EPISODE 9 :


この前も感じたことだが――この男と飲む酒は静かだ。
いや、酒の席だけでなく、要するにこの土田という男は普段から万事無口だから、ということで全て理由はつく
のだが。

――だが、楽だ。

金子は、静かな、そして穏やかな時間を空気で感じながら、ゆっくりと一口、冷酒を喉へと流した。


酒を飲む機会は適当にあった。
編集者との会合、大学の知人との付き合い、そして今は回数が減ったとはいえ、未だ時折呼ばれる父親の
事業絡みの接待……もちろん、全てに出席することなどないが、それでもそこそこの回数はある。
接待以外はある程度気心も知れている訳だし、勿論、付き合いとしては今傍らにいる土田よりも長い訳だ
が。それでも、彼らと飲む時は、こんなに静かで、そうして穏やかではない。
静かというのは、単純に口数が少ないということだけでなく、気持ちの問題が大きい。そして――この環境。


金子は、桜を眺めては、微かに笑った。

『――高嶺の花とは、よく言ったものだな。花は、そこに在るだけでいい。何もせずとも、ただ存在するだけで、
充分に魅力的だ』
「……そうだな」


時折交わされる会話は短い。
冷酒が喉を通る音まで聞こえるのではないかと思えるほどに静かなこの環境は、一歩間違えれば息詰まり、
苦痛すら感じるのであろうが、この傍らにいる男が相手だと感じない。
全く何の緊張感もない訳でもないのだが、不思議とその一方で落ち着けてしまうのだ。


『……いや、本当に……あれは高嶺の花だ……』

どれ位の時間が経ったのか。
窓の外に視線を向けたままそう呟くと、傍らにいる男が微かに動く。特に視線を向けることなく、床に置いてお
いた冷酒の入ったグラスに手を伸ばしたところで、小さく名前を呼ばれた。


「金子。……先ほどは、悪かった」


何について謝ったのかは、すぐに分かった。
ここに来る前の、土田の部屋であったほんの小さな出来事だ。
意味ありげに置かれた、ドイツ語の書かれた大学ノート。そして、それを見られたことに対する、土田の動揺。

別に、気にしていない――そう答えようとして、止めた。

土田が再びあの出来事のことを持ち出すということは、きっと、何か話すつもりなのだと思えた。
花見を肴に飲み始めて、大分時間が経つ。この男が酒に強いことは前回の件で分かっていたが、それでも、
全くのしらふとは違うだろう。前回の失敗を踏まえ、自分は密かに飲酒のペースを落としていたから、余計に分
かる。土田は、大分飲んでいる。さすがの重い口も、やや緩んだのかもしれない。

だから、ただ小さく頷いた。


「……大したことではなかった。……だが、声を荒げた」
『……ああ』

土田が、視線を落とした。その横顔は、躊躇いを感じているようにも見える。

自身の中で、葛藤しているのだろうか。
誰かに話したい気持ちと、話したくない気持ち――そんな2つの相反する思いが、交差しているのだろうか。

だが、金子は黙っていた。自分が何か話せば、土田は話すのを止めてしまうような気がしたからだ。

それから、土田は少しの間黙っていた。身動き1つせず、床の辺りを見つめていた。


「……あれは、大学時代の、知人の物だ。……俺の物では、ないのだ」

分かっている、日向要という者のノートだろう――そう言いたいところを、無言で通す。
あれだけ酒を飲んでもまだこれ程までに口が重い辺り、土田という男はそれ位口下手なのか。それとも、よほ
どこの話を胸の奥深いところにしまいこんでいたのか。

『――借り物なのか』
「ああ。……だが、借りていた、と言った方が近い。……恐らく、返す機会は当分、ない」
『当分ない……てことは、いずれ、返す機会もあるのだろう』
「……分からん」

