EPISODE 30 :


「あーあ……CDとか、買っときゃ良かったな……」

頭のてっぺんから足のつま先まで、大凡接している面は全てこれ以上にない位の快適さでもって全身をバラン
スよく支えられ、後はその心地よさにごく自然に誘われて、眠りの縁へといざなわれるだけの状態――だという
のに、頭は冴えに冴え、沈みゆくような気だるさはまるで感じない。その気配すらない。
鈍麻のうちに沈みゆくのは、気分だけだ。

それならば、せめて気分を浮揚させるべく好きなロック系の音楽――ちょっとへヴィーで、リズムはガンガンと部
屋中を揺らす程で、それでいてスピーディーで、思わず高揚してきて口ずさみたくなるような、アメリカ人の創り
出す、とびきりノリのいいヤツ――が聴きたいと思った。だが、それも叶わず、夜の静けさの中、あるのは時計
の針が時を刻む音のみだ。
昨日は些細なことにはてんで気も漫ろで、時を刻む音など聞いた覚えさえなかった。だからこそ、今日は余計
にそれを異質なものと感じてしまう。ここは、一昨日までごく当然のように過ごしていたはずの場所なのに。

マサオミは独り天井に向かって呟くと、身体をもぞもぞと動かして、横を向いた。

ベッドは大きくてゆったりしているし、絨毯もふかふか。部屋は広くて常に適温で保たれ、ステレオやラジオ、TV
だってある。ロシアに来てから3週間余り、ほぼ毎日寝起きして、長い時間を過ごしているタイラノフの本宅の
客間は快適そのものだ。心地よさではトモモリの、ロサンジェルスのコンドミニアムに勝るとも劣らない。

今煌々と点いている灯りだって、当然、真っ暗闇にすることは自由だ。もう夜中の1時を過ぎているのだし。

だが、マサオミは敢えて灯りを点けたままにしていた。別に暗所恐怖症でも何でもなく、これから本を読もうとし
ている訳でもない。眠りたいのなら、暗くした方がいいに決まっている。それなのに、マサオミは何故か電気を消
したいと思わなかった。暗くしても眠れないだろうし、却って気分が落ち込むだけだと分かっていたから。


恐らくは夜が明けて、お昼を迎える頃にはまた、ツネマサから連絡があるだろう。前回の連絡から、3日目にあ
たるからだ。そのために、マサオミはここに戻って来た。自分に課された義務と、本当はそれより優先したいもの
がある本音の狭間を何度となく行き来しながらも、その迷いからなるべく目を逸らし、トモモリが運転する車に
初めて乗って昨夜、本宅に帰った。
だが、トモモリは本宅に入ることなく、すぐに来た道を戻った。密かに出迎えたアツモリを車内に招き寄せて指示
を出し、わずか10分足らずでトモモリは、1人夜の闇の中に消えて行った。


『お前の、交渉次第だな……取引を、翌日か翌々日にできれば……また、俺の元に来るのもいいさ』

血迷いごとは言葉にせずとも顔には出ていたのか、昼間、トモモリはこう言った。
一日二日では、最早動く程の時間もない、そういうことなんだろう。ならば、是が非にでも取引は近々に設定
しなければならない。ツネマサを説き伏せ、ツネマサには相手を説き伏せてもらわなければならない。
トモモリが取引をなるべく早く済ませたい理由は、長引けば長引く程、相手は様々な手を使って揺さぶりをか
けてくると予測しているからだ。それは自分も同感だ。あっちは権力をバックに持つ、超権的な実力行使が可
能な連中だ。次に何をし出すか分からない。
それに、長引けば相手方に身を置くツネマサの危険性も高まる。トモモリは言っていた。ツネマサが、勝手に動
くかもしれない、と。ツネマサは恐らく、タイラノフと、それからトモモリの身を案じて自ら拘束されたのだ。内部に
あって独自の解決を図り、動き出す可能性は、当然考えられる。今回の取引だって、ツネマサなりに何か考
えがあって連中の言いなりになっているに違いない。つまり、すぐにも何らかの行動を開始してもおかしくないし、
少なくともその準備はしているだろう。
ならば、トモモリはそれよりも先に取引に応じ、ツネマサの無謀を阻止しなければならない。


