EPISODE 8 :


――とは言ったものの……暇だな。

金子は6畳ばかりの和室の畳の上に座ると、所在なさげに部屋の中を見回した。これといって興味を引くよう
な家具も、絵画や装飾品などもない。極めて殺風景な日本の和室がここにある。ある意味、昭和期の典型
的な居間を完璧なまでに模したモデルルームのようだ。

ざる蕎麦を平らげた後もしばらく店に居座っていた金子だったが、5時を過ぎてから客が入り始めた。だから、土
田に2階の出入り口のドアのカギを借りると、外を裏手の方へぐるりと回って、外階段から上がった。
勿論、店内にも直接2階へ上がる階段はある。だがその階段は厨房の中だ。今まで客としてカウンターに座っ
ていた男が、店の奥にいきなり入っていくのは如何なものか。他の客の手前もある。
そう思ったから、それは避けた。

……と、それはいいのだが。
暇だ。
そもそも時間を潰す羽目になるとは予測していなかったから、文庫本の1冊すら持ってきていない。あるのは財
布、鍵、そして手帳だけだ。
それでも土田という男が本を読むのであれば、室内のどこかに転がっているという期待もできたが、生憎土田
は読書家ではないようだ。前回、初めて2階に足を踏み入れた時には、そういう観点からこの部屋を眺めてい
なかったから分からなかったが、なるほど。和室のタンスの傍に設置された地味で小さな本棚にすら、分厚い
電話帳やら地図帳位しか見えない辺りで充分にその察しはついた。

だが、何もないよりはマシだ――そう思った金子は、仕方なしにその小さな棚から地図帳を取り出した。
A4判の、学生が使うようなものよりは少し厚めの、詳細な道路情報を載せた日本地図だった。

それをちゃぶ台の上に乗せ、ページを開く。
詳細ではあるが、どこにでもあるこれといって特徴のない地図帳だ。特に注目すべきべきものもない。強いてあ
るとすれば、地図のところどころに赤いペンで丸がされていること位だ。それが意味するところは不明だが、何か
の目印位だろうと思い、特に気にも留めなかった。
それでも、地図帳から創作意欲が湧くような何がしかの片鱗はないだろうかと、暫くはパラパラとページをめくっ
ていたが、それも長くは持たなかった。
やがて金子は地図帳を閉じると、ちゃぶ台の下に足を延ばして、そのまま畳の上に寝転がる。

畳の上に寝転ぶなど、金子にとってはあまり機会のないことだった。
東京のマンションには洋間しかないし、別荘は客間用の和室があるだけで殆ど使っていない。実家の方には
和室がいくつかあったが、そこは寝転べるような場所ではなかった。いや、和室が家具でいっぱいだったとか、狭
かったとかそういうことではなく、躾の厳しい家庭だったから、出来なかったのだ。

だが、こうしてみるとどうだ。なかなか気持ちがいい。

何より、伸び伸びして、何となく解放された気分になる。


この別荘に来てからも総じて気分は良かったが、ここは他人の家だというのに、何だか落ち着く。



それはこの、懐かしさを感じさせる和室の風情と、そして畳のせいだろうか……







ガンッ……バサ

『っ……?』

金子は、ハッとした。
衝撃と、少しばかりの痛みと、そして顔に降りかかった何ものかのために。

とりあえず顔の上に降りかかったものはすぐに横へと滑り落ちた。開かれた視界に一瞬ぼんやりして、それから
すぐに覚醒する。どうやら、いつの間にか眠りこんでいたらしい。
続いて衝撃と、僅かに感じた痛みの原因を探って視線を彷徨わせる。
原因は、すぐ横に在った。箪笥だ。どうやら、眠っていてこれにぶつかったらしい。最初に寝転んだ時にはそんな
にすぐ近くにはなかったから、寝返りでも打ったのだろうか。それにしては、2回位同じ方向に寝返りを打たなけ
ればここまでこれないのだが。
普段寝相は悪い方ではない。寝返り位は打つが、起きた時には殆ど位置は変わってない。ベッドから落ちた
とか、いつの間にか180度身体が回転してたとか、そんなことは小学生の時分にすらなかったのだ。それが一体、
どういう風の吹きまわし、いや奇行だろうか。
――といって、他には誰もいないのだから、やはり自分自身のしたことと考えざるを得ないが。

