EPISODE 6 :


それは、不思議な光景だった。
見渡す限り白い、砂浜のような地面が広がり、空もまた、雲が覆い尽くしているかのように白い。
だが、明るかった。それは眩しくて思わず目を閉じてしまいたくなるほどに。
そんな中、俺は手を翳して精一杯光を遮りながら、一面の白い景色の中にある一点を探す。
それがあるはずだと、自分は分かっていた。
やがて、黒い点のようなものが浮かび上がり、そして陽炎のようにゆらりと揺れながら大きくなる。
それは、ついには人間の後姿へと形を変えた。
にもかかわらず、自分よりも遥かに大きい。同じ人間とは思えない程だが、そんなことは気にならなかった。
俺は、その背中に近づこうと足を前に踏み出す。
砂を踏みしめる、確かな感触――だが、何故かいくら歩いてもその背中に近づくことができない。
まるで、自分の歩みと共にその背中も遠ざかっているようだ。いや、もしかしたらそれは背中に見えて、本当に
陽炎でしかないのか。
だが、自分は確かにそれをよく知る者の背中だと知っているのだ。それなのに、何故自分から遠ざかるのか。
それは、俺がここに居ると分かっていて、敢えて自分から姿を現わしたのではないのか?
俺は、声を上げようとした。
きっと、その黒い背中は俺の存在に未だ気づいていないだけなのだ。だから、声を掛ければ、きっとそれは振り
返る。振り返り、歩みを止めるはずだ。
俺は、口を開いた。そうして、声を上げようとした。
そう、その者の名を呼ぶのだ。自分が確かに知っているはずの、名前を――


『っ……』

唇が何かを紡ぎ出そうと震え、自身の指がびくんと動く感触に、金子は目を覚ました。
そこは、眩いばかりに白い光の中――ではなく、質素な、それでいて何処か懐かしさを感じる和室の光景が
仄暗く浮かび上がっていた。

ここは何処で、一体自分は何をしていたのだったか――ぼんやりとした意識の中で、急速に色を失っていく陽
炎の幻とは逆に、二度三度と瞬きした金子は、急激に現実の世界を取り戻して、ハッとした。

『あっ……!』

急いで上半身を起こすと、ばさりと何かが自分から剥がれ落ちる。視線を落とすと、それは少し重みのある掛
け布団だった。



――そう、飲んでいたのだ、あの男の持ってきた日本酒を。
悪くない酒だった。上品な和食にも、いや、もしかしたら僅かなつまみにすらも和合しそうにない、硬派といって
は語弊があるかもしれないが、辛口の、男性的な印象を残す酒。
男同士黙して語らず飲むに相応しい、飾り気のない、思わず背筋が伸びてしまうようなぴりっとした味だった。

その酒のせいでということはないだろうが、実際のところ土田との会話はさほど弾まなかった。
序盤こそそれなりに気を遣って話題を提供してみたものの、元より相手は口下手だ。話はすぐに途絶える。
段々、口数も減っていった。

「こんな酒も、たまにはいい」

だが、そんな中で土田はぽつんと呟いた。その言葉に、妙に納得してしまった。
確かに自分は余計な気を回してはいたが、といって静かなその状況を退屈に感じていた訳ではない。それは、
言葉からいって土田も同様だろう。夕食の時には感じた、この男の纏うどこか暗い影も今はもう感じない。な
らば、確かにそうだ。別に無理して話す必要などない。
別に気など遣う必要ないんじゃないか――そう気づいたら、肩の力が抜けた気がした。

それからは、ただ何を話すでもなく2人して杯を重ねた。
ガラス窓をほんの少し開けると、月は控えめな白い光を放って深い闇夜の空に佇んでいた。辺りはしんと静ま
りかえっていて、聞こえるのは外からの葉擦れの音と、互いの息遣いだけだ。
どこか現実味のない、日々の生活から隔離された場所と、静寂した時間の流れが五感を心地よくくすぐった。
こんな時間の過ごし方は新鮮な気がして、気分の良さも手伝って、つい、杯を重ねた――





