EPISODE 23 :

元々どちらかというと暑がりな方だったから、5月とはいえ夜更けなのに、つい先程まで空調を切って窓を開け
ていたせいだろう。
恐らくは寒がりであろう金子には、少々寒かったのかもしれない。

空調の温度を少しばかり上げた。
そうして振り返る。窓際のテーブルセットのイスに座っていたままの金子は、僅かに背もたれに身体を預け、そう
して窓の外を眺めていた。
その背後の窓の外に広がる闇と、そこに点在する光の点と線が、金子の輪郭を曖昧にしていた。



『――なあ』

頼んだルームサービスも届き、やや上げた空調の温度とアルコールが少しばかり暑いと感じ始めた頃、少しの
間黙っていた金子が、不意にこちらを向いて、口を開いた。

「何だ」

金子が、意味ありげな笑みを浮かべた。

『お前は――俺と酒が飲みたかったのか?』

何やら、挑発的な口ぶりだった。だが、何も初めてのことではない。金子は時折そんな言い方をする。
だから、金子の口調よりもその内容の方が気になった。

金子を飲みに誘ったのは自分だ。
金子が東京にいることは無論わかっていたが、偶然に会えるとは思っていなかった。金子とはもう1ヶ月近く会
うことも話をすることもなかった。
久しぶりに出会った友人を酒に誘うことは別に何ら不思議なことではないとは思う。

だが一方で、「単なる友人」という括りで済ませるには少々不自然だろうかとも思っていた。
ではどのような関係なのかと問われてもわからない。どのような関係でありたいかと問われても、同様だ。

”そうだ。単に酒が飲みたかったのだ”――そういう答えは、既に金子との間では奇異に映るのだろうか。

久しぶりに、そうして予期せぬ偶然に出会った男だ。そのまま挨拶だけして終わるなど考えもしなかった。
多少なりとも時間が許すならば、酒を酌み交わし、話をしたい。それが一番の気持ちだった。
それ以上のこと、その先のことなど考えも……否、確かに考えて然るべきことだったかもしれない。
自分と金子の関係を考えれば。

自分は、
自分はどう思っているのか。

金子は、きちんと答えを出すと自分に宣言していた。だが、きちんとした答えを出していないのは金子だけでは
ない。自分だって、己の気持ちがわかっていない。答えを出せてなどいないのだ。


『……ふ……本当にその辺りのことしか考えてなかった――そんな顔だな』

答えに迷っていたら、金子の方が先に答えを出した。

『お前は、こと俺との件に関しては、らしくもなくいつも考え込むじゃないか。正直に思ったことを言えばいいとい
うのに、大抵そんな顔をして答えに迷っている。――いや、困っている、という方が近いか』
「別に、困ってなどおらん」
『そうか?俺には、困惑している、とはっきりとその顔に書いてあるように見えるが?』

金子は意味ありげに視線を流すと、鼻で笑うように僅かに笑い声を洩らした。

金子は時折人をからかうような言動をする。だが、今はそれ以上に、何やら少しばかり攻撃的な気がした。
何故だろう。自分は、何か無神経なことを言っただろうか。

「何が言いたい」

そう切り返してみた。
金子こそ、何やら人を試すようなことを言う、と思った。
単に、これ以上からかわれてはたまらないと思った、ということもあったが。
金子は恐らく反論してくるだろうが、それでも、一言位は言っておこうと思ったのだ。

だが、金子は予想に反して自分の言葉に一瞬、小さく目を見開いた。

「……金子?」
『……何がしたいか、言いたいか、わかっていたらこんなことにはなっていないさ』

こんなこと?
金子の口調は、どこか冷めていて、投げやりだった。
返答に詰まっていると、その様子から金子は何かを察したのだろうか。ちらりとこちらを見て小さく肩を竦めると、
それから微かに、やや唇を歪めるように笑った。

『――今のは忘れてくれ。下らない、八つ当たりだ』

そういうと、さりげなく視線を窓に向ける。そうして、金子はひとり言のように何か呟いた。


淡々とした口調の金子。感情を取り乱すこともなく、唐突な言葉や行動もない。
だがそれでも――いや、その淡々とした調子にこそ何がしかの意味があるように思えて――何かが心に引っか
かった。その冷静さが、何故か気持ちをざわつかせる。

どうすべきなのかわからない。何を言うべきなのかわからない。
だが、何やらすっきりしないのだ。

「金子」
『忘れろと言っただろう』
「金子」
『そう何度も呼ばなくても聞こえている』

金子の言葉に答える代わりに、無意識のうちに金子の手を掴んでいた。
言葉では、どうしたらよいのかわからないのだ。いや、言葉だけでなく、己の気持ちもよくわからない。
だが――言葉よりも、気持ちよりも、反射的に動いてしまう身体は、何かをわかっているのだろうか。