『はぁ……全く……何時だ……?』

金子はゆっくりと起き上がりながら、未だ少しだるい頭を僅かに横に振った。
腕時計に視線を落とすと、7時10分を過ぎている。2階に上がったのは5時半過ぎだったから、何だかんだ言っ
て1時間は眠っていたようだ。店の閉店時間は8時だと言っていたから、暇つぶしには丁度良かった。

そんなことを考えていて、ふと床に置いていた右手の指先に何かが触れた。
指先に視線を向けてみると、1冊の厚めの大学ノートがあった。

――そうか、顔に落ちてきたのはこれだったか。

金子はそのノートを手に取ると、上を見上げる。そういえば、箪笥の上には何か置いてあるようだ。
箪笥にぶつかり、その衝撃でノートが顔に落ちてきた。つまり、このノートは箪笥の上に置いてあったのだろう。
それがぶつかって落ちてくるということは、何かの横に簡単に立て掛けてあっただけなのかもしれない。

金子はそのノートを手に立ち上がろうとして、ふと気づいた。

「ドイツ語T&U」
表紙にはそう書いてある。

土田の大学時代のノートだろうか――ドイツ語という言葉に引かれて、金子は何の気なしにノートを開いてみ
た。それは、非常に美しいという言葉が相応しいノートだった。ノート自体がではない。その中身がだ。そこには
ドイツ語の文章と、その説明および訳などが極めて几帳面に整理され、端正な文字で書きこまれている。
自分もノートの取り方が美しいとは大学時代よく言われたものだが、これはそれに勝るとも劣らない。

金子は、大学時代の外国語ではドイツ語の単位を取っていた。卒業後もヨーロッパへはよく行っているし、特
に今はオーストリアの旅行記の連載を雑誌に寄稿している関係もあって、ドイツ語の理解に不自由はしない。
だからこそ分かる。このノートに書かれている文章も、その訳や説明も、その体裁と共に完璧だ。このノートを
書いた人物は、さぞやドイツ語の成績は優秀であったに違いない。

だが――金子は前回この家を訪ねた時の会話を思い出した。


「ノスタルジック?何だ、それは」
『おい、さほど難しい単語じゃないぞ』
「昔から外国語の類は苦手だ」
『しかし、外国語といってもたかが英語だぞ?』
「英語も外国語だろう」


つまり、土田は外国語は苦手なのだ。本人がそう言っているのだから間違いない。
まして、土田は中学校1年生から習っている英語にすら難渋していた。当然ドイツ語のレベルなど想像がつく。

ならば、このノートは土田のものではない。

金子はノートをパラパラとめくっていった。感嘆すべき美しいノートの取り方以外には、何もない。だが――裏
表紙まで来て、金子の目は留まった。

日向要

『ひゅうが、もしくは、ひなた、だろうか……。かなめ……このノートの持ち主の名前のようだな……』


他人のノートを持っているということは、別に不思議なことではないかもしれない。それが現役の大学生ならば。
だが、卒業して何年も経っているというのにいつまでも持っているものだろうか。しかも、他人のノートを。それと
も、借りっぱなしで返しそびれたが、捨てるには忍びなくて取っておいてあるのだろうか。もしくは、もらったものだ
ろうか。仮にそうだとしても、普通ならば押入れの奥にでもしまいこんでおきそうなものだ。
それをわざわざ居間の、すぐ手にすることが出来るような場所に置いておくのは何故だろう。

まさか、ドイツ語を勉強しているとか?

否、それはなさそうだ。外国語の類は苦手だと悪びれもせずに断言する男が今更勉強するなど、ピンとこない。

ふむ……。



「何をしている」

唐突に聞こえた低音の、しかしどこか荒い口調に心臓が僅かに跳ねた。

『ああ、つち――』

顔を上げて、ドキッとした。
居間の入口に立つ男――土田の顔が、酷く強張っていたからだ。
土田は普段から強面だ。だが、今はそれだけじゃない。

怒っているのか?――内心その表情に驚きながらも、そう直感する。
金子は急いでノートを閉じた。

『あ、これはだな、その、別に勝手に見る気はなかったんだ。さっきまでうたた寝をしていたんだが、どうやら寝て
いる最中にこの箪笥にぶつかったみたいでな、そうしたら、このノートが顔の上に落ちてきて、それで――』

本当のことだというのに、何だか言い訳がましく聞こえそうだ。だが、嘘は言っていない。

金子が少々早いペースで答え、そうして様子を見るように顔を上げると、土田は微かな動揺を見せて目を伏
せた。
不愉快な気持ちと、そして躊躇いを綯い交ぜにしたような、今までに見せたことのないような表情――まるで、
辛い過去を自分がこじ開けてしまったような、そんな状況に金子は少々面食らっていた。

何なのだ。
このノートが、何だと言うのか。
そんなに見られたくなかったのか?
何故、そんな顔をする?

