EPISODE 5 :


ミシ……

己の踏み出す一歩に床が小さく軋む。その微かな音すら聞こえる程の静寂を、心地よいと思った。
東京ではもちろんのこと、片田舎の実家で父が開いている剣道場ですら、ここよりは幾分騒音がある。だがこ
こには、己の出す音以外は何もない。あるとすれば、時折僅かに葉音が外でざわめくだけだ。

こんな静かなところでは、己の一挙手一投足にいちいち意識が動かされる。それは何も身体的なことのみで
はなく、心の動きすら、否応なく意識は追っていた。

自分がこの場所を気に入った理由――このような静寂を欲する理由は何なのか。世俗と距離を置きたいと
願っているのか。背中を向けたいと思っているのか。
それとも、己のままならぬことが置き去りにされているあの世界から、目を背けたいということなのか――


ガタ……カシャン……

「……っ」

内なる世界に足を取られながらも竹刀を構えようとしたところで、予想外の騒音を聞いて土田は驚いた。

己と自然が発する音とは明らかに違う、第3者――いや、第3物というべきか。それは、さほど大きくはなかった
が、明らかに遠くはない場所から聞こえた。

野良猫か何かだろうか――土田は構えを解くと、竹刀を持ったまま剣道場の出入り口まで来て、木戸を開
けた。すると――


『っ?あれ?』


店舗兼自宅のある、この剣道場からすぐ目と鼻の先にあるそば屋の店の戸口に、知りあって未ださほど経た
ぬというのに、最近はよく会う男が立っていた。男は、自分が想定外の場所から顔を覗かせたことに驚いたの
か、店舗の戸口にある薄明かりの下で、一瞬口をパクパクとさせる。

「金子?」
『何だ。今日は定休日だったのか?』
「違う。どうしたんだ、一体」
『どうしたも何も、蕎麦を食べに来たに決まってるじゃないか』

確かに、そうだろう。でなければそこに立っているはずもない。だが――

「もう夜の10時過ぎだ。店は8時までしかやっておらん」
『今は10時過ぎではなく、既に10時27分だぞ。しかし、8時で閉店とは知らなかったな。そういえば、こんな時
間に来たことはなかった』

金子は、自分の腕時計で時刻を確認しては、何故か変なところで正確さを期した。

「ここまで歩いて来たのか?」

まだ春先だ。商店街から離れ、ともするとさほど舗装すら施されていないような山道を通らなければ、ここには
来れない。夜更けともなれば、道は暗闇に近い。そんなところに、男とはいえまさか1人でフラフラと歩いてきた
んだろうかと、余計な心配をした。


『いや、タクシーで来た。少し手前で降りたんだが……こんなことなら、店の明かりを確認するまでは待たせて
おくべきだったな。まあ、いい。酔い醒ましに歩いて帰るか。邪魔をしたな、夜分遅くに』

何やら1人でブツブツと言っていたかと思えば、金子は自己完結して、その場から去ろうと背を向ける。その様
子があまりにあっさりしすぎているものだから、何となく落ち着かない気持ちになって思わず男の背中を追った。

「おい、待て」

足を止めて、ゆっくりと振り返る男の前に立つと、金子は不思議そうに見上げてくる。

『どうかしたのか?』
「いや――蕎麦の1人前位、用意しようと思えばできる」

そう言うと、金子は目を見開いた。

『余計な気を遣うな。別に空腹で死にそうという程ではない。それに、俺は月夜の散歩はしょっちゅうやってるん
だ。幸い今夜は夜空もキレイなことだし』
「気など遣っておらん。どうせ、俺もこの後軽く夕食を取るつもりだった。1人前も2人前も手間は変わらんのだ
から、食べて行け」
『……。まあ、そこまで言うのなら、食べていっても良いが』
「ああ。剣道場の戸締りをしてくるから、中に入っているといい。裏手にある勝手口の鍵は開いている」

