は心地良かった。雛子とは興味の対象が普段から似ていたし、その洗
練された言動は見ていて好ましく、また時折他者から向けられる羨望の眼差しも愉快ではあった。

自慢の妻――雛子はそう呼ぶに相応しい女性だ。
それは客観的に彼女を見る機会が増えた今、尚更そう思う。

こんな消極的現実回避な生活は、何の意味もないだろう。何も、結論を先延ばしにしていることのみを取っ
て言っている訳ではない。そうであっても、このやり方が少なくとも自分にとって一番ストレスを溜めこまずに済む
というなら、道義的な善悪はともかく、よりマシな、理解可能な選択肢ではあっただろう。
だが、現実はそう上手くいかないものだ。
雛子が協力的であればある程に、彼女が理想的な女性であることを思い知らされる度に、罪悪感に苛まれ
る。いくら気持ちが揺れたまま全てを話したところで、結論を出しかねている現状では二重にも三重にも雛子
を傷つけるだけだと考えた末のことだとしても、卑怯であることに変わりはない。一瞬の裏切り行為であることも
否定できない。
無論、それも自業自得だ。そのことはよく分かっている。

それでもその先に、諦めのついた自分が見えてきはしないだろうか。例え今苦しかろうと、こうして過ごすうち、
疲労感とともに、無情感とともに、今在る生活が一番なのだと達観できはしまいかと、藁にも縋り付く思いで、
それこそ薄氷を踏む思いで、日々を過ごす自分がいた――



「あれ?先生、新作をどちらかに掲載されるんですか?」
『え?』

咎める風ではないが、驚きを隠す努力を微かにも垣間見せることなく、その僅かに歳上の編集担当は、机の
端に無造作に重ねたままにしておいた原稿用紙を覗き込んでいた。

『ああ、いや、これは……』

今になってそれを引き出しにしまい込むのも間が抜けているし、意識しているかのようで、体裁が悪い。だが、
バラバラに重ねられた用紙を多少揃えて見せながらさりげなく言葉を繋いで、好奇心から一方的に縮められ
そうになった距離を離そうとした。

『まさか……単なる落書きだ。発表に耐えられるような代物ではないよ』
「そうなんですか。先生、ちょっとだけ拝見しても構いませんか?先生がお原稿を完成させるまでの間、少しだ
け」

やはり来た――想像通りの反応に内心辟易する。
いや、本来こんなものは断ってしまって一向に構わないのだ。そこまで親しい訳じゃなし、発表予定などないと
言っているのだから、他者の目に触れさせる必要性など全くない。第一、昨夜、抱える原稿に集中できなくて、
殆ど無意識につらつら書いてしまったものだ。何を書いたかすらほとんど覚えがない。

だが――この男も案外食わせ者だ。いや、多少なりとも長くはなった付き合いから僕の性質を読んでのことと
いう意味では、なかなかに頭が回るとも言える。
確かに、目の前にある約束の原稿は完成までにあと数時間かかるだろう。当然、この男は担当者である以
上ここでじっと待つことになる。一杯のコーヒーで。
苦痛は何もこの男だけじゃない。こっちだって、その存在と視線を背中で受け止めながら執筆しなければなら
ない。おまけに、既に当初言われていた締め切りは過ぎている訳だから、こちらは多少なりとも原稿以外の面
において誠意と譲歩を見せる必要がない訳でもない。

ならば僕は暇つぶしに、先生は煩わしい視線から逃れるために、読ませてくれませんか?――担当者のそん
な声が聞こえてきそうだ。
思わず溜息を漏らしたのは何も厭味なだけでなく、やや投げやりな諦めもあった。

『好きにしたまえ。ただし、こんなものはメモ書き程度のものだし、僕ですら内容にほとんど覚えがないのだから、
そこから僕の現在の調子を探ろうなどという無駄な努力はしないでくれよ』
「とんでもない、僕は先生と違ってそんな洞察力は持ち合わせていませんよ」

やや無造作にその「メモ書き」をばさっと渡すと、もうそんなことなど頭からすっかり消し去ってすぐさま机に向か
うことにした。





――2時間か。あと1時間は最低かかるだろうなあ……。
男は顔を上げるとほんの2〜3メートル先に背を向けて座る作家先生をチラリと見た。作家先生などと厭味な
表現をしたが、別に彼が嫌いだとか苦手な訳ではない。いや、むしろ今は割と好きな方だと言ってよかった。

