EPISODE 21 :

疲れた。
ぐっすりと眠りたい。
何も考えずに、ただただ眠りたい。

苛立ちにも似た焦りに、小さく溜息をつく。すると。

「眠れませんの?」
『ん……?ああ、すまない、起こしたか』

キング・サイズの大きなベッドで、背後に横たわっていた雛子が身体を起こすのを感じた。

「……きっと、疲れがたまっているんですわ。一度、病院に行ってみてはどうかしら……?」
『そんな、大袈裟なことを……確かに最近忙しいが、それだけだよ』
「でも、少し痩せましたでしょう?それに――」

金子は上半身を起こすと、薄暗い部屋の中で、それでもそれと分かる雛子の手を取り、そうして軽く握った。

『大丈夫。連日のパーティーで、ちょっと気持ちが高ぶって眠れないだけさ』
「それだって、光伸さん……」

未だ心配そうな雛子を安心させようと、握った彼女の手の甲に小さく口付ける。

『もうじき、こんな浮ついた毎日も終わるよ。……さて、ちょっと一服してくるか。お休み、雛子』

雛子の髪の毛を優しく撫でた後、ベッドを降り、部屋を出た。

書斎に入って時計を見ると、既に夜中の1時近かった。
イスに座ると、金子の口からは再び溜息が洩れる。


最近、眠れない。
食も細くなった。
そこまで思いつめているつもりはないのに。

雛子の指摘は当たっている。確かに、連日のパーティー三昧のせいか食事よりも酒量が少々増えた。食欲
自体も、少し低下している。そのせいで体重が落ちた。
自分でもそれは自覚していた。だが、どうしようもない。こうしたスケジュールは、自分が進んで作っているのだ
から。

東京に戻ってから、もう20日――土田の元を離れて、3週間近い。

冷静になる、我に帰る己を待ち続けた時間だった。
自身の外れかかった軌道を戻すには、少し短いだろうか。だが、心の重みに耐えるには、これでも長い。
それでも、身の振り方を決められるのならば……正しい道に戻るべく心が決められるのならば、それもいたしか
たないことだ。

だけれど、そんな思いを抱えて時を過ごして、結論は出たのかと言えば――出ない。
いや、本当は、出ているのかもしれない。それを認めるという決断が下せないというだけで。
だが、これは一組の夫婦が離婚するしないの問題だけではないのだ。自分の決断が、父の企業に与えるかも
しれない影響。自身の作家人生にピリオドを打つかもしれない決断。
一時の感情で、本当に決めていいのか――それが念頭にあるからこそ、そう簡単には出せない結論。

だが……いずれにしろ、このままでは結論すら出す前に、結婚生活は立ち行かなくなってしまうかもしれない。

そろそろ、雛子も異変を感じ取っているだろう。
何故なら――自分は、彼女を抱くことができないのだから。

東京に戻って最初の2日間は、風邪だからと書斎のシングルベッドで1人で眠った。だが、ずっとそうしていられ
る訳ではないから、3日目には元の通り彼女と同じベッドで眠った。当然、そういった機会は毎日のように巡っ
てくる。
勿論、彼女に全く手を出さなかった訳ではない。美しい、自慢の妻だ。欲望を覚えることだってあった。
だけれど、最初は気持ちと身体は一体化しているのに、途中からバラバラになってしまう。不甲斐ないことに、
どうしても最後まで行き着けない。
そんな自分自身が信じられなくて、焦燥感を感じようものなら、尚のこと、状態は悪化するばかりだった。


きっと、疲れているのだ。連日のパーティーや講演で。慣れない忙しさで――それが、彼女と自分が出した結
論だった。
それならば、彼女も自分も傷つかない。
だが、雛子がそれをずっと信じてくれるとは思わない。自分に至っては――最初からそれが嘘だと分かっていた。

いっそ土田が女性だったら、こんなことにはなっていなかったかもしれない。
目をつぶれば、同じ女性が相手なら、共通項は容易く見つけられるからだ。
コトの途中でお前を思い出しても、本能を前に誤魔化すことはできそうだからだ。

無論、それは全く根本的な解決になっていない。それどころか、道徳的にはさらに罪深いかもしれない。だが、
それが可能だったなら、少なくとも自分はもっと開き直れただろう。
結婚生活を上手い具合に維持しながら、時折愛人に走る――そんな都合のよい、だけれど正直魅力を感
じないとは言えない生活。

