EPISODE 22 :

僅かに視線を逸らしたのは、無意識のことだった。
予想外などという言葉を遙かに超えた現実をそこに見たからなのかもしれない。実際、自分だってこんなストー
リー展開は考えないだろう。小説にするにしたって、あまりに出来過ぎているからだ。
だが、現実はフィクションを時として凌駕するのだろう。そうでなければ、土田がそこにいるはずもなかった。

とりあえず、金子は土田の存在を気にしながらも、その団体の横を通り過ぎて公衆電話の方へ向かった。
本来の目的はそちらの方にあるだろうと予測していたし、まさか友人に囲まれた土田に声を掛ける程野暮で
はない。
背後の方からは、土田と友人らしき男の会話がその他の雑音とともに聞こえてきた。

「先に行ってくれ」
「え?何だ、トイレか?」
「いや。行けそうなら、後でそちらに行く。急用を思い出した」
「急用?何だよ、久しぶりだっていうのに。まあ、じゃあこれ、店のマッチだから後で来いよ」

やがて、エレベーターホールの人だかりはまるで波が引くように、騒々しさとともに消えてゆく。
その間――金子は、ただ立っていた。公衆電話の奥の方にタバコの販売機を見つけたものの、すぐに買ってし
まっては、早々にそこを立ち去らなければならなくなる。だから、既に選ぶ銘柄など決まっているというのに、ディ
スプレイに並ぶタバコの箱を意味もなく眺めていた。


「――金子」

俄かに思い出される久しぶりの声色を背後に聞いて、金子は振り向いた。

『あぁ……久しぶりだな。――案外、悪くないじゃないか』
「?」
『スーツ姿だ。お前の作務衣か地味な普段着しか見たことがなかったからな』
「スーツは滅多に着ない。それに――仮に好んだとして、俺には派手な洋服など似合わんだろう」
『そうか?そうでもないかもしれないぞ』

金子は微かに笑った。
ごくありきたりの、どうということのない会話――だが、それでもこの男と対峙すれば、ほんの数週間前の想い
が少しずつ蘇ってくる。

『友人たちは、いいのか?』
「ああ。大学時代の友人の結婚パーティーがあったのだが、もう終わった。この後は3次会だから、必ずしも行
かなければいけない訳ではない」
『そうか。そういえば、大学はこちらだと言っていたな……』

――それは、この後は空いていると言いたいのだろうか。

『いつ東京に?』
「今日の昼過ぎだ」
『来たばかりじゃないか』

――まだ、あと数日は東京にいるのだろうか。

『久しぶりか?こっちは』

当たり障りのない話題を振りながら、どこか気持ちがふわふわと浮わついている自分を自覚した。何故か意識
が散漫になっていた。
現実に起こっていることが、未だ事実として理解しきれていないのだろうか。

あの男が――土田が、今目の前にいるのだという現実が。

頭が少々混乱していることも事実だった。
もしこんなところに雛子が降りてきたらどうしようかという懸念が常に頭をかすめる。だが、それよりも強い、土田
ともう少し時間を過ごしたいという思いに支配されそうになる。

どうすべきなのか。パーティーは終わっていない。雛子も連れてきている。
土田とは日を改めて再会すべく話を持っていくべきなのか。だが、恐らく土田は東京に長居はしないはずだ。
店をそう長く閉めておく訳にはいかないだろう。とすれば、せいぜい2〜3日しかいないかもしれない。日を改め
るなど、そんな悠長なことを言っていられないのではないか。
だがその一方で、雛子のことも考えていた。
自分は明日から数日休むと言ってある。それは、雛子が自分の身体を心配しているからだ。それなのに、知
人に会うから、などとすぐにも外出してよいものか。況してその「知人」は、今の状況では浮気相手と言っても
そう大きく外れてはいない男だ。嘘をついて抜け出す――それこそ、不倫みたいじゃないか。

