EPISODE 24 :

金子は、小さく紫煙を吐いた。
窓の外に見える景色は相変わらずキラキラとしたネオンを身にまとった暗闇が広がっている。
まだ、夜だ――そのことに金子は安堵していた。

土田と、再び関係を持ってしまった。またもや完全な形で、ではないが。
でも、だからといってそれが不貞の罪を軽くするだろうか?

お前という男は、よくわからん――土田からはそう言われた。
確かに、土田にしてみればそうだろう。土田の家で最初にあの男を押し倒した時、土田は予想外の事態に驚
き、そうして恐らくは、自分の様子に憐憫の念を持った。だからこそ、土田は拒まなかった。拒むことを躊躇った
挙句、断る術と気持ちを失った。
だが今回は――少々卑怯だっただろうか。



「……するのか」
『ここまできて、しないということがあるのか?据膳だぞ?』
「馬鹿者」
『馬鹿とは何だ。事実だろう。据膳喰わぬは何とやらだ。――それとも、臆したか?』
「そういう話ではない」
『ならばどういう話だ。そもそも、部屋で飲むという時点でこういう展開は想像がついて当然ではないか?』
「……」
『さて、話はまとまったようだな』
「は?」
『では、どちらがいい?』
「は?」
『自分で脱ぎたいか、それとも脱がされたいか、2つに1つだ』
「……」
『あぁ、言っておくが、第3の選択肢なんてないぞ。脱ぐか、脱がされるか、だ』
「……どけ。自分で脱ぐ」



早々に土田を押し倒すと、深い口付けとさりげない愛撫で欲望を煽りつつ、覆いかぶさったまま言葉で挑発
した。無論、最初に拒む気が起きないなどといった土田も悪い。あれではまるで、何が起こっても許すとでも
言いたげだ。拒むことはないと自ら宣言したのだから、それで何かあったからといって、自業自得だろう。
だが、それとはまったく異なる次元で、自分にはそれを思いとどまらなければいけない事情があった。
それは土田がどうこうとかいう話以前の問題だ。

だが、俺はそのことを考えずに、いや、考えることを拒否した。

無論、土田を押し倒した自分が迷ってなどいてどうする、という思いもあった。この機会を逃しては次、いつ再
会できるのかという焦りもあった。だが何より、自身の気持ちを改めて確認しようとしていた。
初めて土田を抱き締めた時、それは勢いというか、冷静さを欠いた中での突発的な感情の高まりと発露が
あった。色々と考えながらも結局、きちんとした判断もできない中で、ただ気分の趣くままに突っ走った。
だが、今日は違う。あの時からはひと月余りが経ち、自分の元の生活に戻り、そうして家には――そう遠くな
い場所には、待っている人すらいる。そんな中で、それでも自分は本当にこの男に執着するのか。他の全てを
捨ててもいいと思える程に、この男が欲しいのか。
そんな究極的な問いに対する答えを求めて、土田に貪りついたのだ。


カタンと物音がして振り返れば、バスローブを着た土田が丁度バスルームから出てきたところだった。
ダブルベッドの部屋だったから、バスローブは2組用意されていた。だが、先にシャワーを済ませていた自分は既
にその内の1組を身につけていたから、こうして揃いになってしまうと妙に気恥かしい。

金子はさりげなく視線を外すと、タバコの火をテーブルの上の灰皿に押し付けた。

何か話の1つもしなければ、こうしていつまでもここに居るのは不自然だろうか。そろそろ帰る頃だと思われてい
るだろうか。
まだこの部屋に居るための言い訳を探して、掛けるべき言葉を考える。


「要るか」

ふと気づいたら、土田はすぐ傍に来ていた。そうして、テーブルに緑茶の缶が置かれる。
軽く相槌を打つと、土田は正面の席には座らず、そのまま窓の前に立った。

「――東京は、明るすぎる」

土田が眼下に見える光に溢れた街並みを見つめてぼそりと呟く。その背中を、ぼんやりと眺めた。
最低限の言葉と、最低限の気遣いの行動――ぶっきらぼうかといえば、そうだ。それこそが土田の言動を表
わすのにふさわしい。だが、それでいて土田は自分の口にしなかった問いに答えをくれた。偶然にも。

