EPISODE 20 :


完璧に晴れた空と、太陽と、そして摩天楼――この世のもので、美しいと思えるのはほんのひと握りの存在
に過ぎず、それでさえ、それはひと時の間でしかない。
だが、それを永遠に見続けていたからといって、本能のどの欲求も満たさない。結局、時が経てば腹は空き、
眠くなり、そして人肌が欲しくなる。
本能を満たすものは、所詮己の外側にはない。外側から受けるそれは、一時の刺激でしかない。
物を食べたところで、満腹と感じなければ永遠に腹は空く。己の内なる欲求なくしては、睡眠を貪ることもなく、
誰かの内に己の精を放ちたくもならない。

世界とは、所詮己の内に広がるもの。己の欲が消えれば、己の世界もまた、消える。
現実の世など、所詮は泡沫の夢――消えれば消えたとて、己が消滅したとて、どれだけの意味があろう。





「わりぃ。待たせたな……と、どうした。さっきからずっと外ばっか眺めて。飛行機の搭乗まで、まだ時間あるだろ?」

ちょっと買いたいものがあるから、と広いロビーを突っ切って何処かに行っていたマサオミが、小さな紙袋を手に
して戻ってくる。

『ああ――』

特に興味を持った訳ではないが、自然紙袋に視線を落とすと、マサオミがその封をすぐに切る。

「あぁ、英露辞典。俺も少し位ロシア語が理解できなきゃな。お前にいつも頼ってばかりじゃいられねえし」

屈託なく笑うマサオミは、そう言って少々厚みのある濃紺色の表紙をつけた本を見せた。
俺は1人、タイラノフの家に残されるからな――そんな不満の代わりの、言葉。

『――クッ……ならば、ロシア語で愛を語れる位になって欲しいものだな』
「あー……この前お前が言ったようなヤツのことか?」
『この前?』
「忘れたのかよ。雨の日に――」
『ああ……”Вы моим, и я твоим”か……』
「そう……つうか、恥ずかしげもなく人前で言うな」

マサオミは、まるでその言葉自体をどこかに飛ばしてしまいたいとでもいうように、人の胸の高さに差し出した手
で空を掃う。

『クッ……意味を覚えたか。まあ、ロシア語の分かる者など、ここにはあまりいないだろうが……いずれにしろ、
”お前は俺のもの、そして俺はお前のもの”……それの、何が恥――』

一瞬唖然とした表情を浮かべたマサオミは、次には手にしていた英露辞典を放り出して人の口を塞いだ。

「バ、バカッ……敢えて英訳すんなっ」

騒がしい空港のロビーでのこと。人の話し声などより、辞典を下に落としたり、人の口を塞いだりしているお前
の方が、余程注目を集めはしないのか――そう思ったが、面倒なので口にしなかった。




ツネマサが捕まってから5日後――父の葬儀後アメリカに再び渡ってから、未だ3週間と経っていない。まさか、
こんなに短期間でロシアに戻ることになろうとは想像していなかった。否、現在のタイラノフの状況を、一族の
誰が想像しただろう?

元々、シゲモリ兄上の死の前後から、国とタイラノフの関係は変わり始めていた。力を持ちすぎたタイラノフを、
国が敬遠し始めていたことは事実だ。だがそれでも、タイラノフは国にとって貴重な財源でもあった。公に支払
う税金以外にも、タイラノフは豊富な資金を随分と国の為にも使ってきた。財力だけではない。国は都合の悪
いことをタイラノフを使って排除し、またそのネットワークを利用して巧みに耳障りな噂を潰してきた。
だからこそ、シゲモリ兄上の死から2年――例え長男の死をきっかけに父が頑迷になろうとも、国はタイラノフと
の関係を保っていた。我らは互いに利益を与え、そして利用し合うという意味で、補完関係にあった。
その原動力であり、副大統領、と影で言われる程の力を持った父も、今はいない。
だが、タイラノフ財閥は未だ健在だ。国にとっても、我々は未だ利用価値があったはずだ。タイラノフ財閥が持
つ、世界に広がるネットワークや情報、知識、そして国が最も必要としていた資源開発の為の高度な技術と
その購買力――それらは国にとっても貴重なはずだ。
だからこそ、少なくとも国はまず取引に出るだろうと予測していた。例えタイラノフが、今や忌々しくも疎ましい、
といって切っても切れぬ関係にある巨大財閥であったとしても、まずは陰に陽にと圧力をかけ、駆け引きをし、
タイラノフに揺さぶりをかけてくるだろうと思っていた。
最終的に財閥自体を乗っ取るにしても、まずはそこから始めるだろうと。