『……いや、言い訳は見苦しいな。すまない。意図的ではなかったとはいえ、勝手に中を見たことは、素直に
謝る』
「……いや。もういい」

土田は、怒ってしまったことを悔いたのか、僅かに眉を落として小さく息を吐くとこちらを見た。その顔には、もう
怒りや辛さといった思いは見えなくなっていた。

「――客が途切れたから、上がってきた。8時までは店を閉める訳にいかんが、花見の用意をしようと思う」
『そうか。では何か手伝おう』

土田がごく平凡な言葉を続けたから、少し安堵した。
一度流れた気まずい空気を消そうと、土田が努めていつも通りに振る舞おうとしているのが分かる。だから金
子も立ち上がった。金子にとっても、こんな空気のまま時を過ごすのは、ご免だった。

だが、台所に向かう土田の背中を見ながら、先ほど見せた土田の横顔を思い出していた。
何故かあの時の表情が、いつまでも消えてくれなかった。





結局、あの後客は1組程来たが早々に帰った為、剣道場へ向かったのは8時20分頃だった。
日本酒に焼酎、そして酒の肴にお新香やするめいか、刺身を少々、それに土田が夕食に用意していた煮物
も持ち寄って、花見は即席のものにしてはそれなりの体裁を整えていた。
辺りはもうすっかり暗い。外灯がおざなり程度の明るさしか発揮していないものだから、尚更だった。

静かすぎるとも言える静寂の中を、徒歩1分程度の距離にある剣道場へと歩いて行く。
剣道場の扉を開く時、少しばかり強い春の風が周辺の木々をざわめかせて行った。


「寒いか」
『いや、寒くない。念のためジャケットも着ているしな。それに、飲めばむしろ暑くなりそうだ』
「そうか」

剣道場の中に入った土田が明かりをつける。といっても、外の桜が見づらくては意味がないから、その数は半
分以下で、周囲は見えるが文字を読むには不適当な程の薄明かりである。そうして、雨戸のように閉め切っ
てあった窓の木戸を次々と開けていった。

『これは……』

金子は、次々と窓が開かれて露わになって行くその景色に、思わず息を飲んだ。

元々豪農の本宅だっただけあって、窓は道場にありがちな、明り取りとして上方にある、格子がはめられた小
さめのものではない。
それは、応接間に見られるような長方形の大ガラスが側面の壁に面して複数枚はめられた大きな窓で、全て
を開けると、まるで映画の大型スクリーンのようだった。


「昨晩よりも、花が開いているようだ」

思わず吸い寄せられるように窓の方に近づいた時、土田が横で、独り言のように呟く。

『凄いな……想像以上だ……』

それは、本当に想像を遥かに超えた光景だった。
薄暗い外灯が満開に咲いた桜の木々に妖しくも儚げな陰影をつけ、大きな幻影を見ているようだった。
桜の木々は程良い距離を保って、窓の大部分を占めている。まるで、桃源郷にでも足を踏み入れたみたい
だ。
それは確かに昼間に蕎麦屋に向かう途中で見た、明るい日差しの下で微笑ましくも咲き誇っていた薄桃色
の桜の木々だ。だが、その同じ桜の木々が今は昼間の爽やかな、明るい風情から衣替えして、妖しく人の心
を捉え、時折春の風の力を借りては微かに枝を揺らして、自分達を己の腕の中へといざなっているようにも見
える。


美しく、それでいて儚く、どこか切ない。
桜は、満開を迎えた次の瞬間から少しずつ花びらを散らしていく。
花の命は短い、だからこそ美しい――とはよく言ったものだ。
確かに花は毎年咲くだろう。だが、それは去年のそれとは違う。花もまた、人の命と同様、一度きりだ。
今こうして見る花も、今だけのもの。そうして、この瞬間もまた、二度とは帰らないものなのだ。





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