俺はまだここに居てもよい。
ここに居る口実を作る為の話題など探さなくてもいい。
ただ、あるがままの自分でいてよいのだ、と。


『東京に住んでいたことだってあるんだろう?』
「ああ」
『だが、イマイチ好きになれなかった――か?』
「……嫌いという訳ではない。だが、久しぶりで少々落ち着かん」

金子は静かに立ち上がると、土田の背後に近付いた。そうして、少しばかり丈足らずの袖を通した両腕と腰
の隙間にするりと腕を滑らせ、腹部の辺りで軽く両手を合わせた。

『ならば、すぐにでも帰りたい、か?』
「……そんなことはない」

シャワーを浴びたばかりの土田の背中は、いつもよりも熱い。
元より土田と会った時から自身の冷静さなど心許ないものだったが、これでは熱に当てられそうだ。
だが、そうと分かっていて、金子はそこから離れようとは思わなかった。

『そうはいっても帰るんだろう?もう――今日の内に』

自分には引き留める資格などないし、実際のところ、引き留めるつもりもなかった。
万が一にも土田が2〜3日滞在を延ばせたとしても、自分は土田の元に居られる訳ではないのだから。
だけれど、ほんの少し、意地悪なことを言いたくなった。
東京は落ち着かないなどという土田に。自分のいる、この地を早々に去ろうとしている土田に。

「金子……」

困ったように、少々眉間に皺を寄せて、土田がこちらの方に顔を向ける。
金子は土田の腰に回していた腕を緩めると、背後から前へと移動した。

『なあ、土田?』

金子が意味ありげに視線で少しばかり見上げて笑みを浮かべてみせると、土田は益々眉を顰めた。

『ふ……お前は何でも真に受ける』
「あのな……」

混迷の度を深めたその表情に何故か胸の辺りが高揚して、金子は土田の唇に口付けた。
何度となく口付ける内、自然と背中にまわされた腕が嬉しかった。

その一方で――自分と出会ってからの土田の困惑は如何ばかりだろうと推し量っていた。
妻もある身の、同性の、知り合ったばかりの友人に、言い寄られ、押し倒される。
そうして、たまたま再会した東京で、自分のことも棚に上げたその男に再び誘惑されて関係を持ってしまう。
どう考えても、不条理な話だ。

それは、よく分かっていた。
だが――


『っ……ん……』

口付けが、単なる唇同士の触れあいだけではなくなっていた頃、無意識のうちに金子は土田の広い背中をま
さぐり、バスローブをきつく掴んでいた。
これ以上何を望めばいいのか、この抑えきれない気持ちをどう処理すればいいのか――答えなどでるはずも
ないというのに、ただ本能的な動きでそれを求め、苛立ちにも似たもどかしさで土田の口腔をかき乱し、舌を
絡めていた。



本当に、不条理だと思った。
望まざる言動に振り回されているのは、土田だけではない。自分でも、自分自身の制御ができずにいた。

俺だって、こんなことは望んでいなかった。
もっと平穏な、為すべきことと為したいことの間に乖離ない形の人生を望んでいた。
「日々の平凡な生活におけるスパイス」だとか、「ちょっとした刺激」以上の、それこそ手に余るような、そんな大
きなハプニングなど欲していなかった。

本当に、そんなことは全く欲していなかったのだ。






自宅マンションに戻った時、既に時刻は夜中の3時を過ぎていた。
雛子は既に寝ているはずだ。だが、着替えをするためには彼女の居る寝室に行かなければならない。
金子はそっと、極力物音を立てぬようにリビングを通り過ぎ、寝室のドアを開けた。
さすがにこの時間ともなると、ベッドに横たわる雛子に動く気配はなかった。

金子は胸の内でそのことに安堵するとともに、静かにベッドの傍に行き、自分の寝間着を手にする。
その時――雛子の眠りについた横顔が寝室の薄明かりの下に見えた。

『……』

このまま静かに部屋を出て、書斎へ行くつもりだった。
だが、何も知らずに眠っている彼女の傍を一片の感情の動きもなく通り過ぎることができる程、心は冷静では
いられなかった。