「――金子?」

ふと気がついたら、土田がこちらをじっと見ている。どうやら、自分は少々黙り込んでしまっていたらしい。

『ああ、いや……ところで、いつまでこちらに居るんだ』
「明日の午後には帰るつもりだ」
『……明日の、午後だって?』

金子は目を見開いた。
時間の猶予などどこにもない。今夜か、明日の早朝位しか取れる時間などないということだ。
つまり、土田は本当に先程まで参加していたのであろう結婚パーティーへの出席のためだけに東京に来たのだ。
俺のための時間など、最初からどこにもない。
無論、それを求めるのは無茶な話だ。自分たちは東京で再会すべく約束していた訳ではない。今だって奇跡
的に出会えただけだ。土田は自分の東京での連絡先を知らない。教えなかったし、土田も訊いてこなかった。
だから、土田を責めるのは全くのお門違いでしかない。だがそれでも――何故そんなに僅かの時間しかいな
いのかと問いたい衝動にかられる。
万が一自分と会うことは考えなかったかと。東京に来る時、自分のことは頭に過ぎらなかったのか、と。


「金子――一杯やらないか。パーティーの後で構わん」
『え?』

土田の、タイミングを見計らったかのような言葉に驚いた。
まさか、空気を読んだのか。いや、土田はそんなに器用な男ではないはずだ。
だが、どうであれ思いは一緒だ。ふとした時の言葉を介さない疎通の良さは、別荘でも感じたことだ。

追い立てるような鼓動を胸の奥底に隠して、金子は了解した。
ふと、土田のことしか考えていなかったことに――上の階に残してきた雛子のことをいつの間にか忘れてしまっ
ていたことに、後から気がついた。





いずれにしろ、時間は既に遅かった。もう夜の10時過ぎだ。だから、そろそろ帰っても良い頃合いではあった。
だがそれだけでなく――パーティー会場であるスカイラウンジのレストランに戻った金子は、気持ちの切り替え
がなかなかつかずにいた。
雛子の傍らにいても、気持ちだけが逸る。先程までは少々軽薄ながらも華やかで楽しいと思っていたパーティ
ーが、急に色褪せて見えた。一分一秒でも早く、ここを出たい。土田の元に行きたい――そんな思いばかりが
募った。


『すまない。実は、この後出版社との急な打ち合わせが入ってしまって、行かなければならなくなった。明日か
ら3日間は電話にも出ないと宣言しておいただろう?だから、今日のうちに今後の予定などを詰めておきたいと
言われてしまってね……』

ほどなくして、雛子にはそう切り出した。
パーティー会場に戻ってから、20分――それでも、辛抱した方だ。

「まあ、こんなに遅い時間から?」

雛子は少々驚いた様子を見せた。だが、明日から数日休むことを考えれば、そう突拍子のない話でもないだ
ろう。それに、実際少々遅い時間から出版社の人間と打ち合わせを兼ねて飲みに出たことは過去にもあった。
だからこそだろう。雛子は最終的には体調を心配しながらも、夜の外出には理解を示してくれた。

そうして招待してくれた雑誌社の者たちに挨拶を済ませ、まだまだ続いていそうなパーティーを抜けると、雛子
のためにタクシーを呼んだ。

今自分がしていることが背信的であることは、少なからずっと感じていた。
だが、それでいてそのタクシーを黙って見送ってしまった自分は、やはりどこかが麻痺してしまっているのかもしれ
ない。
そう、土田への想いに気づいたあの日から、ずっと。





土田の泊まるホテルは、そこから歩いて10分程の場所にあった。
いつ出られるか時間が確約できなかったから、土田にはホテルの自室で待っているよう言っておいたのだ。
そこはパーティーのあったホテルと比べればこじんまりとしていたが、それでもそれなりのホテルだ。
エントランスからロビーに足を踏み入れると、丁度長方形の形のホテルは外から見るよりも広く、そして明るい。

部屋は7階の一室だった。
部屋の前で一度止まると1つばかり深呼吸する。そうしてドアをノックしようとして、ふと手を止めた。

良かった、今日は先に気がついた――左手の薬指に填めていた指輪を抜くと、ジャケットの内ポケットにしまう。
こんなことをするということ自体に、躊躇いも罪悪感もない訳ではなかった。
やましいことがあるからの、行動。それは否定できない。土田に一度会ってしまえば、一杯飲んで、話をするだ
けで済むかどうかは分からない。だが何より、気持ちが既に雛子を裏切っている。
それに、土田はもう自分が結婚していることを知っている。今更といえばそれまでだ。先程ホテルのロビーで出
会った時だってしていたのだから。

