EPISODE 7 :


『満開だな……』

金子は道すがら、白ともピンクともつかない淡い色彩で咲き乱れる桜の木々を見ては、自然と薄い笑みが零
れた。都心部ならば恐らく桜は既にピークを過ぎ、大分散り始めているだろうが、この辺りの山間部は4月中
旬に差し掛かった今がちょうど見頃だ。
別荘に滞在してひと月半余り。来た当初は未だ肌寒かったが、最近は日に日に暖かさを実感できる。昨日
一昨日とあまり天気が良くなかっただけに、今日は一層暖かく、そして外の空気が心地よく感じられた。

別荘から、この地で出会った蕎麦屋の店主――土田憲実の店までは片道1時間弱の距離だった。
今では、執筆の合間の気分転換と軽い散歩がてら、あの男の店に蕎麦を食べに行くのがすっかり習慣となっ
ている。
別に、あの店に特別な何かがある訳ではない。確かにあの男の打つ蕎麦はなかなかだが、それだけでは頻繁
に通う理由にはならないだろう。この地にひと月以上滞在する内、美味しいフレンチの店を1軒商店街に見つ
けたが、その店ですら未だ2度しか訪れていないのだから。
それに比べて、あの蕎麦屋にはもう10回は行っていた。いや、もっとかもしれない。
確かに取材と称して土田からは、郷里の鹿児島の話や剣道の話などを聞いたりしているが、それとて絶対的
な必然性があってのことではない。
あの蕎麦屋に、主人の土田という男に格別な執着を持っているのかと問われれば、断言できる。そうではな
い、と。だが、何となく――作家の端くれとして、この程度の表現しかできないのは少々歯痒いが、実際それ
以外にぴったりくる言葉が見つからないのだ――本当に何となく、足を運んでしまっている。

『まあ……それも、もう長くはないだろうが……』

金子は、周囲には自然以外に何者もいない気安さからか、再び1人呟いた。

今週末には、こちらに来てから急きょ依頼された、この別荘地のPR文章の提出期限がくる。文章はもう完成
していたから、あとは出してしまうだけだ。それが終われば、東京に戻ることになるだろう。
特に厳密に期間を決めていた訳ではなかったが、元々この別荘には2〜3週間ほどの滞在予定だった。最長
でも1ヶ月位のつもりだった。途中まで進めていた連載ものを1本と単発の短編を1本書き終える間と考えてい
たし、それに――雛子もNYでのショーを終え、近々帰国する。

服飾デザインの仕事をしている雛子は、自身も日本を離れたり、仕事に追われる時期があるだけに、自分の
自由気ままな行動には寛大だ。だからこそ、お互い様とは言えこうしていられるのだから、彼女には感謝してい
た。

とは言え、そろそろ東京に戻った方が良いだろうとは考えていた。
雛子は何も言わずとも、こちらもあちらも両親が少々気難しいだけに、気を遣う必要がある。そうでなくとも、
自分が作家などという職業を選んだことに、好い顔をしていないのだから――



ガラ……

「らっしゃい」

木枠の引き戸を引くと、店内から相変わらずの低い声が聞こえた。

『やあ、相変わらず、忙しそうだな』

店内に足を踏み入れるなりそう言ってやると、男は眉を顰めた。

『そう睨むな。敢えて客の入りの少ない時間帯を選んで来てるんだ。満席だったりしたら、却って困る』
「時間を選んでいたのは知っている。で、今日はどうする」
『そうだな……ではざるそばを一枚もらおうか』

店の主人――土田は、無言で頷くと、すぐに奥へ姿を消した。

金子は、いつも陣取るカウンターの端の席の隣席に脱いだジャケットを置くと、腰を下ろした。そうして、最近は
その席の前辺りに常に置かれているようになった濃灰色の薩摩焼の灰皿を手前に引き寄せる。

店内に客はいなかった。
元々季節はずれの別荘地なだけに客が少ない上、今は夕方の4時前だ。夕食には早く、昼食には遅い。
そうは言っても、同じ時間帯で客が入っている時はあったから、必ずしも誰も居ないとは言いきれないのだが。

