EPISODE 23 :


人の気配を感じて、振り返った。
遥かに見上げたその顔は、しかしその背に負う禍々しいばかりの陽の光りのせいで黒い影を落とすばかりだ。
だが、自分にはすぐに分かった。それが誰なのか――

『兄上』

すぐに立ち上がって、汚れた手を叩く。すると、近づいてきた兄上が笑みを浮かべて自分の頭に手を置いた。

『兄上』
「トモモリ。ここに居たのか」

その大きくて温かい手が頭を優しく撫でる。

「何をしている?」
『いえ……これは』

咄嗟のことで、眼下に見える見苦しいものを土で覆い隠さなかったことを悔やんだ。

「その蝶は……死んでいるのか?」
『もし、そうであれば――』

地面に横たわるそれを、忌々しい思いで見下ろした。

『それはこの蝶が悪いのです。ひらひらと頭の周りを舞って、行く手を邪魔した』
「邪魔をしたから、殺したということか?」

兄上の声色は相変わらず穏やかで優しいままだった。だから、正直に答えた。

『払い除けました。下に落ちたので、2度と邪魔をせぬよう、片羽を千切ってやりました』

兄上の手が、頭上から離れた。
呆れられたのだろうか――そう思って見上げると、兄上は自分の両肩に手を置き、視線を合わせるようにしゃ
がんだ。

「トモモリ」
『はい』
「お前の気持ちは分かる。そういうやり方が、一番良い方法である時もあるだろう。けれど、どのような時も、ま
ずはよく考えなければいけない」
『……何を考えれば良いのですか』
「蝶がお前にしたことと、お前が蝶にしたことは、果たして同じだけの重みがあるかということだ」
『……』

答えに困っていると、兄上は再び頭を優しく撫でた。

「少し、難しい話だ。だが、蝶にとって片羽を折られるということは、お前のその片腕が折られると同じこと……
それだけのことを、蝶がお前にしたのかどうか……次からは考えるようにしてみなさい。自分がされたことと、それ
に対して自分がこれからしようとしていることを、一度だけ立ち止まって、見比べてみなさい」
『はい。分かりました』

そう答えると、兄上が微笑んだ。
例えようもなく心が揺れ動き、何故この兄が自分だけの兄上ではないのかと、憤りすら感じた。

「トモモリ……お前はとても頭がいい。そして、自分の気持ちに正直で、嘘がない。お前には良いところが沢山
ある」
『……兄上が、お優しいのです』

兄上の言葉の意味は分かった。
兄弟とも同級生ともあまり打ち解けず、1人で居ることの多い自分を励まそうとしているのだと、分かっていた。

「そうではないよ、トモモリ。私は、お前の良さを分かっているというだけだ」
『……大人になったら、兄上と共に父上の会社で働くことが出来ますか?』

父上の会社で働きたいのではなかった。
ただ、兄上と共に働きたかった。大学進学と共に家を出てしまい、会うこともままならなくなった兄上の傍に行
くには、それしか方法がないと思っていた。

「もちろんだよ。私も楽しみにしている。急がずとも、私は待っているから……だから、ゆっくりと大人におなり」

兄上の手が、頬に触れた。



未だ年端のいかぬあの時、兄の手を何故自分は掴まなかったのか。
兄上を守る為ならばどんなことでもすると、その為にも急いで大人になるつもりだと、何故言ってしまわなかった
のか。そうしていたら、国と父上が対立し始めた頃、その間に立って苦しみ、孤立する兄上の僅かばかりの慰
めに、なることができただろうか――







『兄上……このトモモリ、あの時の言葉を忘れてはいませんよ』

トモモリは眼下に見えるものを一瞥した。

『自分のされたことと、自分のこれからしようとすることの重みは……果たして同じなのか、違うのか……はて
……どうなのだろうな……?国家ぐるみの犯罪行為をこの背に負わされることと……お前の命が果てること
……天秤にかけたら、どちらが重いのか……』

トモモリは男の隣りに膝をつくと、憐れみとも蔑みとも言える思いで、男の僅かに潤んだ目を見つめた。

『ああ……それでは、少々公平さを欠くな……お前が計画した訳ではないのだから……。――だが、お前は
大佐殿の手先となって、アメリカではツネマサを拘束したのだから……それなりの償いは必要だろう……?』
「っ……うっ……っ……!」

男は、何かを言おうと不自由に拘束された体を僅かに揺らし、テープで塞がれた口からくぐもった嗚咽のような
声を漏らす。だが、トモモリは気にも留めなかった。

『クッ……お前達も、案外間が抜けている。何故、軍の関連施設などに身を隠そうとするのか……俺が、元
軍部の人間だとは、百も承知なのだろう……?それとも……クッ……この俺も随分軽く見られている、という
ことか……尤も、さすがに大佐殿はいないようだが……?』

父の存命中ならば難なく入ってきていた国の上層部や軍部の情報が、今ではかなり入り辛くなっている。だが、
それでも皆無ではない。元々タイラノフ側に付いていた人間の全てが裏切った訳ではない。自分が陸軍退役
後も繋げてきた軍内部での人脈の全てが断ち切られた訳ではない。

かつてのようにVIP扱いで出入りすることなど最早望むべくもないが、軍の関連施設ならば、こっそりセキュリティ
・コードの情報を流してくれる者も未だ居るのだ。


単独で動き始めて10日間――タイラノフの裏の活動で得た人脈を通じて、段々とタイラノフを取り巻く状況
が分かってきた。
当初は、国がかつてタイラノフと共に行ってきた違法行為の清算をすることが、今回の一連の行動の主目的
なのだろうと予測していた。だからこそ、タイラノフ財閥の解体だけでなく、かつての違法行為の情報を全て把
握しているタイラノフ側の人間――つまり自分を始末しておきたいのだろうと思っていた。
だが、それだけではないようだ。いや、それも理由の1つには数えられるのだろうが、真の動機ではない。それよ
りも、タイラノフと、軍部や政府高官の一部、そしてロシアン・マフィアや反体制派などの反乱分子との三つ巴
の癒着が、この国の経済発展を阻害する要因だと判断されたことだ。
それを取り除く為には、国の人間と反乱分子を結び付けているタイラノフを解体しなければならない。そして、
その二者を結ぶキーパーソンは、財閥の裏の活動を統べてきた、自分。