だが、そうであっても、填めたまま再び会いたくはなかった。

ノックすると、既にジャケットを脱ぎ、ネクタイも外した土田がドアを開けて出迎えてくれた。
土田の店を訪問していた時とはまるで違う様相に、僅かに背中が緊張した。
その少しばかりリラックスしたシャツにズボンといったシンプルな姿が、何故かひどく特別なものに見えたからだ。
だが、その思いは急いで飲みこんだ。

『やあ、待たせたか?』
「いや」

微かに微笑みを目元に浮かべた土田に続いて部屋に入る。
どうということはない、ベージュ系の色を基調にしたダブルベッドの部屋だ。ダブルベッドなのは自身の身長を考
えてのことだろう。

金子は一瞬留めた視線をさりげなく外した。

『ビールか?』

窓際のテーブルの上には、ビールの缶が置いてあった。

「ああ。3次会の店に顔を出してから戻って来たから、まだ飲み始めたばかりだ」
『そうか……ならば、店など行かずにここで飲むか?』

下心がないと言えば嘘になる。だが、それ以上に土田の出方を見たいということもあった。
土田が飲み始めたばかりだというのなら、確かに部屋に留まる良い口実にはなり得た。だが、部屋であれば、
どうにかなる可能性だってある。そのことを、さすがの土田だって考えないはずはないと思った。

「――俺は構わんが……缶ビールなどでいいのか?」

土田はさらりと応じた。土田の分かりにくいのはこういうところだ。恐らくは気づいているだろうと思いつつも、この
男に限っては万が一本当に言葉の表面だけしか理解していないこともあり得る。

『……ああ、別にいいさ。だが、缶ビール以外にも何か入っているんじゃないか?』

そういうと、土田は備え付けの小さな冷蔵庫を開けた。

「缶ビールの他は、オレンジジュースとカップ酒、後は軽いつまみだけだ」
『……ならば缶ビールだな。まあ、いざとなればルームサービスを頼むさ』

白いシャツからするりとネクタイを外した金子は、窓際のコーヒーテーブルの椅子に座った。
土田が正面のイスに座ると、小さめなテーブルセットでは少々手狭だった。


『元気だったか?まあ、お前は風邪など滅多にひきそうもないが』
「ああ。お前こそ」
『お陰さまで、東京に戻ってすぐに風邪も治った』
「そうか」
『――さて、ではささやかながら乾杯でもするか?小説にも書けそうにない、偶然の再会を祝して、な』

思わず零れた皮肉交じりの笑みを僅かに上げた缶ビールで隠して、互いの缶を小さくぶつける。

今でも分からない。
何故この男が好きなのか。何故この男の傍らにいると、気持ちが高揚するのか。
だが人の気持ちなど、無論理屈で割り切れるものじゃない。土田への想い程それが当てはまるものはない。
こうして1ヶ月近く会わず、連絡の1つすらせずにいても、再会すればやはり胸の辺りが熱くなることこそ、いい例
だ。やはりそう簡単に醒めるようなものではなかったのだと、想像はついていたものの、こうしていると確信にも近
い形で思い知らされる。

「――元気そうで何よりだ。気にはしていたが、知る術がなかった」
『あぁ……そうか。東京の連絡先を、教えていなかったな。だが、お前だって訊かなかったじゃないか』
「東京までお前の様子を訊くために電話するのも気が引ける。それに、あの時は東京に来る予定もなかった」
『今回来たのは、たまたま、という訳か。まあ、結婚パーティーだと言っていたしな。それに――分かっているさ。
気安く連絡するのも迷うだろうな』

土田の立場からすれば、躊躇うのは当然だ。自宅に電話すれば、俺が電話に出るとは限らない。無論、よほ
どおかしなことでも口走らない限り、電話の取次だけで雛子が自分と土田の関係を疑うようなことはないだろう。
だが、それと気持ちの問題はまた別だ。