土田が、お茶とおしぼりを手に再び姿を現した。

『道すがら、花見をしてきた』
「今が一番良い頃だな」
『ああ。今日は天気も良いから、尚更だ。店の窓から見えれば、一杯いきたいところだったが』

この店の窓は丁度裏手の山側に面しており、竹林となっている。それはそれで風情があるが、桜の木は少し
道を戻ったところに数本生えていたから、ここからは見えなかった。

「……。――閉店後で良ければ、一杯やるか?」

何気なく言っただけの言葉に、少し間を空けて土田は少々ずれた答えを出した。

『?桜の枝でも折ってくる気か?』
「いや。剣道場の方ならば、折って来ずともよく見える」

剣道場の建物はこの店から10数メートルのところに隣接している。
元々は店舗兼自宅のこちらが倉庫として使われていた離れで、剣道場の建物が本宅だったらしいと前に土
田が言っていたが、なるほど、確かに本宅の方に合わせて桜の木を植えたのならば、道理だ。

『そうか。だが……どうする。これから蕎麦を食べるとして、閉店までは未だ数時間はあるだろう』
「無理にとは言わん。だが、時間があれば2階で寛いでいても構わんし、もちろん一度戻っても良かろう」

金子は皮製のシガレットケースをテーブルに置くと、背中を伸ばすように背もたれに寄りかかった。

『うーん……どうするかな』

時間はあった。
既に近々の締切であったPR文は書き終えていたし、次の連載の締切は2週間後。急ぎのものではない。
花見、酒――旧家から眺める夕刻の桜は、風情があるだろう。

金子は、ちらりと土田の顔を見上げた。

土田は相変わらずの仏頂面だった。いや、この男のこれは普段通りの表情なのだから、別に取り立ててどうと
いう感情の変化もないのだろう。
あと一声……背中を押すような何か一言がこの男の口から出れば、素直に頷けるのだが――そんな思いが
頭の片隅を過った時――

「帰りまでに決めればいい」

土田の口から聞こえた言葉は、少々呆気ないものだった。口調が平坦だから尚更だ。勿論、これが当然の
言葉だろう。そうは思うが、何だか少しばかり落胆した。

一方の土田は、こちらのそんな思いに気づくこともなく僅かに目を細めたかと思うと、遠く、窓の方を見つめた。

「……昨晩、剣道場で1人竹刀を振っている最中、ふと手を休めて窓の外を眺めたのだが……きれいだった。
あの辺りに古い外灯が立っているから、よく見えた」

そう呟くと、こちらを向いた。その表情は先程よりもずっと柔和になっている。

「その時、お前のことを思い出した。この桜を見ながら、お前と飲むのも良いと思った。――だが、今日でなく
とも、あと数日は桜も待ってくれるだろう」

何故か、土田から視線を外せなかった。その言葉が、まるで特別なもののように聞こえた。
その手は卑怯だろう――思わずそう言いそうになった。それ位土田の今の表情と言葉は優しくて、こちらが赤
面してしまいそうだった。
そんなに深い、重要な内容ではないと思うのに、先程期待した、背中を強く押すひと声を聞いた気がした。
それなのに、肝心の自分の口から答えが滑り出てこない。

数日――自分がここに滞在しているのもあと数日だ。桜が散り始める頃には、自分はもうここにはいない。

その事実をすぐに思い出したというのに。

土田はやがて、背を向け、そうして再び暖簾の奥へと入って行く。
金子は、そんな男の背中を見送った後、深い色艶を放つ灰皿へと視線を落とした。

そもそも、花見に誘われた時に躊躇ったのは何故なのか。数時間も待つのは面倒だったか。花見など、いつ
でもできると思ったのか。承諾するのに、あの男の言葉の後押しを待ってしまった理由は何だろう。