もしかしたら、それが次善の解決策となり得たかもしれない。それが、可能でさえあれば……

金子は手にしていたタバコの箱を、無意識のうちに握り締めた。


土田――俺は、卑怯だ。
お前を諦められない自分をどうしても認めたくなくて、時間の経過とともにお前に対する想いを風化させてしま
いたくて、焦って、もがいて、そうして最終的には時が解決してくれるのを、ただじっと待っている。
だが、結局諦められない。お前のことが忘れられない。いっそ、お前の口から嫌いだと言って欲しい。もう2度と
会いたくないと言って欲しい。
それでも諦められるかは分からない。だが、少なくとも諦めるしかないということは悟れる。
俺は――未だにお前の優しさから逃れられない。お前と過ごした優しい時間から、逃れられない。

お前は、今どうしている?
お前に……会いたい。

卑怯だと分かっている。お前を諦めたいと思っているくせに、矛盾していると分かっている。

だけれど、それでも――会いたい。土田、お前に。





一方――

「1泊なんて言わずに、2〜3日ゆっくりしてきたらどうだ。GWも終わったんだし、客足も落ち着いたんだろう?」
「そうだが……あちらにそう用がある訳でもない」
「だが、大学はあっちだろう?友達とでも会ってきたらどうだ。久しぶりなんじゃないのか?東京は」
「……」

土田は、立ち寄った交番での巡査部長の問いかけに対して、一瞬言葉に詰まった。
何故かは、よく分からないが。


大学時代の友人から、2週間と少し前に久しぶりに電話があった。結婚式の2次会に来ないか、と。
随分と急な話だった。だが、どうやらハワイとやらで結婚式を挙げる予定の別の友人のために、帰国後サプラ
イズで2次会パーティーを開こうと、急遽話が出てきたらしい。
それはともかく、丁度GWも終わった後の週末だったから、比較的店も休み易い。そう思って、出席を決めた。

東京を去ってから、1年と半分位――その間も時折学生時代からの友人から連絡をもらったが、1度も東京
へは 行かなかった。
そんな時間がなかったことは事実だ。警察を退官し、ちょっとしたきっかけからこの県内の蕎麦屋で働くことに
なったが、それは住み込みの修行のような毎日だったから、遠出するような暇もなかった。その後自分で店を
開いたことで、尚更まとまった時間は取れなくなった。

だが、そういった物理的な問題だけでなく――気持ちの問題としても、東京へ出る気にならなかったというのも
ある。己の不甲斐なさを、未熟さを思い知ったあの地での警官としての時間は、行方知れずのあの人の思
い出も相まって複雑な思いを抱かせた。

しかし、時間も経った。
今の自分が、あれから随分成長したとは思わない。僅かながらに落ち着いたという以外には思わない。
だが、それでもかつてほどの抵抗感を感じなくなったように思う。
少なくとも、過去の思い出は随分と冷静に見つめられるようになったと思う。

だからこそ、行こうという気にもなった。友人に対し、出席の返事をしたのはそのような理由からだった。

だが今は、それ以外にも思い浮かべてしまうものがある。
金子だ。金子とは、別れてから一度も連絡を取っていなかった。

自分は金子の東京での連絡先を知らない。上京したからといって、東京は広い。人も多い。当然、偶然に
出会う機会などある訳もない。それは分かっていた。
だが、今東京といって、真っ先に思い出してしまうのはあの男だ。今頃どうしているか。元気でいるのか。それ
だけでも確認できないかと思う。

もしかしたら――もうここでのことなど、俺のことなど、忘れてしまったかもしれないが。





そうして、翌日――

「光伸さん、招待状は私のバッグに入れておきますわね」
『ああ、ありがとう』

紺色とも藍色ともつかない濃い青色系のスーツに身を包んだ金子は、リビングでジャケットを手に、左手首に
填めた腕時計を見下ろす。

『雛子、そろそろ出れるかい?』
「ええ、支度はできましたわ」

雛子は、純白のスプリングコートの中に薄いスミレ色の膝丈の長さのドレスを着て、シルバーに輝く石が散りば
められた小ぶりのバッグを手に寝室から出てきた。

季節柄と、自分の服の色との相性もきちんと考えた上での雛子のコーディネイトはいつもながらに感心する。
彼女程、パーティーのような広い会場で映える女性もそうはいないだろう。

金子は笑みを浮かべた。

『ならば、行こうか。タクシーを下に待たせている』

近づいてきた雛子の背中に腕を回して、さりげなく歩みを促すと、雛子が顔を上げ、こちらを向いた。

「これで、数日間はお休みをいただけるんですのよね?」

雛子の顔はとても真面目だった。


パーティーばかりの日々にも限度があった。いつまでも長く、そんな機会が続く訳がない。
今夜のパーティーを終えた後は、そういった外出のイベントもしばらくはなかった。
今日が終われば休める。休めば疲労も回復し、食欲も元通りになり、元気になるに違いない――そう雛子
は思っているのだろう。だからこその、念押しだ。雛子が自分を心配していることは、充分に分かっていた。