そう言って、未だやや意外そうな表情を浮かべたままの金子の肩にぽんと手をやると、すぐに剣道場の方に向
かった。


静寂は、嫌いではない。
剣道に集中出来るし、そんな中で己を見つめ直すことができる。
何より、心のどこかで今の自分はそれを求めているのだと分かる。

だが――すり抜ける風を、どこか寒く、独りを感じる時もあるのだろうか。

勝手口のドアの軋む音が聞こえてきて、土田の心は何故か少しばかり安堵した。





「どこか遠出でもしていたのか」
『まあな……下らんパーティーの帰りだ。挨拶やら何やらと、ひっきりなしに人が来るものだから、忙しなくてな
……料理にも殆ど手がつけられなかった』

金子は好奇心の目で辺りを見回しながら、隣接する台所に立つ男の問いに答えた。



別荘のあるこの町に来て、既に当初の予定を過ぎてひと月以上が経つ。偶然訪れた蕎麦屋の主であるこの
男、土田憲実と知り合いになってからというもの、2〜3日に一度は蕎麦を食べにこの店に来ることがすっかり
習慣のようになりつつあった。同年代という気安さから、店では少々親しげに話すようにはなっていた。
だが、店舗の2階部分であるこの男の自宅に招かれたのは今日が初めてだった。

「それでスーツか」
『ああ。堅苦しいのは好きじゃないんだが』

その堅苦しいスーツのジャケットを早々に脱いで部屋の端の方に置いてしまうと、金子は部屋の中を回り始め
た。それは僅か6畳程の和室だから、何も歩かずとも見渡せるのだが、座って土田が食事を用意してくれるの
をじっと待っているというのも、何やら退屈だ。だから、あえて1つ1つ観察して歩いた。

濃茶の木のタンスに丸いちゃぶ台、小さな同系色の電話台、強風の日にはカタカタと騒がしそうな木枠の窓
にはレースのカーテンなどなく、飾り気のないモスグリーンのカーテンがぶら下がっていた。敷いてある畳は、小ぎ
れいではあるものの少々年代物に見えるし、ちゃぶ台の周りに置かれた2つの濃紺の座布団は、随分と古め
かしいデザインのものだ。

『まるでタイムスリップでもして来たようだな……』
「?何か言ったか?」

それはふと呟いた独り言のようなものだったが、開け放した襖のすぐ先にある3〜4畳程の台所に届くには十分
な音量だったらしい。

『いや……清々しい程にシンプルで、どこか懐かしい匂いのする和装住宅だと思ってな』
「商店街の中古の家具屋やご近所から安く譲り受けた。俺にはこれ位で丁度いい」
『まあ、想像できなくはなかったがな。店舗の方も、必要最低限のものしか置いてないし』
「飾り立てるのは性に合わん。それに、そういう才能も持ち合わせていない」

金子は薄く笑うと、何気なくこちらに背を向けて台所に立つ男の方に視線を移した。

大きな真っ直ぐに伸びた背中――それは、隠しようもないあの男の性格を表しているかのようだ。
実直で、言葉に嘘がない。己を飾り立てる気もなく、その必要性も感じていない。臆面もなく自分の足りない
というところを認める。だからこその、土田の真っ直ぐな言葉。

この男と話をして、いつも感じるのはこの男の強さだ。弱さすらも認めることで強さに変えてしまう力だ。
もしもっと若い頃――自分の進むべき道について悩み、足掻いていた時分――にこの男と出会っていたら、
自分はそれを茶化していたかもしれない。
愚直で、分かり易くて、何のひねりもない。だけれど、自分にはないもの。ないからこそ、真っ直ぐに受け止め
るには戸惑ったであろうもの。



「どうした?」

突然の声に、ふと我に帰る。
気がつけば、振り返った土田が不思議そうに自分を見ていた。

『は……いや何、ここにいると、ノスタルジックな気分になると思ってな』

金子は自嘲気味に笑みを零した。

「ノスタルジック?何だ、それは」
『おい、さほど難しい単語じゃないぞ』
「昔から外国語の類は苦手だ」
『しかし、外国語といってもたかが英語だぞ?』
「英語も外国語だろう」
『それはそうだが、仮にも中学1年からだなぁ…………ぷっ……』