雛子のことは今でも好きだ。愛しいと思う気持ちも勿論持っている。
それは付き合いたての恋人同士であれば、少々情熱が足りないかもしれない。だが、自分たちは夫婦だ。結
婚生活を維持するには不足を感じない。
それに比べて土田に対する想いは、執念にも似た強い執着心のようであり、熱病のようなものだった。四六時
中一緒に居たい訳じゃない。だが、そのくせこうして離れてしまうと、何かが自分から削げ落ちてしまったような
気になる。何かが欠けたようで心が落ち着かない。
そうしてそのことに、痛みを感じるのだ。

むしろ、愛情という名にふさわしいのは、雛子に対するものなのかもしれない。
愛情とは単なる熱意だけでなく、情の部分――すなわち、ぬくもりと優しさを感じさせるものだと思うから。
少なくとも自分にとって愛情とは、苛立ちと不安に塗れながらも求めてやまないようなものではなく、まして自分
が傷つくことも、誰かを傷つけることも恐れないような、そんな無鉄砲で無秩序なものではなかった。
そんなことは、これまでに一度もなかったのだから。


だが――そんな「正当な、在るべきはずの愛情」を感じているはずの人を、自分は裏切っているのだ。

好きだと言いながら、愛しいと思いながらも、実際にはこの身も心も不誠実でしかない。
この心は他の者を追い求め、この身体は愛しい人に対して動いてくれない。反応してくれない。

土田に対しては――ちゃんと繋がることさえできていないにもかかわらず――身体は容易く反応するのに。




金子は、いたたまれなくなって、急いで寝室を出た。


離婚――そんな2文字が頭を過ぎる。

全く、あまりにも軽率だとしか言いようがない。
確かにこれまで、自分はどこか自分の人生を軽くみていた。
幼少時に何度か入院生活を余儀なくされたせいで、人は誰しもいつかは必ず死ぬものだという思いが常に頭
にあった。成長してからも己の望む道を行くことが人より少々難しかったせいか、自分一人の力でできることな
ど限られているのだと、人生をどこか運命論的に見ることが多かった。
とはいえ、自分が不幸だとは全く思わない。むしろ、総合的に見れば恵まれた方だと思う。
だが、自分自身を、自分の人生を、どこか冷めた目で冷静に観察してきた自分だからこそ、これまで大きく道
を踏み外さなかったのだともいえる。少々退廃的な姿を気取ることはあっても、後戻りの利かない冒険的な、
あるいは破滅的な選択などし得ないという自信があった。

だが、もし自分がここで土田を選んだら――それはそういった人生に他ならない。

こんなことを考えてしまう程に一人の男を想う自分自身に、違和感などよりもっと強い、そう、恐怖すら感じる。
だがそれと同じ位に、取り返しのつかない選択をすることは怖い。
仮に何とか離婚できたからといって、同性の恋人を持つことが許されるという訳では全くないと分かっているだ
けに尚更だ。

他の全てを捨ててもいいと思える程に、自分はこの男が欲しいのか――土田と肌を合わせたからといって、そ
んな問いに対する答えがそう簡単に出るはずもなかった。
気持ちの問題だけならば、答えはとうに出ている。少なくとも、今現在の心の在り処がどこにあるかなど、もう
充分過ぎる程に自覚している。だが、それが最終的な回答かと言えば、そうはいかない。
願望と、現実は違うのだから。

もっと若い頃に出会うことができたなら、無鉄砲な選択もできたかもしれない。
失うものが何もない頃ならば、もっと大胆に飛び込むこともできたかもしれない。
だが、今の自分には失うものが多すぎる。
無論、そんなことは最初から分かっていた。分かっていたが止められなかった、だからこその過ちなのだ。


金子は書斎のイスに力なく腰を下ろすと、頭を抱えた。
どちらも選択できない己の女々しさを呪った。





一方――僅かに聞こえたドアの閉まる音と同時に、雛子は目を開けた。
そうして、静かに上半身を少しばかり起こすと、寝室を後にした男の背中を追うように閉じられたドアを暫くの
間見つめていた。











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