先輩の後を引き継いで初めてこの人の担当になったのは2年前のことだ。
最初は多少癖のある人だと思った。愛想もいいし、言葉遣いも丁寧。まだ20代半ばであることを考えれば、
ある種大人びていたし、物腰も何やら凛としていて、早々簡単に身に付きそうにもない品格とプライドのような
ものを感じた。だがその反面、言葉は丁寧なのだが何となく少々上から目線というか、ちょっと偉そうだと思った
ものだ。
例えば、担当になって間もない頃、既に締め切りを1週間も過ぎているのに一向に連絡が取れないものだか
ら、焦って自宅まで押しかけてみたら、先生はごく普通に緩やかな笑みを浮かべて僕を出迎えてくれ、優雅な
仕草でコーヒーを入れながら、「君、今日は悪いけど原稿は渡せないよ」などと平然と言ってきたこともあった。
あの時は、怒りを通り越して呆れたものだ。
今だって、締め切り破りは恒例行事みたいなものだし、資料集めの依頼だって忙しい時期に限ってやたら量
が多かったりして……と大変なところもあるのだが、それでいて嫌いになれないのは意外と優しかったりするか
らということもあるし、何よりその才能を尊敬していることもあるのだろうと思う。

金子先生が現在我社の月刊誌に掲載しているのは、エッセイ風の物語だ。最初はフランス・パリを舞台にし
た1年余りの掲載で、これが話題となって単行本化され、現在は第2弾としてオーストリア・ウィーンを舞台に
したストーリーを執筆されている。
先生は学生時代に優等生だった上、幼少の頃からヨーロッパによく行っていたらしく、英語の他にフランス語も
ドイツ語もできる。ヨーロッパの文化や生活習慣もよく知っている。
だからこそ、今回の旅行記シリーズはその無理のないストーリー展開と、ごく自然に触れられるヨーロッパの香
りというものが秀逸で、20代の女性を中心に話題となり、さらに読者層も徐々に広がってきている。

おまけに――金子先生は一昔前の”いわゆる”作家のイメージをあっさりと覆した。
お金があまりなく、献身的で古風な妻、または愛人に養ってもらいながら、畳を敷いた6畳一間の暗い部屋で
昼夜を問わず執筆……なんてのはかつてはさほど珍しい作家像ではなかった。
だが、金子先生は大企業の御曹司でデビュー当時からお金には全く困っていなかったし、キャリアウーマンの
典型のような活動的で美しい奥さんがいて、さらには芸能人に居てもおかしくない程本人も華やかな雰囲気
を持っていて格好いい。正直なところ、何故将来の安定しない、おまけに普段は非常に地味な作家という仕
事を選んだのかとほんの少し疑問に思ったりもする。
だが、金子先生には確かに文才がある。なんていっては随分と偉そうだけど、少なくとも編集担当として先生
の原稿を真っ先に読む立場にある自分はそう信じている。

特に今現在掲載している旅行エッセー風の作品は、まるで読んでいる自分がその場所にいて、そのお洒落
で洗練された、ヨーロッパでの生活と、人生の中にいるような錯覚を起こさせてくれると読者の間で評判だ。
金子先生本人がそういったものが似合う雰囲気を持っているだけに、説得力もあるから尚更だった。

だが――

担当者は再び手にしている「メモ書き」と言われた原稿に視線を落した。

財産家だった夫を亡くした未亡人らしき女性と、その夫とは半分だけ血が繋がっていた未亡人にとっての義弟
夫殺しの嫌疑をかけられたことから人目を避け、別荘に閉じこもった未亡人と、兄の遺産を狙って未亡人を
心配する振りをしながら近づく義理の弟――

先生自身の言う通り、話にまとまりはなく、箇条書きが出てきたり、唐突に登場人物のせりふが出てきたりと、
脈絡がない。題材としてはさほど目新しいものではなく、ストーリー展開がほぼ端折られているだけに、内容は
非常にシンプルだ。
そうなのだが――この未亡人の心情描写はドキッとする位生々しく、そして強く訴えかけてくるものがあった。