どうでもいいようなことを言い合っている自分達がひどく子供のように見えてきて、金子は思わず噴き出した。

「何を笑う」

土田が僅かに眉間に皺を寄せる。そのどこか拗ねたような表情を見たら、さらに笑ってしまった。
土田は訝しげに俺をじろりと見たが、一旦笑いだしたら、止まらなくなった。
まるで学生のような――優等生の仮面を被っていた学生の時分には、実際しなかったような下らぬ、だけどど
こか無邪気で好ましい――他愛もないやり取りに面白みを感じてしまった自分を思うと、可笑しかった。





『御馳走さま』
「ああ」
『いや、何だかすっかり食べ過ぎてしまったな』
「そうか」


直観ともいうべきか、薄っすらとこの男の様子がいつもと違うことに気づいたのは、用意された蕎麦に味噌汁、
お新香に卵焼きまで、粗方平らげた頃だった。浅い付き合いではあるが、だてにここ数週間この男の店に通っ
ていた訳ではない。
表情のあまり変わらない、況して元々口数の少ない男ではあるが、冷静に観察してみると、いつもよりも口が
重い。言葉はきちんと返すのだが、それは自分に気を遣ってのことだろう。声のトーンもどこか低い。


『……ところで、土田。お前、酒は強いんだろう?』
「?……まあ、弱くはない」
『まあまあ、謙遜するな。店に日本酒がいくつか置いてあっただろう?買うから、1本飲まないか?』
「別に買わずとも、少し位構わん」
『いや、俺の方が飲みたいから言っているんだ。余計な気を俺に遣わせるな』

そう言って、ポケットから財布を取り出し、一万円札を2枚抜き取ってちゃぶ台の上に出した。

「……こんなに必要ない」
『店で一番良い酒、それも一升瓶でというのだから、安くはないだろう』
「……」
『何だ、足りないか?ならば――』

財布からもう1枚出そうとすると、土田は手でそれを制した。

「そうではない。……その、何か、お前が食事のことで気を遣っているのなら、こんなことは……」

その顔を見上げれば、土田は何か言い辛そうに言葉を濁す。

――そうか、俺がさりげなく夕食の代価も支払おうとしていると思ったのか。

おまけに中古品を揃えた質素な家の佇まいを先程知ったばかりだ。夕食のことだけならば、あそこまで言い辛
そうにはならないだろう。きっと、自分がこの男の懐具合に気を遣ったと解釈したのだ。
全く、余計なところに気がつく。

『おい。言っておくが、俺はそんなつもりはないぞ。一番旨い酒を飲みたいだけだ。それとも、この俺に安い酒で
も持ってくるつもりだったのか?大体、一人前も二人前も変わらないから食べていけと誘ったのは自分じゃない
か。それなのに、どうして俺がそんなところで気を遣わなければならないんだ?』

そう一気に畳み掛けてやったら、土田は一言も口を挿めずにただ眼を見開いた。そうして、観念したのか、それ
とも諦めたのか、ふっと目元を緩ませた。

「――分かった。だが、酔っ払っても俺は知らんぞ」
『言ったな?そんなことを言って、お前が先に酔ってみろ。今後、事あるごとにいちいち今夜の有り様について
触れてやるからな』

ふっと笑うような、微かに和んだ表情を一瞬見せた土田は、立ち上がると階下の店舗に繋がる階段から下り
て行った。



――はて。俺は何をそんなにムキになっているのやら。
土田の背中が見えなくなるのを見送りながら、ふと金子は思った。

パーティーでも既にシャンパンを2〜3杯は飲んでいる。少々飲み足りないという気持ちもなくはないが、といっ
てそこまで飲みたい気持ちが強い訳ではない。食事を御馳走になった後、ぶらりと散歩がてら帰っていれば、
寝るには丁度いい頃合いだっただろう。それを、何故引き延ばしているのか。
あの男の様子が少々違うからといって、自分には何の関係もないことではないか。別にあの男の悩み相談を
する気などないし、あの男だって何も言わないだろう。それなのに、自分は一体何をしたいのか。


何もない。何かがあった訳じゃない。ただ――金子は、自分の心に弁明を試みた。

ただ――そう、もう少し居た方がいいんじゃないかと思ったんだ。
何となく。
何となく、感じてしまったのだ。

強いと思っていたあの男の背中に、
思い過ごしかもしれないが、一抹の寂しさを。





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