豆電球が一つだけ点いた室内は、しんとしていた。
漸く目がその暗さに慣れて、辺りを見回すと、すぐ傍にある焦げ茶色のちゃぶ台の上は、既に酒もコップも片
づけられている。
丁度自分とはちゃぶ台を挟んだ向こう側に――土田は居た。
金子がそっと立ち上がってその様子を窺うと、男は座布団に頭を乗せ、真っ直ぐ仰向けになって寝ていた。一
見すると酔っ払って眠り込んでしまったように見えるが、それは違う。
何故なら、自分は酒やコップを片付けた覚えはないし、自分の上に掛かっていた布団も、そしてこの男の上に
掛けられた毛布のことも全く知らないからだ。
ならば、それをしたのはここで爆睡している土田をおいて他にはいない。

――少し、興が過ぎたようだな……。
金子は未だ少しばかり瞼の辺りが重く、体がふわふわしているような感覚を自覚していた。

アルコールには、決して弱い方ではなかった。普段から夕食前に食前酒を飲むことも少なくないし、大量に飲
むことはまずないが、ある程度飲んだからといって醜態を晒したり、記憶が途切れたことは一度もない。その辺
の良識はよく弁えているつもりだった。実際、今だって飲んでいた時の記憶はきちんとあるのだ。
だが――知り合いとはいえ、初めて上がった家で寝込んでしまうとは、明らかにいつもより飲み過ぎだ。

――全く俺としたことが、これもある種の醜態だな。よほど夕方のパーティーで精神的に疲れていたのか……
いや、疲れというより、退屈だったんだが。


金子はちゃぶ台の向こう側にそっと忍び寄ると、改めて男を見下ろした。
土田は全く目覚める気配もなく、規則正しい平穏な寝息をたてている。金子は、濃茶色のタンスの上にある
置き時計に視線を移した。時刻は夜中の3時を回っていた。
これが都会であれば駅の方まで歩く内にタクシーを捕まえられるだろう。それがなくとも、街中はライトやらネオ
ンやらで比較的明るいから、1時間位なら歩いて帰ることも不可能じゃない。
だが、ここではそうもいかなかった。到底帰れるような時間ではないし、場所でもない。

――仕方ない。ここは大人しく寝直すしかないな。
金子は、静かに土田の傍から後ずさりした。


未だ春先のこと、夜は気温もかなり下がる。おまけに山間部の古い木造住宅ともなれば、冷たい夜風が隙
間から入り込んでいた。

――そういえば……あの男は、毛布一枚で寒くないんだろうか。

自分が元居たところまで戻ってきた金子は、ふと自分の掛けていた布団の厚みに気づいて、土田の方に振り
向いた。
自分に厚い布団を掛けてくれたのは、あの男の気遣いだろう。有難いとは思う。だが、それに気づいた以上、
自分だけ暖かい布団を使うのは何となく躊躇われる。予定外とはいえ、客人の自分に配慮するのは、まあ分
かる。それに、自分よりも体格が良く、普段も鍛えているのであろう土田が薄でのものを選ぶのは、ある意味
当然ではあるだろう。だから、さほど気にすることでもないのかもしれない。

既にあの男は寝入っているのだし、自分が気付かないフリをして寝直すことは十分に可能だ。
だが――金子はしばし……いや、実際のところはほんの僅かに考えて、結論を出した。



――ああ、やっぱり2枚掛けの方が暖かいな。いや、それよりも。朝起きてこの現状を見たら、驚くだろうか?
普通は驚くだろう。そうであれば、普段殆ど表情を変えないこの仏頂面が驚愕する顔を、是非見たいところだ
な。

金子は、布団と毛布の十分暖かい2枚掛けのことよりもよほど楽しいこの現状に、思わず1人笑みを漏らした。

”この現状”とは、自分が土田のすぐ隣に横になり、毛布と布団の2枚を2人して掛けている状態である。
確かに知り合ったばかりなのだし、第一大の男2人が1つの布団に寝るのは何やらむさ苦しいし、そもそもちょっ
と窮屈だし――という常識的判断は土田もしてのことだろうが、問題は、1枚ずつ分け合ったところで、寒いと
いう問題は解決しないということだ。アルコールが体内に残る数時間はいいとしても、明け方は確実に肌寒い
だろう。そう考えれば、こうした方がよほど現実的だ。