『ああ……2〜3日休みをもらうと、言ってあるから』

金子は心配そうに見上げる雛子に小さく微笑んだ。
こんなにも自分を気遣ってくれる彼女を前にして、胸の辺りに痛みを感じながら。






今夜のパーティーの主催は日本の雑誌社だったが、その会社は海外に拠点を置くファッション誌の日本法人
である せいか、客の3割近くは外国人だった。
何故ファッション誌のパーティーになど呼ばれたかと言えば、少し前に取材を受けたからだ。日本の香りが希薄
な著作から、洗練されたライフスタイルを追求する作家というイメージを持たれているらしい。
おまけに、妻はファッション関係の仕事をしているのだから、尚更だ。いや、むしろ今回のパーティーは自分とい
うよりも、夫婦、もしくは雛子を念頭に招待されたと言っていい。
雛子が当初、体調不良を理由に断ってはどうかと言ったのもそのせいだった。
だが、自分が出席を決めた。

雛子はもっと注目されてもいい。デザインの仕事は確かにそれを身につけるモデルと違って、あまり表に出てく
ることはない。それが洋服であればまだしも、帽子やバッグといったアクセサリー関係のデザイナーであれば、尚
更端に押しやられてしまう。だが、雛子は海外ではなかなか高い評価を受けているのだ。
それなのに、日本では未だきちんと仕事をする女性の評価が男性よりも低いことには納得がいかない。このよ
うなパーティーで、雛子は充分に人々の目に留まっていい。その仕事をきちんと評価されてもいい存在だ。
そう思ったからだ。

雛子との関係がどうなろうとも、彼女の活躍を願う気持ちに何ら変わりはなかった。


パーティーは夜の8時半からと、やや遅いスタートであった。
マスコミやファッション業界といった華やかで忙しい世界の連中が集まるだけに、早い時間ではなかなか顔を出
せないらしい。
東京タワーの見える一流ホテルのスカイラウンジを借り切ってのパーティーは、大規模なものだった。
食事となるようなサラダやサンドウィッチ、ローストビーフやスープ類などもあったが、やはり時間帯もあるのだろう。
酒類は特に豊富に用意されていた。
東京のきらびやかな夜景を背景に、軽薄だけれど楽しくて、少しばかり常識を踏み外した話題には事欠かな
い連中――彼らとの会話は楽しかった。何も考えずにいられた大学に入りたての頃のような、そんなリラックス
した時間に、つい酒が進んだ。飲みすぎるつもりはなかったが、愛想よく相槌を打ちながらついつい傍らにワイ
ンやシャンパングラスを手にしてしまう。
おまけに、普段は多少なりとも自分をたしなめる雛子は――自分の想像通りと言うべきか、ファッション関係
者から興味を持たれて話しかけられる機会が多かったせいか――自分から意識が離れがちだったから尚更
だった。


『ちょっと、手洗いに行って来るよ』

夜も10時近くなった頃、雑誌社の人間が名の知られたファッション・デザイナーを雛子に紹介し、3人が話し
始めた頃、雛子に小さく耳打ちして会場を出た金子は、多少なりとも酔っているという自覚があった。
いつもは飲んでもあまり酔わないが、今日は自分よりも雛子の方が忙しく、多少気が楽だったせいもあったの
だろう。久しぶりに、気分はアルコールで浮き立っていた。
手洗いを済ませた金子は、酔い覚ましに一服しようとジャケットのポケットを探り、そうして残りの本数が少ない
ことに気づいた。
販売機は1Fにあるだろうか――周囲を見回してそれらしきものが見つからなかった金子は、エレベーターでホ
テルの1Fまで降りる。

エレベーターホールには何やら人が集まっていたが、このホテルは大きい。おまけにレストランやバーも複数ある。
週末に人が多いのは当然のことだろう。
金子はそれらを特に気に留めることもなく通り過ぎる。ホールの先に公衆電話の影が見えたからだ。販売機が
あるとすれば、あの辺りだろう。
そう見当をつけて歩き始めた時、背後から大きな話し声が聞こえた。

「おーい、つちだぁー!」

その声に、傍から見ても分かる位に金子の肩がびくんと動いた。
それは、無意識の内の反応だった。
聞くことなど想像もできなかった言葉に、金子は一瞬心臓が止まるかと思った。

まさか――そんなこと、あり得ない。
そう思いつつも、金子は痺れるような冷たさを指に感じて思わず左手を握りしめ、そうして恐る恐る振り返る。



「お前も来るだろ?」
「何に」
「3次会だよ、3次会。行こうぜ、店はこっから近いし、お前の泊まってるホテルだって、傍だろ?」
「まあ、そう……」

友人らしき者から肩組みをされた男が、話の途中で視線に気づいたのか、ふと、前を向く。
そうして、言葉が途切れた。

それは――あの、土田だった。




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