だが、予想は外れた。
国は、代わりに利用できそうな新興財閥を見つけると、すぐさまタイラノフを潰しにかかった。
確かに、それは手っ取り早い方法だ。豊富な資源の発掘で力を急速に付け始めた国からすれば、最早駆け
引きをする時間すら、無駄に思えたのだろう。
それに――タイラノフは、これまでの様々な裏取引を通して国の負の面を知りすぎている。互いが信頼関係
にある内はそれでも問題はなかったのだろうが、それが損なわれた今、タイラノフ財閥はいつ裏切るか分からぬ
危険な存在でしかない。
煙たくも侮れないと恐れられた父も亡くなった。今こそ、旧ソ連時代からの忌々しい遺産を、タイラノフに全て
押し付けて、キレイさっぱり清算する絶好の機会――そう思われても、仕方がない。

――それが、連中の真の目的だったのかもしれないな……。

トモモリは冷静に考える。

だとすれば、連中の容赦ないやり方も理解できる。最初から妥協も駆け引きもする気がないのなら、脅しが
早急であったことも、叔父を逮捕し、ツネマサを拉致するのにひと月とかけなかったことも納得がいく。

――ならば、自ずとこちらにも、出方というものがあるがな……。

そう決心しても、心はごく自然に現状を受け止めていた。
元々あまり物事に容易く動じたり、感情を表に出したりする方ではないが、加えて2年間の軍人としての生活
が、それをさらに失わせていた。それに今回のことは、最悪の事態として想定していた。
勿論ここまで急速に、しかも最も最悪な形の予測が当ろうとは思っていなかったが、それでも心の一片で覚
悟はしていたから、今更驚く程のことでもない。

むしろ――血塗られた幕引きもまた、美しい。

トモモリは負け惜しみでも何でもなく、ごく自然にそう感じていた。

同じ幕引きなら、鮮やかな真紅を散らすのもまた一興――興に思う部分が少々歪んでいるとは自覚があっ
たが、事実そう思うのだから仕方がない。

――相手が俺に罪の全てを被せたいのなら、俺もそれを利用するまでのこと。今更悪行を重ねたところで、
大した違いはない。それに、悪逆非道の名を全て自分が引き受ければ、またタイラノフの活路もあるかもしれ
ない。

実のところ、財閥の未来など興味はない。家族に対する情は最低限感じないものではなかったが、タイラノフ
財閥の繁栄を考えたことはあまりなかった。だが、自身の行動の結果が意図的でなくとも一族にプラスとなる
ならば、何もそれを敢えて排除する必要はない。

――……尤も、それはもう俺の知るところではないだろうが。

トモモリは閉じていた目蓋を薄く開いた。


成すべきことをした後は――この男に任せればいい。

そう思うと、不思議と気持ちは和らいだ。
そうして、傍らのシートに寛いで炭酸水など飲んでいる男を見やる。

「?何笑ってんだよ」

その視線にすぐに気づいたのか、マサオミはこちらを向き、そして不思議そうな顔をした。

『いや……』

この男が、母上が、そしてタイラノフの女子供を始めなるべく多くの者達をアメリカに亡命させるべく、できるだけ
のことはすると言っている。勿論、そこに大きな期待などしていないし、それが叶わなかったからと言って恨むつ
もりもない。

だが、マサオミのその言葉に素直に一族の未来を委ねたいと思う。これで、心置きなく向かえるのだから。
血に塗れるであろう現実に――





車から国内線の飛行機に替えてNYまで戻った俺達は、翌朝NYからモスクワまで2時間30分、それから国内
線に乗り換えてサンクトペテルブルグへと向かった。
空港に着き、無事に入国審査も済ませてトモモリ――と、恐らくはボディガードやら運転手やらご一行――の
待つロビーに出てくる。
……と思っていたのに、待っていたのはトモモリと、その隣りに地味に佇むティーンエイジャーの女の子――では
なく、女の子に見間違えそうな美少年とも言える男が1人きりだった。そのことだけでも、未だ僅かしか経ってい
ないにもかかわらず、以前のタイラノフとは違うのだということを思い知った気がした。

