EPISODE 3 :


「先生、さよならーっ!また来週ーっ!」

先程までへばっていたはずの子供たちが、元の服に着替えて脱衣所から出てきた時には、もうまた元気になっ
ている。

「ああ。気をつけて帰れ」

「はぁーい!」
「先生もな!」

色とりどりの返事の中に、少しだけ違う言葉が入る。特にどうとも思わなかったのだが、子供たちは一瞬静まり
返った。そうして、何人かがすぐにこちらを見上げる。

――俺が、怒ると思っているんだろうか。

「ああ、そうしよう。といっても、すぐ向かい側なのだが」

少々相好を崩して答えれば、子供たちはホッとしたように笑った。口々に何やかやと言っては笑ったりふざけた
りして、走りながら出て行く。
あんなに気もそぞろで荷物を落としやしないか、転びはしないか――いつものこととはいえ、つい心配になる。
本当に、元気な子供たちというのはまるで嵐のようだ。突然賑やかになり、そうして去った後には静けさだけが
残る。記憶にある弟や妹のように。



男は自分の荷物を持つと、剣道場の戸締りをして外に出た。
木々の間からは茜色の光が差し込み、時間を告げる。

春は間近だが、この辺りは未だ夕方になると寒い。懐かしい実家よりは大分暖かさも緩やかで、反面寒さは
厳しい。だがそれでも、この静かで長閑な土地はどこか幼少時代を思い起こさせる。都会で味わった喧騒と
――そして、混乱から逃れた自分に許された、ひと時の緩衝地であるかのように。

剣道場は、自分の自宅兼店舗から2分と離れていなかった。かつてはこの剣道場こそが本宅で、現在自分
が使用している自宅兼店舗は大きな倉庫として使われていたらしい。だが、元々豪農であった持ち主は先の
戦争で家族が離散し、その後は遠縁が長く借りていたが彼らも年老いて亡くなり、自分がこの土地に来た時
にはその建物の古さと駅からかなり離れた林間部にあるという立地が嫌われ、何年も放置された状態であっ
た。

自分は幸運だったのだと思う。

この場所を見つけることができて。この場所に留まることができて。
ここは水のきれいな土地だ。蕎麦を打つにはいい。
それに、週に一度の休みに子供達に剣道の稽古をつけることもまた、自分にとっては気の休まる時間だ。
失いかけていた何かをふっと取り戻すことができるような気がするのだ。



自宅に戻って竹刀や剣道着などの荷物を置くと、上着と小さなビニール袋を1つ持って再び外に出た。緩や
かな坂道を下っていくと、あまり大きくはないが整然と真っ直ぐに伸びた商店街の道が見えてくる。元々は避
暑地として知られた町だ。春先ではまだ少々時季が早い。そのためか、古い店と真新しい店が両側に混在
した道を歩いていくも、地元の学生や夕食の買物に来た主婦と時折すれ違う位で、さほど混んでもいない。

そうして比較的近年に改築されたらしい駅前まで出るとそこには小さなロータリーがあり、やがて視界に目的の
場所が入ってきた。


「おう。土田か」

建物の入口の前まで来ると、すぐにひと気を察したのかこちらが声を上げる前に中から名を呼ばれた。一礼し
て入口を入ると、無言のままボールペンで傍にあるパイプ椅子を指し示される。机上には日誌であろうノート
が開かれていた。
そのノートを避けて、机の端に持ってきたビニール袋をそっと置く。

「お、いつも悪いなあ」

そのビニールに視線を移した後、笑みを浮かべた顔がこちらに向けられた。

「――いや。いつも世話になっているのは俺の方だ」
「はっはっ……お前は相変わらず律儀だなあ。だが嬉しいぞ。お前んとこの蕎麦は旨いって家族にも評判だ。
まあ、座れ。茶でも出してやろう」
「あ、いや。俺が淹れよう」
「いいから座っとけ。大体、民間人はこっから奥には勝手に入っちゃいかんのだぞ」

一歩進んだところで、肩を掴まれた。笑いながらもしっしっと手で追い払われては、これ以上進む訳にもいか
ない。だから先程勧められたパイプ椅子に腰を下ろした。

もう何の縁もないところなのに、ここの空気にどこか安心感を覚えるのは、かつての師にあたる彼のせいなのか
もしれない――






――いくら田舎の郵便局は早く終わるからといって、一分前に閉めてしまうのはフライングじゃないか?!

