EPISODE 27 :


”命を無駄にすんなって、お前誰からも教わらなかったのかよっ?!”

――恐らく、教わらなかった訳ではない。今にしてみれば、そうと取れるような言葉は父母からも、兄からも聞
いていたのかもしれない。ただ、この身に浸み入ることがなかっただけで。

ふと数日前に思い出した、兄上との思い出――あれも命の重さを伝えようとしていたのかもしれない。尤も、
あの頃も、そうしてこれまでもそうとは解釈していなかった。それに、そう諭した兄上ご自身が己の使命のために
その身を粉にし、繊細故に早々に命を散らしてしまった。そこで思い知ったのは、命の大切さではなく、命の軽
さ……少なくとも、自分の受け止め方は、そうであった。
だが、今ここに居る、実際には4つも年下で、全くの赤の他人である「偽の兄上」は呆れるほどに無遠慮で、
ストレートだ。年若い故の無鉄砲さはあるだろう。だが、その精神力は案外強靭だ。
否、強いのは、精神力ではなく、生命力なのかもしれない。

この男に言われて今更考えた訳ではないが、確かに今まで己の命の重みなど考えたことがあっただろうか……?



『それで……?強引に俺の元に来たはいいが……どうするつもりだ……』

トモモリは、前の運転席に座り、運転しながら訳の分からぬ歌など口ずさみだした男の後頭部の辺りに視線
を向けた。人目を忍んで行動することに対して随分と神経を尖らせていたようだが、そのくせその青い頭では目
立つだろうにと思ったが、何も言わなかった。

「ん?まずは、俺にもこれまでに分かったことを全部教えろ」

マサオミは、歌うのを止めると、僅かに首を動かしたもののこちらを向くことなく、偉そうな口調で答えた。





「あーっ、もう、やっぱダメだっ!俺はお前に付いてくっ!お前に任せてたらお先真っ暗だっ!」

プリニコフの家の2階で、マサオミは突然立ち上がると、こう叫んだ。

『マサオミ……約束を、忘れたか……?』
「その言葉そっくり返してやるよ!お前こそ何でも俺にも相談しろって言ったのに、何にも言わないじゃねえかっ!」

確かに、何も言わなかったかもしれない。だが、少なくともここ2週間については離れていたのだから、物理的に
も不可能だ。それに、同じ約束といっても重みがまるで違う。

『これは、子供のお遊びとは――』
「んなことは分かってんだよっ!俺だって遊びでロシアくんだりまで来た訳じゃねえんだっ。もしどうしても連れて
いかないっていうんなら、お前を今ここで犯してやるっ!」
『は……?』

案外初心……いや、未だ抱き合うことに多少の羞恥や抵抗を覚えるらしきマサオミから、意外な言葉が発せ
られた。

「相談しなかったら俺がお前を抱いてやるって約束したじゃねえかっ。忘れたとは言わせないからな!」

マサオミの鼻息は荒い。
だが、この男は分かっていない――とトモモリは思った。怒りに身を任せたマサオミの姿がどれだけトモモリを刺
激するか、前例があったというのに、マサオミはすっかり忘れているのだ。

『まあ……それだけの元気があれば、俺を愉しませてくれるかもしれないな……』

妖しい笑みとともに濡れた溜息を漏らすトモモリ。だが、この時のマサオミはあくまで強気だった。

「馬鹿野郎、お前の望む通りになんかする訳ないだろっ!その辺のタンスかテーブルにでも磔にして、犯した上
で全裸のまま放置してやる!それでもいいってのかっ?」
『……マサオミ……お前は、案外へんた――』
「勘違いすんなっ!それが嫌なら連れてけっつってんだよっ」

仁王立ちで、人を射るように睨みつけて怒鳴り散らすマサオミ――いくら防音設備が整っているからといって、
そこまで大声を出されても……と微かに危惧したこともあって、トモモリは折れた。
怒りに身を任せたマサオミに、欲望を掻き立てられたせいもある。だが何より、マサオミの凶器にも化しかねな
い力強い生命力を目の当たりにしては敵わないと、以前にも経験して分かっていた。
それが、本来ならばいくらでも冷たく拒否できるはずのこのような場面で、抗うことを躊躇わせた。生に執着す
るが故の活力が生み出す、有無を言わさぬ強引さと、秘められた狂暴性――それを前にして、抗えるはずも
ない。