どういう意味だろうか――金子は、数少ないヒントから答えを探そうと頭をフル回転させる。

返す機会が当分ないということは、今は返せない。つまり、縁遠い状態にあるということだ。だが全くの不可能
ではないのならば、少なくとも相手が亡くなっている、ということではないのだろう。
問題は、何故今会えない状態にあるかということだ。それが土田の、もしくは相手の選択によるものなのか、そ
れとも、そもそも物理的に不可能なのか――


『分からない……とは、その言葉通りなのか』

金子は、土田の話そうという意思を極力妨げないよう、慎重に言葉を選ぶ。

「……ああ。もう、2度と機会は巡って来ないかもしれん」
『……でも、巡ってくるかもしれないとも言えるんじゃないのか』
「……」
『いつか、可能になる日が来るかもしれないだろう』

土田と日向要の関係が何かは分からない。だが、土田の後ろ向きな態度が気になった。
確かに、この男が人を簡単に寄せ付けようとしない壁を作っていることは、知り合って間もない頃から気づいて
いた。それは普段見せる真っ直ぐな気性とは相容れないものだとは思っていた。
だが、今のような後ろ向きな態度はそれよりもさらに違和感を感じる。この男の言動には一本筋の通ったもの
を感じていただけに、そのような態度が納得いかなかった。

だから、つい土田の背中を叩くようなことを言ってしまう。

『自分から、会いにいけばいい』
「……できるならば、とうにそうしている」
『不可能だというのか。ノートを返すために会うことすら、できないと?』
「だからっ…………何処にいるのか、分からん」

土田の、絞り出されたような言葉に、一瞬たじろく。それが苦し紛れのように聞こえて、尚更戸惑いを感じずに
はいられなかった。

――行方不明だとでも言うのか。まさか、生死も分からないと?

土田の日向要という者に対するこだわりは、恐らくはノートがどうこうではない。
大学時代に借りたノートなど、だから何だというのか。本来ならば、返しそびれたなと一笑に付して終わるよう
な些細な問題のはずだ。それなのに、土田は敢えて居間に、すぐに手の届く場所にあのノートを置いていた。
そして、それだけのことでこのように悩んでいるのだ。土田の態度は、明らかにノートの貸し借りに対するものを
超えている。そうであれば、ノートなど所詮は口実に過ぎないと結論せざるを得ない。土田の日向要自身に
対するこだわりこそがこの問題の核なのであって、ノートの貸し借りなどは問題の転嫁のようにしか思えない。
それなのに――それほどまでに拘っているであろう相手なのに、土田の言葉からは前向きなところは微塵も感
じられない。口から出るのは諦めるための言葉ばかりだ。

そのことが、何故か気持ちをざわつかせる。何故か、苛々する。

『分からないなら、探せばいいじゃないか』
「探したが、分からなかった」
『分からないって、そんなにあっさり諦めるのか』
「簡単に諦めた訳ではない」
『ならば……っ……』

ならば
何故もう二度と会う機会などないようなことを言うのか。
もし本当にそうなのであれば、何故その言葉とは裏腹に、割り切れない思いを抱えたままでいるのか。
忘れることもできず、といって身動きも取れないなど、らしくない。
この男との付き合いなど短く、その間にどれだけのことを知ったのかと問われればごく限られているのかもしれ
ないが、それでもこの男には不似合いだと感じてしまう。
というよりも――そうあって欲しくないという、自身の願望なのだろうか。

初めて店を訪ねた時の、無愛想で、不器用で、だけれど真っ直ぐで、涼やかで、そして、どこか懐かしいこの
男の印象は今でも忘れていない。その印象は今でも変わっていない。この男の人の好さや頑固さ、その反面
懐の深さを感じさせる、さりげない優しさも印象にプラスされたが、そのような一つ一つの長短所以上に、1人
の人間として、男として、この男の一本筋の通った考え方や生き方を自分は認めていた。
朴訥であり不器用だとも思うが、一方で清々しく、そして潔くもあって、そこに人間的な魅力のようなものを感
じていた。