……まあ、目が覚めた時の土田の反応を見たいという悪戯心が俄かに生まれたということもあるのだが。


――どちらにしろ、別に男同士、何の問題がある訳でもないのだし。

金子はちらりと土田の顔を見た。
気をつけの姿勢のまま倒れたのかと思う位きれいに真っ直ぐ仰向けに寝ている土田――その横で自分も仰
向けになると、布団のサイズからして少々窮屈なので、土田の方を向いて横になってみた。

薄暗い中で見る土田の顔は、端正だ。
切れ長の目も、高い鼻も、きりっと締まった口も、派手さはないが、時代劇の侍を思わせるような和のタイプ
の美形と言っていいだろう。
端正なのは顔ばかりじゃない。恐らくは剣道でだろう、見事なまでに鍛え上げられたその体つきは、服の上から
でも十分分かる。

――これで土田が女……いや、それはいくらなんでも想像力に限界があるから、よりマシな選択肢として、も
し自分が女であれば――この状況は据え膳食わぬは何とやら、だな。

金子は、素直にそう思った。
美しいものは基本的に好みだ。今目の前に居る男は、優美さや華麗さは全くないが、筋の1本通った清々し
さというか、素朴かつ純粋な、生き方の美しさのようなものを感じる。
自分がこの蕎麦屋に通うようになった理由は、何も蕎麦の美味さだけでもこの男のキャラクターの新鮮さだけ
でもなく、凛とした男らしい美しさをその横顔に感じたからかもしれない。

――……て、何を真面目にこの男のことを論じているんだ、俺は。

金子はふと我に帰ると、ごそごそと布団の中で向きを変えて、土田に背中を向けた。
目を閉じると、やがて背後からぽかぽかと温かさが伝わってくる。それは土田の体から発散されている熱なのだ
と思い当って、金子は微笑ましいような、それでいて少し笑ってしまいそうなくすぐったさを感じた。
だけれど、傍らに人が居るということが安心感を与えているのだろうか――金子は、不思議な位気分良く、瞬
く間に再び眠りに落ちていった。





遠くで、心地よい高音の音色が聞こえる。
鶯だ。空気の澄んだ山間部において、その鳴き声は殊更によく通り、まるで祝福するように爽やかに闇夜の終
わりを告げていた……

パチ

鶯を目覚まし時計としていたかのように、土田は唐突に瞼を開けた。
実際のところ、土田は目覚ましなどなくても朝の6時半前後には自然と目が覚める。幼少時からそのように躾
けられたせいだろう。6時半になど起きる必要がない時でも、その習慣が変わることはなかった。

今朝もいつもと変わらず、すっきり目が覚めた。
昨晩は深夜まで日本酒を飲んでいたが、元より酔う体質ではない。とはいえ、量はかなり飲んだ。だが、これ
またいつものことであるが、その後速やかに深い眠りに入ったから、今朝は日本酒の影響など影も形もなかっ
た。
それに、早朝は好きだ。特に朝方の冷える季節は、少しばかり肌寒い位の方が意識も、体も、目覚めると同
時にしゃきっとする。だから、自分は寒いのは嫌いでは……

――ん……?

そこまで考えて、ふと、土田は違和感を感じた。
自分の思いとは裏腹に、今自分は妙に温かい。再び眠りの淵に誘われていきそうな位だ。
土田はそのことの理由を確かめようと、未だ仰向けに寝たまま視線だけを下の方にずらしていき、胸の辺りで
自然と目が留まる。
薄での毛布、そして布団ときれいに掛けられた状態は、ある意味見慣れた光景だ。だがしかし、何かが違う
……そんなことを考えながら何気なく横を向いて――そうして、一瞬、頭が白くなった。

――……待て。何だ、この状態は。

自分のすぐ横には、自分とは別の者の、形良い後頭部があった。よく見れば、自分の右肩と触れ合う位の
近い位置に、自分よりも細見の背中も横たわっている。いや、分かっている。今この家に居る者といえば、自
分の他には昨晩深酒して眠り込んでしまった金子しかいない。だから、目を覚ましたばかりとはいえこれが金
子なのだとはすぐに理解できた。
問題は、何故ここに、狭苦しい一組の布団の中に一緒に寝ているのかということだ。自分達は、昨晩ちゃぶ
台を挟んだ両端にそれぞれ横たわっていなかったか。