金子は駅前の郵便局まで来て愕然とした。
そうでなくとも都心部と違って、田舎の小さな郵便局は夕方早くに閉まってしまう。それは十分分かっていた。
分かっていたのだが――まさか終了時間前に閉まっているとは思わなかった。
確かにここに来る前に一服したくなって、つい近所の喫茶店に入ってしまったのも悪かった。だが、それでも時
間には間に合うように、自分はここに来ているのだ。例え、一分前だとしても。

先週の内に書き上げた原稿ではあったが、なまじ時間に余裕があると却って迷ってしまうらしい。あの後、読
み返しては何箇所か手直しをした。結局、完成したあの日から1週間も手元に置いてしまったが、締め切り
は今週末だから問題はなかった。今日出せていれば、恐らくは締切日より前に東京の出版社に着いただろう。
確かに明日出したところで、間に合うことは間に合うのだが、それにしても。

――やはり今回もギリギリかと思われては癪だと思って、1日でも早く出そうとわざわざここまで来たのに。

どうにも納得がいかないが、といって完全に閉ざされた扉の前に未練がましく立っていてもみっともないだけだ。
仕方なく、金子は手にした定形外の茶封筒を小脇にさりげなく追いやりながら、郵便局に背を向けた。

せっかくここまで来たのだから、本屋にでも立ち寄ろうとロータリーの方まで歩いてくると、何気なく視界に交番
が見えた。交番の入り口には、1人の黒っぽい服装をした男が中に居る警官と話をしている。
別に何のことはない日常の風景だが、交番の先にある本屋を目指している以上、その光景は自然と視界に
入った。入口に居た男が、やがて一礼をする。それはまるで軍人か何かのように、背筋を伸ばしてきちんと斜
め45度の角度――そうして交番を出た男は、こちらを向いた。

『あ……』

その顔に、思わず小さな声を上げた。
未だ間には10メートル位の距離があったが、相手も自分に気づいたのだろう。こちらを見ている。


『やあ。確か、君は商店街の外れにある蕎麦屋の――』
「ああ。俺も覚えている。先週店に来てもらった」

近づいて一応声を掛けてみれば、相変わらず蕎麦屋の(恐らく)店長の口調はぶっきらぼうだ。

ふと、先程のこの男の様子を思い出した。交番の警察官にきちんと一礼する姿を。そうして、それを見送る警
察官が親しげにこの男の肩に手を置いたことを。まさか。

――この男、前科者であの警察官に更生した後の就職先を世話してもらったとか……?

有り得る。この世俗と袂を分かつようなストイックな雰囲気。時代にそぐわない生真面目さ。
大体、単なる道訊き――そもそも、地元で店をやっていながら道が分からないということがあるだろうか――や
一般的な相談事であそこまできちんと頭を下げるのも不思議だが、何より警察官が気安く男の肩を叩くのも
違和感を感じる。

いや、だからどうということはない。ないのだが……どこからともなく湧き上がる好奇心……否、作家としてある
種必要な取材心が疼いて、何か言葉を繋げてみようかと口を開きかけると――


「あーっ先生だーっ!」

背後の方から聞こえてくる大声。それに対して、正面の男が目をそちらに向けた。
その様子に釣られて振り返ってみると、自転車に乗った小学生位の男の子の2人組みがこちらに向かってくる。

――先生?

確かに自分は先生と呼ばれたりするが、こんな小さなファンが居るとも思えない。だが、彼らはどうやらこちらの
方に向かってきているようで――すると、正面に居た男が彼らに向かって僅かに手を上げた。


「どうした。寄り道をしてはいかん」
「違うよーっ。お父さんを駅に迎えに来たんだ」

まるで諭すような男の口調に、男の子の1人が口を尖らせる。よく見るとその顔が互いに似ている辺り、2人は
兄弟のようだった。

「先生こそここで何してんの?」

もう1人の子供があっけらかんと問う。
そう、その質問は正に良いタイミングだ――俺は思わず子供と一緒になって男の顔を見た。

「知り合いに蕎麦を届けに来た」

――それだけとは思えんが。

自分がこの子供であればそう畳み掛けたが、生憎肝心の男の子はそれだけで納得してしまったようで、ただ、
ふうんと答えるだけだった。
口々に別れの言葉を言ってあっさりと自転車で走り去る子供たちを、俺達は何となくそこに立ったまま見送っ
た。