だからこそ、この男の、このような割り切れない言動を認めたくないと思ってしまう自分がいる。
そんな姿を見たくないと思ってしまう。

自分の勝手なイメージをこの男に押しつけているだけではないのかと、心のどこかで思わなくもない。だが、そう
であったとしても、やはり腑に落ちない。


「――変な話をして、悪かった。もう、過ぎたことだ。……昔の話だ」

この場の空気を読んだのだろうか。土田が呟いた。
微かに口角を上げて笑みのようなものを作ったかと思うと、不意に窓の向こうの桜へと視線を移す。
一瞬見せた、静かな表情――だが、遠くを見つめたその横顔は、どこか違っていた。辛いのか、やりきれない
のか、それとも単純に感情の問題として、寂しいのか。

その表情が、まるで自分のことのように胸をちくちくさせる。

嘘だ――金子は心の中で思った。
過ぎたことだなどとは思っていないと、割り切れている訳ではないのだとは、その表情から明らかではないか。
どうして嘘をつくのか。話を続けるのが面倒だったのか。
これ以上、俺に、いや、誰にも触れられたくなかったのか。この抱えた思いは、誰にも分からない――そう思っ
ているのか。

確かにそんな思いは誰かと、況して何の関係もない第三者と共有するようなものではない。
自分だって、そんな思いを共有したいと思っている訳ではないのだ。

だが、
結局壁の向こうに追いやられてしまったような虚しさを感じる。
ここまで来て急に梯子を外されたような、1つ目の扉を開けたというのに、すぐにまた閉ざされた扉の前に立たさ
れたような気がして、寂しい……

――て……あれ?

金子は、ふと我に返った。
傍らの男のことばかり見ていたが、考えてみれば、何故自分はこんなにも気にしているのか。
1人複雑な思いを巡らし、考え込み、挙句に苛々した自身の気持ちを土田にぶつけて、一体何がしたいのか。
大体、土田が悩み苦しみ、身動きの取れない状態にいたとして、それを友人として励まし、時にアドバイスを
与えることはあっても、土田の態度に不満を感じて怒るなどおかしい。
期待した言葉が土田からなかったからと言って、どうして苛々しなければならないのか。関係ないではないか。
そんなに親しい間柄ではないじゃないか。

この男のことなど、大して知らないというのに。

「――金子……」

不意に名前を呼ばれて、傍らの男に視線を向けると、土田がいつの間にか空になっていた冷酒グラスに酒を
注いでいた。

『あぁ……』

どのように反応すべきか思い浮かばなくて、生返事とともに注がれる様を何となく見つめる。
床に置いたまま手にしていたグラスに酒が注がれ、指先が少しばかり冷えてきた。

「ありがとう」

予期せぬ言葉に驚いた。
話を聞き出そうとして、そうしてその内容に勝手に不満を持って黙り込んだ自分に、この男は今何を言ったの
か。何かの聞き違いではないかと思いながら顔を上げると、酒を注ぎ終えたばかりの土田の顔が想像以上に
近くにあって、何故か動揺する自分がいた。

土田も、唐突に顔を上げた自分にやや驚いたのか、やや困惑したように、どこか照れたように小さく口角を上
げる。

『一体、何を言い出す……』

土田は手にしていた冷酒の瓶を、氷を入れたたらいに戻しがてら、さりげなく間に距離をおく。
顔が離れたことに少し安堵して改めて土田の顔を見た。土田の顔からは、動揺した様子は見てとれない。

「礼を言うべきだと思った。――話を、自分のことのように聞いてくれた」


そんなんじゃない。


「良い友人ができて、嬉しく思う」


良い友人――?

土田の温かい言葉。
温かい気持ち。
土田は、自分を良い友人だと思ってくれている。
それは、言われて嬉しいはずの言葉だ。


だが――それとは裏腹に金子の意識は、何故かグラスを持つ冷えた指先の辺りを彷徨っていた。





to the EPISODE 10



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.

inserted by FC2 system