別荘に閉じこもった未亡人は、亡き夫を愛しながらも、どこか満たされてはいなかった。
きちんとした結婚生活を続けていながら、どこか欠けており、未亡人はそれを自覚していた。
夫殺しの嫌疑は、あくまで嫌疑でしかない。だが、この未亡人には人知れず、単なる心の葛藤という意味に
おいては動機を持たない訳ではなかったのだ。
さらに――未亡人は、下心を持った義理の弟の本当の狙いをどこか察しているフシがある。それでいて、この
男性的な魅力にあふれた義理の弟を嫌いではない。むしろ、未亡人はこの弟を密かに愛しているようだ。
不信感を持ちつつも義弟に惹かれていくのを止められない未亡人。己の立場と義弟の立場を考えれば許さ
れることではないのに、制御できない気持ちに苦悩する女性。

――金子先生のデビュー作は、非常に爽やかで、明るく、そして都会的な恋愛小説だった。
その後発表したいくつかの作品もそうした都会的で洗練された恋愛もので、現在連載しているストーリーは恋
愛こそ前面に出てはいないが、軽妙な男女のやり取りも多く、そのスマートさが先生の持ち味であった。

だが――この「メモ書き」にはそんな金子先生の姿は欠片もない。
こういったサスペンス調の話を描くということ自体が驚きだったし、ましてこのようなドロドロとした人間の内面を
描くことなど、先生の過去の著作と照らし合わせてみれば、前代未聞だった。




『――夜中の2時をとうに過ぎていて、おまけに原稿に行き詰っていてね……詳細は覚えてないんだが……恐
らく推理小説らしきものを書こうとしていたはずなんだ……君には驚きかもしれないが……僕が最初に小説を
書き始めた頃は、ずっと推理小説を書いていたんだよ』

相変わらず、金子先生は空気を読むのがやたらと鋭い。
背後の自分の空気を、恐らく感じ取ったのだろう。
先生はペンを持つ手を動かしながらも、口を開いた。

「確かに、意外です。先生は恋愛小説がお好きなんだと思ってました。――何故推理小説を書かなくなった
んですか?」
『……何、才能、を見極めたまでだよ。学生時代に推理小説を投稿してみたが、さっぱりダメだった。それで
恋愛小説を書いて投稿したら、すぐに賞をいただけた。小説は一種のエンターテイメントだ。読者の喜ぶもの
を書くのは、ごく自然なことだろう?』
「……僕個人の感想なんですけど」
『ん?』

金子先生が、何かしら好奇心を持ったのか、椅子ごとこちらに振り返った。

「このお原稿、確かに先生らしくないと言えばそうなんですけど、読者を引き込む力というか……訴えかける言
葉の強さというか……そういうものは凄くあると思いますよ。才能がないなんて謙遜されてますけど、それは昔
の話ですよね?僕はこれ、きちんと書いたら凄く良い作品になると思います」

そう言うと、金子先生は僅かに目を見開き、そうして小さく肩を竦めた。

『そうかい?どんなことを書いたんだったか……君、早く原稿がもらいたくて持ち上げてるんじゃないだろうね?』

先生はそう言って、薄い笑みを浮かべた。あまり僕の言葉を信用していない風だ。
せっかく良いと思ったのに。

「違いますよ、もう。その……僕は先生と違って言葉のプロじゃないですから、表現するのは難しいんですけど
ね、特にこの未亡人の心理描写……許されない恋心っていうんでしょうか。そこに凄い筆力を感じるんですよ
ね。迷い、苦悩しながらも自分が抑えられない。しかも、それが別荘に閉じこもっているという実際の閉塞感
と相まって何とも言えない緊張感を出していると思うんですよ」

そういうと、先生の顔は曇った。むしろ、少し青ざめたと言ってもいい。
いつもの余裕綽々の微かな笑みは消え、逸らした視線は、まるで木の葉のように揺れながら床に落ちた。


『…………そうか、ありがとう』

褒め言葉というよりは、まるで不治の病を告知されたかのような低く、暗いトーンで言葉を絞り出すように発す
ると、先生は再び机に向かってしまった。


何だろう?
何か、僕は悪いことを言っただろうか?
それこそ、先生の執筆に影響をきたすような、逆効果的な何かを、今言ってしまっただろうか?





to the EPISODE 21



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.


inserted by FC2 system