耳を澄ませば聞こえてくるのは、僅かばかりの金子の静かな寝息。

――……もしかして、深夜寒くなって、毛布と共にこちらに移動してきたのだろうか。

思いつく理由はそれ位だ。
土田はそっと上半身を起こすと、少しばかり出ている金子の肩に触れた。布団から出ていたせいだろう。2枚
掛けて眠っているのに、少し冷えている。自分は元々体温も高めだし体も丈夫だから、少々布団が薄くても
はみ出て寝ていても、冷えて風邪をひくようなことはない。
だが、金子は自分と違って色も白いし、細い。どことなく繊細な印象がある。聞いたことがないから分からない
が、雰囲気として、少々体が弱いと言われたらそれを信じてしまうだろう。
やはり、昨晩は寒かったに違いない。余分に何枚も布団や毛布があれば掛けてやることもできたが、生憎家
には自分用に布団が1組あるだけだから、毛布と布団を1枚ずつ分けるしかなかった。

――せめて、毛布位もう1枚余分に用意しておくべきだろうか……。
夜中に寒さで目を覚ました金子を想像すると、申し訳ないと思い、ふとそんなことを考える。

土田は、あまり外気が入らぬようそろそろと布団から出ると、布団を少し上の方に、さらに自分が抜け出た分
だけ余計に金子の方へとずらした。

未だ早朝だ。それに、昨晩はそれなりに酒を飲んだ。金子はもう暫く眠っているだろう。

土田は豆電球を消すと、和室を出て、そっと襖を閉めた。
店は10時からだが、自分の用意以外にも店の開店準備もある。朝食も作らなければいけない。やるべきこと
は色々あった。
土田は階段を降りると、下の洗面台で顔を洗った。


昨晩は剣道に1人打ち込みながらも、どこか気が散漫になっていた。何の原因も思いつかないが、どこか気分
が沈んでいたことだけは確かだ。
そんな時、不意に金子が訪れた。金子の来訪は自分にとって予想外だったし、金子もパーティの帰りだと言っ
ていたから、ここに来ることを元々決めていた訳ではなかっただろう。
夕食を用意してやることも、その後あの男と酒を酌み交わすことも嫌ではなかった。だが、そうでなくとも言葉の
足らぬ自分のこと。少しばかり暗い気持ちになっていたから、平素に増して沈黙ばかりの時間が多くて、金子
は少々退屈に感じたのではないか。
それでも酒がすすむ内、いつの間にか自分の気分は落ち着いていた。何を話した訳でもないのに、何かしらひっ
かかっていたものが消えていた。その頃には、互いに殆ど話をしなくなっていたが、白い肌をほんの少し紅色に
染めた金子もまた、いつの間にか無言で、どこか楽しそうに飲んでいた。
それが、嬉しかった。

昨晩、金子が訪ねてくれて良かったと思う。
この地に来てから、地元の人々はとても良くしてくれるが、友人と呼べるような者はいなかった。気持ちがどこか
沈んだ時に、共に酒を酌み交わしてくれるような相手はいなかった。自分は、1人でここでやり直すことを自ら
望んでこの地に来た。
だが、自分だって人間だ。1人きりで全てが解決する訳がない。

そうして、何の縁か、金子のような男に出会った。単なる客として終わるはずのこの縁は、金子の言葉をきっか
けとして、友人となった。最初は友人という言葉だけが独り歩きしているように思えたが、少しずつ、何かが変
わってきていると分かる。
何より、自分の気持ちが。でなければ、特に何を話した訳でもないのに、共に酒を酌み交わしただけで心の
平穏を取り戻したことの理由がつかない。



朝食は、いつもよりも一品余分に作ろうか――土田は、金子が起きだしてくる前に済ませなけれ
ばならないことを順番に考えつつも、どこかのんびりと朝食の献立に思いを巡らせていた。





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