それこそが、最も自分とは対極にあるこの男だけのものであり、逃れ得ない程に惹かれる部分なのだから。





トモモリに指図されるまま、ひたすら南に走った。多分、2時間は運転しただろう。そうして、小さな、古い町に
入った。ここがどうやら目的地らしい。

「こんなとこにずっと潜伏してたのか?」

マサオミは、後部座席でふてぶてしくも優雅に横になっているトモモリの方にその横顔だけを僅かに向けた。

『いや……昨日まで、大半はモスクワに居た』
「そうか……そういや、首都はモスクワだもんな。……て、待てよ、今日、お前サンクトまでどうやって来たんだ」
『この車で、だが』
「誰かに運転させたのか?」
『いや……今日の今日で、そこまでの余裕はないさ……』
「え、だって、確か前にお前、運転できないって言ってなかったか?」
『できない、ではなく、しない、とは前に言ったが……?第一、乗用車すら運転できずに、陸軍兵が務まると
思うか……?』
「……くそ、騙された」


マサオミは、とある一軒家のガレージに車を停めつつ、今頃になって知ったトモモリの真実に舌打ちした。

この2時間のロング・ドライブでトモモリから聴き出したこと。
スパース・ナ・クラヴィー教会で車のキーを渡してくれたあの司祭は、ツネマサの幼馴染だということ。
トモモリのお袋さんの親戚にロシア正教の有力者がいることと、宗教界は政権から一定の距離を置いている
ため、宗教施設関連は色々と利用し易いのだということ。
ツネマサが無事だという情報をトモモリは既にモスクワで入手していたこと。
タイラノフはロシアから旧ソ連諸国を経由して、ヨーロッパもしくはアジア方面に違法に出入国するルートをいく
つか持っており、そのうちのどれが現在も使えるかということは、ツネマサも当然知っているはずだということ。
そして、”黒幕”の目的はタイラノフ財閥の解体だから、妥協する可能性は限りなく無に近いのだということ。

得られたものは少なくない。だが、トモモリは一番肝心なことについては、未だ決めていないと言ったきりだった。
こんな状況の中で、トモモリが一体どうするつもりなのか、ということについてだ。

だが、問い詰めきれない事情がマサオミの側にもあった。約束を破って、トモモリに無理やり付いてきたことだ。
多くを望みすぎて、トモモリから帰れと言われても困る。だから、とりあえず今はこれで良しとすべきだろう。
トモモリの側に居るのなら、まだこれから機会はあるのだから。


その一軒家は、ごく小さなものだった。トモモリが、サンクトペテルブルク周辺で密かに動く際に拠点にしているら
しい。リビングダイニングとユニットバス以外には小部屋とベッドルームが1つずつという、トモモリの普段の生活
ぶりからは考えられない狭さだったが、小さな町に地味に溶け込んでいる、という点では理想的に見えた。

家に入ったマサオミは、まずは持ってきていた携帯でアツモリに連絡した。
アツモリは何も知らずにプリニコフの家に居る。だから、数日間トモモリと行動を共にするということを伝えなけれ
ばならない。それに、トモモリに続いて自分も勝手に本宅を出てしまったのだから、アツモリにはその間タイラノフ
を守ってもらわなければならない。
アツモリとの電話を終えると、マサオミはベッドルームに行き、トモモリのノートパソコンに向かった。

一方、帰宅早々忙しいマサオミに全く相手にされないトモモリは、マサオミが電話をしている間、リビングのソファ
の背もたれにコートを置いてゆったり腰掛けると、ワインなど飲み始めていた。お前何してんだ、と呆れつつ睨
むような視線を送ったマサオミのことなど露ほども意に介さず、それはもう優雅に。
そうして、マサオミがパソコンを求めてベッドルームに移動すると、暫くしてコートを手にしたトモモリがベッドルーム
に入ってくる。