そうと分かれば、国がタイラノフを潰す為に一切の妥協をしないことも、侮れない力を持っていた父の死後、す
ぐに活動を開始したことも理解できる。
過去の清算であれば、我らを脅せばよい。タイラノフ財閥のエネルギー資源部門を、全て国が解体し、国営
化してしまえばいい。それだけでタイラノフは国の本気度を知り、一切の口を噤むだろう。そして、現政府には
その力がある。
だが、タイラノフという存在自体が国の発展を阻害する元凶だというのならば、財閥を全て潰さなければならな
い。汚れた癒着の関係を生む人脈も、全て破壊しなければならない。それは、単に財閥の会社を差し押さ
えれば済む問題ではない。

唯一の疑問といえば、軍部の広範に亘る動きだ。ロシアに来て、軍部の関与の大きさに初めて気づいた。こ
れが何を意味するかは未だ分からない。大勢に関係するのかも……いずれにしろ、分かったこと、それはやは
り想像していた通り、最早タイラノフには選択肢は殆どないということ。
つまり、国との間の妥協点を探り、多少の譲歩も止む無しという方向で話が進められている現在のタイラノフ
の努力など、全くの無駄骨だということだ。


『……クッ……なかなか、容赦がない』

かつては必要とされたタイラノフの活動も、その存在も、最早国の喉元に刺さった有毒の棘でしかない――だ
が、滅び行く側にも我が身を護る権利がある。

まして、その元凶の中心と名指しされたのだ。
これからすることが、例え悪と看做されようとも、自分にはその反撃をする権利がある。それが自身の保身に
はならなくとも、タイラノフの保身に繋がるのならば、尚更だ。

『ならば、いっそ愉しまなければ、な……』

トモモリは、腰から抜き身の細い短剣をするりと抜き出した。
すると、トモモリに拘束された腕を掴まれたまま、逃げることも出来ずに固唾を呑んでじっとしていた男の目が
大きく見開いた。

トモモリは、表情一つ変えずに刃先を男の喉下に付ける。
男はトモモリを見上げたまま、小さく呻いた。

『我が一族に与えられた不条理を考えれば、お前1人の命など……比べるべくもない……だろう……?』

トモモリは、真っ直ぐに男を見下ろしたままそう言うと、艶やかな笑みを浮かべた。







「マサオミ殿……マサオミ殿、ああ。すみません。ここにおられましたか」

アツモリが、急いた様子で地下から1Fに通じる階段の踊り場に現れた。

「ああ、ちょっとな。下のトレーニング・ルーム、借りてたぜ。で、何だ?俺に何か用か?」
「はい。貴方宛に、お電話が……」
「電話?俺に?」

自分がロシアに居ることを知っているのは、NYの空港で電話した父親1人だ。ロシアに着いてからアメリカ大
使館には連絡したが、それも自分の携帯電話を通じてだから、タイラノフの本宅に自分を尋ねてくる者がいる
とは考えられない。

「――相手はブリティッシュ・イングリッシュを話すが……かすかに訛りがある。恐らく、英語に堪能な外国人で
しょう。どうしますか。貴方のことなど知らないと突っぱねることもできるが……」

確かに、突っぱねることはできるだろう。そうでなくとも、今は危うい時期だ。自分1人が下手に動いて、敵に何
らかの付け入る隙など与えては、皆の迷惑になる。

だが、この時期に自分宛ての電話など、何か引っかかる。


「……いや。出るわ、俺」

もしこれが自分の知り合いじゃないなら、あとはそれが敵か味方かはともかく、トモモリに関係する人間だとしか
考えられない。それに、トモモリ自身が別の人間を間に介してコンタクトを取ってきている可能性もある。
いずれにしろ、それは少なくともある程度事情を知った者が、敢て自分を指定して話をしたがっているというこ
とだ。もしかしたら、何か自分にも掴めることがないとも限らない。

「心配すんな。電話に出るだけだ。――部屋で取るから、もういいぜ」

少し不安げな表情をしたアツモリの肩をぽんと叩くと、マサオミは付け加えた。

「何かあれば、すぐ知らせるから」

アツモリが、表情を緩めないまま、それでも少し笑みを作る。

「分かりました……では、私は自室に居るので……」

アツモリが背中を向けて廊下を歩いていく姿を見送った後、マサオミは与えられている自室に入り、ドアを閉め
た。


一体誰なのか。
タイラノフの敵は、恐らく自分の存在を知っているだろう。アメリカではずっとトモモリ達と行動を共にしていたの
だから。だけど、タイラノフの事情をよく知らない自分とコンタクトを取る必然性なんて、あるだろうか。

それとも、まさかトモモリの身に何かあったのか――

電話機を見ると、そこには外線を示す赤いランプが付いている。
急に、胸の辺りが圧迫されるような息苦しさを感じて、マサオミは無理に大きく息を吸い込んだ。

何もない。
あいつに、何かなんて起こるはずない。

そう自分に言い聞かせると、マサオミは手を伸ばして、受話器を外す。

「……はい」

僅かに掠れたが、平静を装って電話に応えた。

すると――そこには、想像もしない人物がいた。

「!お前…………ツネマサ、か?!」






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