EPISODE 22 :


「マサオミ殿――」

黒のナイトの駒を手にしたまま、チェスボードではなく窓の外に向けられたその横顔は、しかし呼びかけに何の
反応も示さなかった。

落書きをそのままプリントしたようなTシャツにジーンズ、そしてロシアでも名前の知られた有名スポーツメーカー
のスニーカーを履き、椅子に座って少しばかり行儀悪く足を組んだその姿は、TVや映画などでよく見かける、
アメリカ人の典型のように見える。
だが、その顔は――タイラノフの者ならば、例外なくその感情を揺り動かして余りある者の面影を多分に受け
継いでいた。


「マサオミ殿……」

その背中に近づいて、なるべくあまり驚かさないようにそっとその肩に手をおけば、彼は背中を僅かに跳ねさせ、
そうしてこちらを見上げた。

「あ、ああ、なんだ、アツモリか。びっくりしたぜ」

目を丸くして見上げたのは一瞬――その顔は、すぐに気さくな笑みを浮かべる。例えそれが、数日前まで見
せていたものとはどこか違うのだと、本人が気づいていないとしても。

「また、チェスをされているのですか」
「まあな。チェスなんて、今までしたことなかったからさ。このままじゃ、トモモリにいいようにやられっぱなしだろ。だ
から、次に対戦する時までに腕上げとこうと思ってな」

そういって、彼は屈託なく笑った。



私は知らない。ウラジミール様がこのように笑う姿を。
それなのに、大凡ウラジミール様らしくない笑顔をするマサオミ殿が、このタイラノフには必要なのだろうと思えて
しまう。ウラジミール様とは違うのに、彼はその役目を担う運命だったのではと錯覚してしまうのは、その見かけ
のせいだけなのだろうか?



「――で、何だ?何か用なんだろ?」

マサオミ殿は駒をボードの上に置くと、こちらを改めて向いた。

「ええ。あ、いや……」

どのように言えばよいだろうか。掛けなければいけないと思う言葉も、訊いてよいのならば訊きたいと思うことも
ある。だが――どこまで自分はマサオミ殿に訊いてよいのだろうか。
ルーリック様が特別に信頼しているのであろう、彼に。


「――トモモリのことか?……だったら、悪いな。俺も、一昨日皆んなに説明したこと以上のことは知らないん
だ。ホントに」

そう言って首を横に振る彼の表情が、笑みを浮かべながらも少し曇った気がしたのは、気のせいだろうか。

「あ、ああ……いえ。現在のタイラノフを取り巻く状況を探る為、密かに軍部の方々と接触されるのでしたね」
「ああ。探るだけだから、きっとそんなに長くはかからないって言ってたぜ。まあ、そう簡単にやられるタマじゃない
からな、あいつは」

そう言って笑うのならば――貴方は何故、ルーリック様のいなくなられた日から、どこか様子が変わられたのか。
何故、心ここに在らずといった、半ば放心したような表情で遠くを見つめていたのか。



ルーリック様は2日前の早朝、皆が気づいた時には既に姿がなかった。
前日の夕刻、マサオミ殿と共に市内のアパートから戻られた時には、特に変わった様子はなかった。翌日から
外出なさるとは、一言も仰らなかった。今後の対策については一族で継続して話し合いが行われている。そし
て、それは未だ結論が出ていない。そんな時だというのに、何故お1人で、誰にも何も告げずに出掛けてしま
われたのか。