何となく、あの男の意思を確かめてみたかったのだ。本当にいいのか、と。

夕刻の剣道場、そして店の閉店後のひと時――それらはどれも、土田という男だけのものだと思っていた。そ
れは、そう簡単に入り込んではいけない空間のように感じるのだ。
確かに、先週初めて土田の自宅へと足を踏み入れた。それは、どことなく人との関わりから距離を置いている
かのように思えた土田の心の縁へと、一歩進んだような気がした。だが、あれは偶然の産物だ。いつもは距離
を置いている土田の気持ちの扉が、あの時は偶然にもほんの僅かに開いていたのだ。
だが、数日後に再び店を訪れた時には、その扉は閉まっていた。結局、また元の通りの距離に戻っていたのだ。
今回は、あの時とは少し違う。
土田は自分のために、敢えて少しばかりスペースを空けてくれたのではないか。土田は自身のテリトリーに、自
分がほんの少し足を踏み入れることを許した――そんな気がするのだ。

勿論、そこへ足を踏み入れるかどうかは自分次第だ。だが、自分は今、その答えを求められたような気がした。

きっとそこに足を踏み入れれば、土田との距離は縮まるだろう。あの男のことももう少し分かるかもしれないし、
土田もまた、自分のことを少し理解するかもしれない。
だが現在の、”ただ手を挙げるだけでは届くにはほんの少し足りない”程の距離感もまた、心地悪くはないのだ。
互いのことを殆ど知らない、干渉もしない、詮索もしない。そんな関係もまた、悪くはない。

だからこそ、自分は躊躇ったのだろうか。

慣れた距離感を一方的に崩されそうになって、臆したのだろうか。進むべきか進まざるべきか分からなくて、そ
れで答えを出すことができなかったのだろうか。
いっそ土田の言葉に従ってしまえば楽だと思って、それであの男のさらなる言葉を待ったのか――


「待たせた」

ふと気づけば、土田はもうカウンター越しにすぐ傍まで来ていた。

「どうかしたか」

蒸篭と蕎麦つゆを乗せたお盆を目の前に置いた土田が、不思議そうな顔をする。
おかしな表情でもしていただろうか。考えごとをしていたから、妙に真面目臭った顔でもしていたのかもしれない。

『いや――何も』

そう答えてから、改めて土田の顔を見れば、どうということはない。いつもの見慣れた仏頂面がそこにある。
何の緊張感も、距離感を一方的に縮める決意を表明した男の顔にも見えない。

俺はバカか。考えすぎだ――金子は小さく頭を横に振った。

そんなことまで、この男が考えていたはずがないじゃないか。第一、たかが花見だ。そこに魑魅魍魎とした世界
が待っている訳じゃなし。夜桜を肴に酒を酌み交わしたからといって、誰もがやるようなありふれた日常の一コ
マに過ぎない。


『ああ、そういえば、土田。先程の件だがな、やっぱり付き合ってやることにした』
「花見か」
『ああ。俺に見せたいのだろう?ならば、早速今夜にでも飲むことにしよう。お前の好意に甘えて2階でのんび
り寛いで待っているから、心おきなく仕事に励むといい』

そう言うと、土田が何故か少し笑った気がした。

『何だ?』
「いや、何もない。それよりも、蕎麦が新鮮なうちに食べろ」
『客に命令口調は止めろ。言われなくとも、すぐに食べるさ』

やれやれと思いながら割りばしを割り、蕎麦に手をつけながらもちらりと視線を上の方にずらせば、やはり土田
はこちらを見下ろしていた。何やら、優しく見守るような穏やかさを目元の辺りに見せながら。









――今にして思えば、この時必要以上にあれこれと考えたのは、何かを予感してのことだったのかもしれない。
だが、この時の自分にはそれが思いすごしだと思えた。自分の考え過ごしだろう、と。
そうではなかった。気のせいなどではなかったのだ。
もちろん、この日の決断を後悔してはいない。だが、それでもこの時、もしもう一方の道を選んでいたら、恐らく
今見える景色は全く違ったものになっていたに違いない――





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