土田に、唐突に手を掴まれて、驚いた。

『土田……?』
「――何をしたいのか、何を言いたいのか、俺にだってわからん」

続く土田の言葉は、手を掴んできたこと以上に驚きだった。
土田が、言うべきこともすべきこともわからないだって?土田がわからないということ自体が理解できない。
あってはならない感情の深みにはまり、思い悩んでいるのは自分であって、土田ではない。土田には悩む理
由など1つも――友人だと思っていた男から好意を寄せられたことへの困惑はあるかもしれないが、それだって
物理的に離れている今、さほどの影響があるだろうか――ないはずだ。

『お前がわからなくなる理由なんて、何もないじゃないか』
「俺との件、とお前も言っただろう」
『……確かに、俺とお前との関係の件だ。だが、それを一方的に変えようとしたのは俺であって、お前じゃない。
そして、その関係の変化の責任を取るべきなのも俺一人だ。さらに言えば、俺はお前にその関係の変化に同
意しろとも言わなかったはずだが』
「だから気持ちが変わらないということはない」
『……無論、気持ちを型にはめるのは不可能だ。一方の当事者の心の変化が自分に影響を与えることもあ
るだろう。だがお前の――仮に、だが、気持ちに変化があったとしてもだ、その混乱は一時的なものだ。気の迷
いだ。すぐに消えるのだから、そんなことで心乱される必要はない』
「何故お前がそう言いきる」

もしも土田が、自分の言動に影響を受けて何らかの気持ちの変化を生じたとしても――それは、きっと同情
だ。そこまではっきりとしていなくとも、それは哀れにも自分に抱きついてきた者を跳ね付けられない憐憫と優し
さだ。
うっかり情に絆されるなど、根が真っ直ぐで人の好い土田ならば、充分にあり得る。一度とはいえ、完遂しな
かったとはいえ、抱き合ったのであれば、尚更だ。
だからこそ、土田の「それ」は断言できる。気の迷いだと。すぐに消える感情だと。

気の迷いだと自身を宥めすかそうとして失敗し、挙句自分なりに愛情を持っていたはずの妻との関係に重大
な問題を来している自分とは訳が違う。
すぐに消えるはずの感情だと、この1ヶ月の間自分に言い聞かせてきたのに、この男の顔を見た瞬間、何ら以
前と変わらぬ想いを持ち続けていたという事実に気づかされて密かに狼狽した自分とはまるで違う。

だが、それだけではない。


『何故そう言いきるって?』

金子は土田に掴まれたままの腕を、そのまま少し持ち上げた。

『お前は、こういうことだって何の気なしにするのだろう?』
「……?どういう意味だ」
『俺がお前であれば、しないな』

土田は意味がよく飲み込めないのか、眉間に皺を寄せる。
だが、そんな土田の姿は想像通りだったから、金子はその顔を見つめて薄く笑うと、掴まれていた手をさほどの
力も入れることなく、するりと逃れさせた。そうして、立ち上がる。

『もちろん、混乱には後先を考えられないということも含まれるとは思うがな……』
「何が言いたいんだ……金子?」

その腕を取り、土田をイスから立たせると、土田はそれには従いながらも、ますます意味不明だと言わんばか
りに金子の顔を見つめた。

『不用意な言動が呼び水になる、ということを考えたりはしないのか?俺ならば、考えるがな。考えていても、
物事が全て想像通りに運ぶ訳じゃない。だが、考えなければ混乱の度合いは増すばかりだ。――だからこそ、
後先を考えずに行動してしまうと……こういうことに繋がる』

言葉を繋げながら、土田の顔を両手で触れた。
僅かに目を見開いた土田の顔が、少し眩しい位だ。

これでも、自分自身を抑制していた。土田が俺に指一本触れることがなかったなら、最後まで自制心を保つ
ことも、いつも通りの自分を演じることも、不可能ではなかったはずだ。
それだけ、自身の気持ちの重みを知っているから。その気持ちの命ずるままに行動することの、重大さを知っ
ているから。

だが、土田は違う。土田にはそんなプレッシャーは何もない。だからこそ、平気でこの手を掴むのだ。
一度は身体を重ねた相手だというのに。
無論、立場の違いもあるだろう。だが何より、土田の気持ちは自分の気持ちとは違って、そんな大事を引き
起こすようなものではない。だからこその、土田の安易な行動。


お前は――俺と酒が飲みたかったのか?