マサオミ殿――貴方は、何か知っているのではないですか。


「――と、ちょっと無神経だったな。わりぃ。笑ってる場合じゃないよな」
「あ、いや、私は……」

気がついたら、マサオミ殿に余計な気遣いをさせてしまっていた。

貴方を責めるつもりはないのです。それは、ルーリック様がご承知の上でなさっていることのはず――必要あっ
てのことなのだろうと、察しがつかない訳ではない。

だが……


「――なあ、アツモリ」

マサオミ殿は真っ直ぐな強い瞳をこちらに向けたかと思えば、無言のまま視線を落とす。

「……マサオミ殿……?」

一瞬表に見せた意志を、マサオミ殿はただ代わりに溜息で吐き出した。

「……や、何でもねえよ。それより、お前は全寮制の学校から海軍の学校に進んだって聞いたけど、この本宅
に住んでたことはあったのか?」
「ええ。12歳までは、ここに。……それが何か」
「ああ、いや。てことは、トモモリが未だここに住んでた時、お前もここに居たんだよな」
「はい……私の父は会長とは兄弟の間柄――近しい親族は、正式にはこの本宅と同じ敷地内にある別館
にそれぞれ住むことになっています。その為、私もここで生まれ育った。私が家を出る時、ルーリック様は本宅
から大学に通われていました」
「そうか。――ああ、いや、大した意味はないんだけどな、トモモリってロシアじゃどんなだったのかと思ってさ」


マサオミ殿の言葉に、私は迷った。
確かにルーリック様とは従兄弟であり、幼い頃より機会ある毎に見てきてはいるが、年齢が7歳も離れている
故、遊び相手になど到底成り得なかった。いや、仮に年齢が近かったとしても果たして親しく語り合えたかどう
か――

「……私は、あまりついてゆけなかったのだが……」

そう言いかけて、ふとマサオミ殿の視線に気づくと、彼は私の言葉に目を大きく見開き、そうして次の瞬間に吹
き出した。

「あ、いやっ……何もルーリック様が変わり者であったからとか、そういうことではなく、我らは年齢も離れていた
ゆえ……っ」

あれこれ考えながらも自然とついて出てきた言葉は適切とは言えず、すぐに次の言葉を続けたもののマサオミ
殿は既に腹を抱えて笑っていた。

「あ、あー、は、腹いてぇ……ア、アツモリ……お前の気持ち、よおく分かるぜ」
「い、いや、マサオミ殿、私は決してそのような意味ではなく……っ」

漸く笑いの治まってきたマサオミ殿は、それでも未だ笑いをこらえるように少々顔を歪めている。

「あぁ、あぁ、分かってるって。どっちにしろ、俺は別にトモモリに告げ口なんかしないぜ。第一、あいつは実際変
わり者だろ。今更そう言われても、本人だってきっと何とも思わないんじゃねえか?」

マサオミ殿は全く悪びれない様子で言ってのける。

「す……すまない……」
「?何で謝るんだ?」
「い、いや……」

明らかに自分の失言だ。ルーリック様が少々人とは違う行動をされることを否定はできないが、といって本家
の、しかも今は非常に重要な位置におられる方のことを言うにしては不適切な言葉だった。第一、自分は他
人のことをとやかく言えるような立場にはない。

「なあ、アツモリ。――よく分かんねえけどさ、あんまり気ぃ使うなよ。俺なんて、トモモリにくっついてきた単なる
おまけみたいなもんなんだからさ」
「あ……いや、まさか!貴方はタイラノフ本家に迎えられた正式な賓客だ。決してそのようなことは……!」
「賓客だなんて、大袈裟なこと言うなよ。大体俺は、アメリカでもトモモリのところに転がり込んでた、ただの居
候なんだぜ?もっとはっきり言っちまえば、家出人?いや、ホームレスに近いのか?……ま、何でもいいんだけ
どさ。別に敬語とか気遣いとか、俺には全然必要ねえから、な?」

椅子から立ち上がったマサオミ殿は、屈託のない笑みを浮かべて私の肩を気安くポンと叩く。

――情けないことだ。元気をなくしていたのはマサオミ殿の方なのに。慰めなければならないのは、私の方だっ
たというのに。

マサオミ殿は、テーブルの方に向くと、チェスボードを片付け始める。

「そういや、そろそろお茶の時間だったか?あんまりトモモリのお袋さんを待たせちゃ悪いよな」
「あ、ああ」
「笑えるよな。お前がいない時って、俺は片手にロシア語の辞書持って、お袋さんは逆に英語の辞書持って
喋ることになるだろ?ちゃんと話が咬み合ってるのか、確かめようがないまま会話進めるしかないからさ……お
互い相手をすんげー誤解してたりしてな」

私は一体、何をしにここへ戻ってきたのか。
英語しか話さないマサオミ殿の会話の相手になる為だけに、ロシア語の通訳になる為だけに、私はここへ戻っ
てきた訳ではないはず――