だが、そんなことを気にしている場合ではない。
マサオミは特に表情を変えることなく、荷物を手にトモモリ達に近づいていく。すると、トモモリが首を僅かに動か
すのに合わせて少年もこちらを向いた。そうして、かつてタイラノフの本宅で散々マサオミが出遭ったリアクション
――驚きに目を見開き、その顔をじっと見上げていた。

こいつも、単なる運転手とかじゃなくタイラノフ一族かもしれねえな――そんなことを思いながらマサオミは2人
の傍までくると、すぐにその男に手を差し出した。

「俺、マサオミ・アリカワ。トモモリの……まあ、アメリカでの元居候みたいなもんだ。宜しくな。それと、言っとくけ
ど、俺は”シゲモリ兄上”の隠し子じゃねえから」
「……そ……そうか。ご丁寧な挨拶、痛み入る」

少年は一瞬言葉に詰まり、その後妙な緊張感と礼儀正しさで小さく言葉を発した。

「いや、丁寧っつうか、そこはせめて冗談にならねえとか、何かリアクションしてもらわねえと困るんだけど……ま
あ、いいや」

そう言って、遠慮がちに握ってきた少年の手をしっかり握り返す。すると、相手はまるで顔色でも窺うようにトモ
モリを見た。好きにしろとでもいうように、トモモリが億劫そうに横を向いたので、男は漸く言葉を続けた。

「自己紹介が遅れてすまない、マサオミ殿。私の名は、Tosya……いや、貴方たちの例に倣うならば、アツモリ
と言う。――アレク=ツネマサの末弟だ」





『英語を話す男は、必要だと思ってな……サハリンに居たところを、呼んでおいた』

黒塗りのリムジンに3人で乗り込むと、初老の運転手にチップをはずんだトモモリは、運転席と後部座席の間
にあるパーテーションのスイッチを押し、完全にそれが閉じられると、ゆったりとした調子で口を開いた。

「4日前に突然連絡を受けて、私も驚いた。だが……事態が事態だ。一門の一大事に、私だけが遠い地で
軍務研修に励んでいる訳にはいかない」

アツモリはそう言って憂いを帯びた瞳を伏せる。その悲壮で少々気弱そうな表情とは裏腹に、彼の決意の固
さを表わすかのように、その言葉はきっぱりとしていた。

「……軍務研修っていうと、あんたも軍人なのか?」
「ああ……私は、海軍学校に通っている」
『女のような外見だが……クッ……任務に就くと、人が変わると評判だ。安心しろ、マサオミ……SPのように
使うといい』
「――……兄がこのようなことになってしまい、弟の私としても申し訳なく思っている。微力ではあるが、精一
杯マサオミ殿をお支えするつもりだ」
「……ツネマサのことは、こっちこそ悪かったと思ってる。だけど、支えるってんなら、俺のことよりトモモリを――」
『マサオミ――タイラノフの本宅を、安全な後方支援部隊のように考えてもらっては、困るな……。言っておく
が、これまでとは状況が違う。既に内部に、裏切り者が何人も居るかもしれないんだぜ……?』

トモモリはチラリと窓を見やっては、皮肉げに口角を上げた。

「何言って――」
「まさか、貴方がそのようなことを言うのか」

マサオミは先を越されて、隣りに座るアツモリを見た。

『アツモリ、全寮制の学校から海軍学校へ、そのまま進学したお前は……現状を、よく分かっていないようだ
な。もう、お前の知るタイラノフとは違う。まあ……終焉とは、こういうものなのだろうな……』

トモモリは相変わらずのんびりとした口調で静かに言うと、奇妙な恍惚感さえ漂わせて微笑んだ。
その言葉に、アツモリは、唇を噛み締めるようにして黙ってしまった。

終焉――その幕を引くのはトモモリだと、トモモリ自身が分かっている。
いっそさっぱりと、潔すぎる位の引き際で、タイラノフの歴史を自らの手で閉じようとしている。


マサオミは、無言で窓の外を見た。

NYよりもずっと淡い、サンクトペテルブルクの水色の空、そしてそれを乱す灰色の雲――完璧と言えるような
晴れとは程遠い。だが、だからこそ人はより青く、澄んだ空を望む。この状態でいいなどと、ここが上限などとは
思わない。そう簡単に、もうこの辺りでいいなどと諦めたりはしないのだ――


マサオミの心に、もう迷いはなかった。

自分には自分の成すべき事がある――そう決心していた。






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