俺は土田にそう問うた。
だけれど土田がそうだというのなら、それでもよかったのだ。ただの友人のように、かつてのように、酒を酌み交わ
し、話をするだけでも、会えないよりは、会えなくなるよりはよほどいい――そう思っていたのは、何もやせ我慢
ばかりではなかった。

それなのに、土田は無意識にうちに俺の自制心にひびを入れ、壊す。
そのことの重大さを自覚せずに、その言動の結果を予測もせずに。


土田の頬を撫で、首筋を指先でなぞっていく。
表情は平静を保っていると自信がある。だが、誤魔化しようもない位に胸が高鳴っていることは、自分自身が
一番よく知っている。
だからそのまま、土田を抱き締めた。
つくづく――自分はこの男が好きなのだ、と思う。

いくら理性が物事を穏便に済ませようとしても、本能の常識的な部分が厄介事を回避しようと躍起になって
も、この想いは想像を超えて、遙かに強い。今はもう、それを認めざるを得ない。

考える時間は充分にあった。その間、自分でもうんざりするほど考えた。
だからもう、どうしてこんなことになったのかなんて問うつもりはない。それが事実なのだし、その現実は変えられ
ない。

だがそれでも、思ってしまうことがある。
せめて、もう少し早く出会いたかったと。
それだって、変えられない現実ではある。そういう意味では、これも愚かな願望だ。
だが――同じ出会うならば、出会ってしまうのならば――雛子との話が進む前に出会いたかった。
彼女との見合いを断ることは難しくはあったが、不可能ではなかっただろう。金子の家の跡取りとして不適格
であると証明し続けることで家の干渉から逃れることは、気の進まない努力ではあるが、できないことではなかっ
ただろう。

そうすれば、例えこの想いが叶わなくとも、好きな男の傍にいられた。
勘当同然の独り身であれば、この想いを胸の内に抱え続けていても、少なくとも他人を傷つけることはない。
それができればどれ程楽であったか。

親友としての立場に不満を抱くこともあっただろうが、それでも、きっと自分には正直でいられた。
誰に遠慮することなく、思い続けていられた。
想う気持ちだけは、自由に羽を広げられていられただろう。


その時――不意に、抱き締めた男の腕が背中に回された。
その刹那、土田にも分かってしまう位、身体がびくっと動いた。


『……はっ……同情、か……?』

咄嗟に体裁を繕う。皮肉な台詞の声は少々上ずったけれど。

「いや……違うと思う」

想像以上にあっさりと否定されて、耳を疑う。土田の言葉に、伝わる体温に、身体が熱くなった気がした。

『違う?じゃあ……何だ』
「……違うということは、はっきり分かっている……」

続く言葉に、思わず噴き出した。

『馬鹿か……それじゃあ、ほぼ分からないも同然じゃないか』

否定しきれずに、返答に困ったのだろう。土田が黙りこむ。
その様子に、少々呆れつつも気分は決して悪くなかった。
土田が自分に愛情を感じているとか、そんなことは最初から期待していないのだから。同情ではない――それ
ですら、自分は仕方ないと思っていた。だから、違うというのならば、それで十分だ。

「よく分からんが、拒む気にならん……というのは、何だと思う」
『それを俺に訊くのか?』
「お前ならば、俺よりも分かるのではないかと思った」

以前もそうだった。自分が土田を押し倒した時にも、この男はそう言っていた。
それが恐らく土田の嘘偽りのない答えなのだろう。何故だか拒む意志が起きない、というのが。
それが何なのか?――分かる訳がない。土田の想いを客観的に見れる程、自分はこの男を冷静になど見
れていないのだから。

『馬鹿、当事者だぞ?俺は』
「そう馬鹿馬鹿言うな」
『ふ……』

安易だろうか。これ位のことでうっかり嬉しくなってしまうのは。こんな他愛もないやり取りを、まるで傍から見た
ら恋人同士がいちゃついているようにしか見えないようなことを、あの土田としているのだと思うと、それだけで楽
しくなってしまうのは。
何やらくすぐったいような気持ちになって、土田の顔を両手で挟むように触れた。

『だけれど、いいことを聞いたな……』
「?」
『俺のすることは、拒めないのだろう?』
「……どんなことでも、というわ――」

都合の悪い予防線を張られそうだったから、土田の気が変わらない内に、その唇に口付けた。



何も解決していなかった。解決の糸口すら見つけていなかった。
だが今はもう、何も考えたくなかった。












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