「ああ、すまん。話の途中だったな」

男がこちらを振り返る。特に何か話していた訳でもないが、どうせならば、と疑問をぶつけてみた。

『いや――ところで、つかぬことを聞くようだが、先生、とは蕎麦屋とは別に塾でも開いてらっしゃるのか?』
「いや、小学生向けに週一度、剣道を教えている」
『なるほど』
「先生ではなく、名前でいいというのだが、どうも聞かなくてな……」

男が、僅かに相好を崩す。ずっと怒っているのかと思えるような仏頂面が、その表情を変えた。何やら和んだ
雰囲気を目元に浮かべ、少々困惑した様を口元に表わす。それはどこか深みのある表情で、その和んだ表
情の意外性に、一瞬目を奪われた。


「――俺は土田憲実という。去年の12月、この地に越してきたばかりだ」

男はふと気づいたように律儀に自己紹介して、軽く頭を下げた。

『あ、ああ。俺は金子光伸だ。駅の向こう側の別荘に2週間ほど前から滞在している』

と答えてから、ハッとした。つい男に釣られて、当たり前のように本名を明かしてしまった。
作品が文庫本化するにあたって、小さいとはいえ近影などといった写真が出るようになってからは、誰彼構わ
ず本名をフルネームで答えることは避けていたのだ。
それなのに――つい釣られてしまった。この男が馬鹿丁寧に頭など下げるものだから。

相手が万が一にも前科者で、裏の世界に繋がるような男だったら一体どうするのか。再び交番に居た時のこ
の男の姿を思い出しては一抹の不安が過ぎる。

『その、ここに来る前は、一体どこに?』
「は?」
『……いや、何でもない。忘れてくれ』

そんなことを聞いてどうする。まるで探りを入れているようではないか――そう思って、急いで打ち消す。だが、
相手は俺の顔をじっと見、やがて口を開いた。

「大学を出て、3年ほど就職していた間は東京に居た。その後転職してこの県内に移ったが、この町に来たの
は3ヵ月前という意味だ。元は鹿児島の出身だ。……何か身分証明でもあれば良いが」

何の隠しごともしていないとでもいうように、土田は淀みなく答えた。
俺は、よほど訝しむような顔をしていたんだろうか。

『あ、いや、俺は別に――』
「いや……越して来たばかりの頃、ここで潜伏捜査をしている刑事ではないかとか、刑務所上がりなのではな
いかとか疑われた。それで、何件か交番に問い合わせがあると警察官に呼ばれたことがある。俺もきちんと近
所に説明しなかったことが悪かったのだが、どうも誤解を受け易いようだ」
『ああ、それで』
「?」

それならば、警察官と親しげだったことも納得がいく。恐らくは剣道を教えるような体育会系のこの男だ。秩序
と上下関係を重んじる警察官ならばウマが合っても不思議はない。
第一、子供に剣道を教えている位だ。素性について近所との間で信頼関係ができたからこそだと思えば、何
も怪しむような男ではないに違いない。
……ただ、ちょっと強面で愛想がないというだけで。

『ああ、いや。それよりも、では俺とはさほど年が違わないんじゃないか?』

先程の男の説明が正しければ、同年代のはずだ。何となく俺よりも老けて見えていたが。

「俺は26だ。今年27になる」
『……1つ下だな』

何故か、微妙に面白くないと思った。この男が年下のくせに妙に落ち着き払っているからかもしれないが。だが、
と同時にこれで気など遣わなくていいんじゃないかと思った。

「そうか。ここで同年代の知り合いができるのは初めてだ」

男が、ふっと微笑んだような気がした。

「俺の打った蕎麦は、不味かったか」
『は?』
「いや、忌憚のない感想を言ってくれて構わん」

土田は至極真面目な様子で俺の顔を見ている。その真っ直ぐに注がれる視線が、胸の辺りを少々焦らすよ
うに気に障った。



『――さあ、どうだったか……。あまり覚えてないな』
「……そうか」

その答えに、土田は僅かに視線を落とした。それが少しばかり落胆しているように見えて、俺は前に一歩踏み
出す。そうしてからかい混じりの笑みを浮かべて言ってやった。

『だから、俺の答えは次に行く時まで待ってくれ』


土田が、僅かに目を丸くして人の顔を見る。それから、目元を綻ばせた。

「ならば、その時を楽しみにしていよう」



何故か、小脇に抱えていた大きな茶封筒が、ふっと軽くなったような気がした。






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