「ま、俺がもう少しロシア語を勉強するしかな――」
「マ、マサオミ殿っ!」
「おっと……」

思わず、マサオミ殿の腕を掴んでいた。

「アツモリ……???」
「私はっ……私は、何の役にも立たないかもしれないが、貴方方の力になりたい。私のような者では兄の代わ
りになれないだろうが、だが、それでも何か出来ることがあれば言って欲しい……!」


タイラノフ一族の者として、ある種の義務は感じていた。ルーリック様や、このマサオミ殿の為という思いもある。
だが――何よりも自分を動かすものは、恐らく長く離れていて、そして今また拘束されて遠くに居る兄への思
慕。かつて常に自分に優しくしてくれた、兄の役に立ちたい。兄の代わりに、私にできる限りのことをしたい。
兄が不在である今――それが兄の気持ちに応えるということではないかと思うのだ。







アツモリの酷く真剣な瞳に、マサオミは戸惑った。
戸惑うという自分の気持ちの理由がすぐには思い浮かばないまま、何故か、その真っ直ぐな強い視線から目
を逸らしたいような気持ちになった。


アツモリの言葉がもし本当であるとして、アツモリが何の役にも立たないというのなら、こうしている自分もまた同
じだ。トモモリ1人に危ない橋を渡らせて、自分はここで一体何をしているのか。
確かにトモモリが居ない間のことは任せられた。いざという時の為に、アメリカに亡命する為の条件や米国大使
館の住所、連絡先は調べた。期待できるかどうかは分からないが、ちょっとした話も通してある。
だけど――そんなことは、やろうと思えば誰にでもできることだ。

自分こそが、何の役にも立てないのかと落ち込み、トモモリを待つしかないという状況に苛ついていた。トモモリ
という存在が自分の傍から消えたことで、自分がここに居ることの意味を失いそうになっていた。自分の無力さ
に腹を立て、半ばいじけたように諦め、そして、ただトモモリの帰りを待とうとしていた自分――

確かにトモモリは言った。
トモモリ自身のことではなく、母上と、家族のことを考えてくれと――それをないがしろにしようとは思わない。ま
るで自分の息子であるかのように可愛がってくれるトモモリのお袋さんやその家族のことを、トモモリの代わりに
守りたいと思う。
でも、俺が一番望んでいたことは、ここでやりたかったことは、トモモリの役に立つことだ。トモモリと共に、戦うこと
だ。例えトモモリと一緒に行動していなくたって、家族を守りながらだって、できることはあるはずだ。

ただ落ち込んで、無為に時間を過ごしている時間なんて、ないはずだ。

――俺は、そんなことすら忘れてしまいそうになっていた。

トモモリの意志を変えることもできず、もしかしたらもう、二度と会えないんじゃないかという想像に怯えながらも、
結局トモモリを送り出してしまった自分に後悔して、挙句、自分は現実から目を逸らしていた。自分は無力だ
という”逃げ道”を、自分自身に対して作っていたのだ。



「アツモリ――サンキュ」
「は……?私は……」
「いや。お前のお陰で、目が覚めた気がするぜ。お前にはお前だけにできることがあるように、俺にだって、例え
どんな状況でもできることはある。やるべきことはある。……そうだよな?」
「マサオミ殿……」

アツモリが、どこかこちらの様子を伺うような素振りを見せながら見上げている。

――皆んな先のことなんて見えずに、どれが正しいかも分からないまま、戦ってんじゃねえか。
マサオミは目の前に居る男を見、そしてここには居ない男達のことを思い浮かべた。

トモモリも、ツネマサも、自分の信念に従って、それぞれの置かれた状況の中で必死に戦っているじゃねえか。
アツモリだって、こうして自身の戦いを決意しているじゃねえか。それを、何で俺はできないなんて思っていたの
か。トモモリの指示以外のことに、目を向けなかったのか。


「――やらなきゃな。動けば、運命は必ず変わる。動けば状況を逆転させることだって、可能になる。つまり、
何もしねえよりやれることは何でもやる方が、遙かにマシってことだ」

そうはっきりと声に出したら、何やら気持ちが晴れた。
急に、居ないはずのトモモリの存在をその横に感じたような気がした。






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