『何をしている』
「メール。こっちも多少動いとかなきゃなんねえだろ。あ、そうだ。お前にも後で、いくつか書類にサインしてもらう
から」
『……何の書類だ』

クローゼットの方に向かっていたトモモリが、その言葉に振り返った。

「アメリカへの亡命に必要な申請書類一式」

トモモリが黙ると、マサオミは椅子を回転させてトモモリの方に向いた。

「こういうものは時間がかかるんだ。準備したからといって、提出しなきゃ手続きは何も進まない。タイラノフの本
宅の方でも、既に説明して書類は書いてもらってる。アツモリも、お前のお袋さんもな。誰も好きで亡命したい
訳じゃない。できればそんなことはしたくない。だけど、万が一ってことがある。必要に迫られてから急いで書類
の準備なんて始めてたんじゃ、間に合わねえんだよ」
『確かに――後のタイラノフのことは、お前に頼んだのだからな』

僅かに肩を竦めたトモモリは、そう答えるとクローゼットの方へと向き直った。
それを見たマサオミは、立ち上がるとトモモリの方に近寄り、そうしてトモモリの肩を掴んだ。

「そうだな。頼まれたのは、お前以外のことだ。だけど、この勝負に勝つ気があるなら、お前だって書類にサイン
しても問題ないんじゃねえか?」
『逃げ場を用意することが、勝ち……か?』

マサオミは、トモモリをぐいっとこちらに向かせると、真っ直ぐにその目を見た。

「俺の思う負けってのは、連中の望み通りになることだ。タイラノフ財閥が崩壊して、一族みんな亡命して、そ
して――お前が死ぬことだ。それが連中の一番の望みなら、こっちとしては一番やっちゃいけない負け方だ。
違うか?勝負は1度きりじゃない。生き延びれば、少なくとも負けじゃない。失点を取り返す機会だってゼロじゃ
ない。それとも――お前、死んで奴らの思い通りになるつもりか?」

明らかな挑発――マサオミにも十分それは分かっていた。分かった上で、言ったことだった。
それに対してトモモリは、表情を変えなかった。何1つ、変わらなかった。その代わりに、まるでクーラーボックスで
も開けたような、冷やかな空気が流れるのを感じた。
そして生まれた、沈黙。
やがて、トモモリが掴まれた肩に手をやり、マサオミの手を外させると、左手をマサオミの方に差し出した。

『……俺が、サインをすれば、満足か……?兄上』

トモモリは、やや口角を上げて、薄く笑みを浮かべる。その紫がかった瞳が、いつもよりも濃い陰を作っていた。
マサオミは強気の表情のまま、そこから目を逸らして差し出された手をポンと叩いた。

「ああ。リビングに行ってろ。1通メール送ったら、書類持ってそっち行くから」





トモモリが部屋から出て行くと、マサオミは椅子に腰をおろして溜息をついた。

トモモリが嫌がることは最初から予測していた。分かっていてやった。だけど、トモモリの冷やかな表情を見れば、
やっぱりいい気分はしない。
トモモリは、最後の賭けに出るつもりだったに違いない。それも、勝つ見込みなど最初から度外視して。勝つに
は勝ったが犠牲も大きかったと、ただ1人の男に随分と翻弄されたと敵に思わせて、全てを終わりにしたかった
のではないか。恐らくは、そのためにトモモリはロシアに戻ることを決意したんだろうから。
トモモリがアメリカに亡命したとして、平凡とはいえそれなりの生活があったとして、それがトモモリの性格とは相
容れないであろうことは想像がついた。普段怠惰なトモモリが生き生きとするのは、危険な状況に身を置いて
いる時だ。きっと、軍人としての生活は性に合っていただろう。だけど、タイラノフの御曹司がいつまでも軍人で
いられる訳もなく、結局トモモリは会社の1つを継いだ。平和な生活に戻って、生気のなくなったトモモリにタイ
ラノフのダーティーな仕事を任せたのも、親父さんがその様子を見かねたのかもしれない。
だが、タイラノフ財閥がなくなればその役目も終わる。トモモリを覆っていた危うい陰も、きっと晴れるだろう。
だが、トモモリはそれを好んで身に纏ってきたに違いない。