「――そういえば、列車に乗る前に、本屋に立ち寄ったのだが……お前の本があった」
『分かりやすかっただろう。本名だからな』
「ああ。――お前は、名の知れた作家だったのだな」
『失礼な奴だな、俺を全然売れてない、暇な作家だと思ってたのか?』

少々笑いながらもきつい調子で言ってやったら、土田はそんなつもりはない、と強く否定した。だが、目元は笑
みを浮かべていた。
他愛無い会話だった。世間話とでもいうような内容だった。
たったそれだけなのに――今、自分は土田の傍にいるのだということが実感された。
土田は自分がどんな作家であるかも、どんな家の出であるかも、どんな生い立ちをしているかも知らない。
土田は自分のことなど殆ど知らない。
だがそれでも――土田は自分のことをよく分かっているような気がする。自分の気持ちの一番近いところに、こ
の男はいるような気がする。
……いや、もしかしたら、逆なのかもしれない。
先程ホテルであったような友人たちが知る土田を、自分は何も知らない。蕎麦屋の店主として働いている時
の土田しか、自分は知らない。だがそれでも、自分は土田の気持ちの一番近いところにいたい――そう思っ
ているのかもしれない。


缶ビールは、あっという間になくなってしまった。
土田にいたっては、自分よりもさらに早く空にしていたようだ。

『ルームサービスを頼もう。ワインならばあるだろう』
「大丈夫か。パーティーでも飲んでいたのだろう」
『量はそう多くは飲んでないぞ』

ルームサービスのメニューを手に戻ってきて、テーブルに広げると土田も覗きこんできた。
狭いテーブルだから、大の男が2人して乗り出すと互いの顔はかなり近い。相手の身体が発する熱すらもうっ
すら感じそうだ。
だが、金子はそのことを考えないよう、メニューに意識を集中させた。

『ワインの銘柄が明記してないとは、どういうことなんだ。値段で判断しろというのか。2000円ならば、サービス
チャージを考えれば大したワインじゃないな……いっそシャンパンにするか……』
「焼酎はないのか」

土田は目当ての品をメニューの中に見つけたかったのだろう。うっかりメニューの上に乗せていた自分の手を、
握って持ちあげた。
咄嗟のことに、ドキッとした。それはそうだ、いきなり手を握られたのだから。
だが、土田には何の意識もないのか持ちあげた手の下に書かれている品書きに目を落す。やがて、目当ての
品はなかったのか、すぐに顔を上げた。

「寒いのか」
『え?』
「手が冷たい。空調が、弱いか」

真っ直ぐ見つめてくる視線に、言葉を失った。
冷たい手とは裏腹に、胸の辺りは熱く、そして乱れた。

確かに元々体温は高い方じゃない。だが、今手が冷たいのは、冷たい缶ビールを握っていたからだ。
ただそれだけの理由だ。すんなり口から出て当然の、ごくシンプルな話でしかない。
それなのに、口から言葉が出ない。

「……金子……?」

異変を感じ取ったのだろう。土田が、微かに眉間に皺を寄せた。
土田の鈍感さは今に始まったことではない。土田が全く意図せずに人の心をかき乱すのは、初めてのことでは
ない。

だが、きっかけなど今はどうでもいい。
それよりも――

『……大丈夫だ……』

さりげなく――多分、ちゃんとできたはずだ――土田の手の内からするりと手を抜いた。
だが、一度乱れた鼓動は、そう簡単に落ち着きはしない。いや、乱れたのが鼓動だけならば、じき平穏を取り
戻すだろう。
それ以上に、感情が、想いが、きちんと最後まで制御できるだろうかと不安が過ぎる。

「暑くなったら切ればいい」

土田が立ち上がる。向けられた背中を見上げた時、気持ちが抑えきれなくなりそうになって、独りきりになった
手を握り締めた。


土田、俺はそんなに理性的な人間ではない。そんなに強い精神力を持ち合わせてなどいない。
そして――そんなに簡単に、諦めのつく人間でもないのだ。

俺は、今でもお前を友人としてなど見ていない。確かに、俺は結論を出していない。
だが、例え俺がお前を諦める決意をしたとしても、それはお前を好きではないという証明にはならない。

お前を好きだという気持ちは、今も少しも色褪せてはいないのだ。






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