そんなトモモリだから、自分がアメリカへ亡命することなど考えてもいなかっただろう。トモモリにとって、生きている
ことよりも生き生きとした場が与えられることの方がよほど大事なのであれば、亡命までして生き延びることな
ど、トモモリには何の魅力もないはずだ。

それでも、マサオミはトモモリに亡命し、一緒にアメリカに来てほしかった。
もちろんトモモリが国との取引を成立させ、財閥が縮小しようとも生き残り、亡命などする必要もなくなればそ
れが一番良いことだ。だけど、それが望み薄だということはもう分かっている。
ならば、トモモリを生かす道は、亡命しかない。サインしたからといって、本当にトモモリが亡命するかも分からな
い。単に自分が安心したいだけだろうと指摘されれば、否定はしない。だけど、今できることはこれしかない。

きっと、トモモリが退屈で、窮屈に感じるであろう人生――だけど、それでも死を選んで欲しくない。
死なないで欲しい。何でもいいから生きていて欲しいと思うのは、きっと自分のエゴだ。
だけど、トモモリが自虐的な選択をするのを、ただ指を咥えて見ているなんて、自分にはできない。
どんなに自分勝手だと思われようと、できないものはできないのだ。





マサオミがメールを終えて、リビングルームに行くと、トモモリはソファに座っていた。恐らくはバカ高いのであろう白
ワインをのんびりと口にして、トモモリは今、何を考えているのか。

マサオミは3人程は掛けられるだろうソファの、トモモリの隣に座ると、黙って書類をテーブルの上に出した。

『……大事な書類という割に、随分ヨレヨレだな……』
「わりぃ、今日1日ジャケットの内ポケットに入れてた。今日突然会うことになったし、といって鞄に入れて大事
そうに抱えて持ってく訳にもいかねえだろうと思って」

確かに、トモモリの本名、生年月日、住所はもちろんのこと、預貯金情報や写真添付までして、個人情報
満載な書類の割に、適当だったかもしれない。情報が満載なのは、トモモリがサインすれば良いだけにしようと
タイラノフの家で全て準備しておいたからなのだが、それならばそれなりの扱いがあるだろう、と言われても文句
は言えない。

だがトモモリは、僅かに眉を吊り上げただけで、それ以上は何も言わなかった。
書類の束から1枚横にずらして、マサオミが指し示した箇所に黒い細身の万年筆で、流れるような筆記体で
名前を書く。終えるとその1枚をさらにテーブルの脇へとずらし、続いて次のページを横にずらす。そうして、同じ
ことの繰り返し。それは不規則な乱れ1つない、機械のような作業だった。

トモモリの英語は流暢だ。くだけた話し方をするアメリカ人の自分よりもよほどきれいな発音で話すし、複雑な
書類内容や新聞記事を読むのも問題ない。だから、この書類に書かれていることをトモモリはほぼ完璧に理
解できるはずだ。母国を捨て、アメリカに移り住むための書類なのだ。守るべきこと、誓うべきこと、権利として
得るもの、保障されることとされないことなど、新たな人生を踏み出すにあたって、その重大な決意をするにあ
たって、必要な言葉がそこには書いてある。
だが、トモモリはそれらの文章に一片の興味も示さなかった。ただマサオミに指図された通りにサインをし、まる
で他人事であるかのように、一瞥すらしない。

不本意なことを強いる代償がこの光景、と言えばそうなのかもしれない。
死ぬか、亡命するかなんて、確かにロクでもない選択肢だ。それは、完敗と惨敗のどちらを選ぶか、という選
択肢に等しい。誇り高いトモモリには、そんな選択肢などない方がマシだろう。「死」というただ1つの道しかな
いという方が、その心には心地よく響くのかもしれない。

だけど、それはマサオミにとっては少し辛いことだ。
死ぬか、亡命するか、本当の選択は、この2つじゃない。死と、もう1つの選択肢――亡命とは、即ちトモモリ
が生きて、自分の側に来ることを意味する。

だけど、トモモリにとってそれは、想像もしない選択肢、ということなのだ。





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