トモモリの一連の行動には無駄がない。まるでチェスで決まり切った手でも打つように、最短の時間で考え、そ
の場の状況に合わせて最善の道を取る。何かあれば、すぐに臨機応変に対応する。
俺が異論を挟む余地はない。あれも賛成、これも賛同――そればっかり。

だけど、トモモリの作戦にも弱点がある。トモモリにとっての弱点ではないが、俺にしてみれば、盲点ってヤツだ。
それは、トモモリがトモモリ自身のことを殆ど考慮に入れていないこと。そして――俺は、トモモリの身を犠牲に
する方法には断固反対だということだ。

トモモリは、きっと俺の考えや行動は考慮に入れていない。何故なら、俺は「何もできない」からだ。
俺に唯一できることと言えば、タイラノフの連中をアメリカに亡命させるべく大使館に橋渡しをすること位。俺に
は核心に迫るような情報はもたらされないし、本来タイラノフの人間じゃないから何の人脈もない。

だが、分かってない。
トモモリは、俺がどれだけあいつを助けたがってるか理解してない。そのためには何だってするってことが、分かっ
てない。

早く取引が行われるということは、それだけ早く、トモモリを死に追いやることになる。自身を考慮に入れない男
が作戦を立ててるのだから、当然そうなるだろう。いくら俺が横槍を入れようとも、その可能性を下げることはで
きても、ゼロにすることはできない。
だけど取引が3日以上先になれば、トモモリはその前にまた動き出すつもりだ。より取引を優位にするための材
料を探すか、もしくはツネマサのことを考えて動くに違いない。
でも、これ以上単独で動くのは危険だ。もしもトモモリの叔父の死が病死でないなら、相手はそれだけのこと
をするし、それだけのことができる程の力を持っているということになる。これ以上単独行動をして、どこに落と
し穴があるか分からない。
ならば取引を2日以内に設定して、まずは自分はトモモリの側に戻らなければならない。そうすれば、トモモリは
その間は1人で動かない。そんな時間もない。
取引自体については、トモモリは自分1人で行うつもりだろうが、そうはさせない。単独での隠密行動では自分
が介入できる余地なんてないが、取引の時なら不可能じゃない。
そのためにも、トモモリの側に留まっておくことは絶対条件だ。そこに全ての可能性を賭けるしか、もう道がない。

「……んとに、ひでえ奴だな……」

思っていたことが、独りでに口をついて出る。

俺には関係ないなんて言って、関わるのは最小限にさせて、おまけに俺が泣くことなんて何1つないなんて言っ
て、人の気持ちなんてちっとも考えてないんだ、トモモリは。ホントなら、あいつこそよく知ってるはずだ。トモモリは、
敬愛する実の兄貴に先立たれてる。置いていかれることの悲痛さは、よく分かってるはずだ。
それなのに、どうして自分が先立つことは迷わないのか。置いていかれる俺のことはちっとも考慮に入らないの
か。それとも、俺のトモモリへの気持ちなんてその程度だと思われてるのか。

「意味深なもん勝手に付けといてよ……」

続いて、ここにはいない男に対して、愚痴めいた不満を呟いた。
マサオミは左の耳朶を触る。触れると、未だ違和感を感じた。



夕方、まだトモモリの隠れ家にいた頃、うとうとと遅い昼寝にかまけていたら、突然の鋭い痛みで目が覚めた。

「?!っ……って……今、の……」
『動くと、耳が千切れるぜ』
「な…ん……」

すっかり固まった俺に、満足げな笑みを浮かべるトモモリが手にしていたのは銀色の針と、小さな紅い何か。鏡
に映してみれば、自分の意思とは無関係に穴を開けられた左の耳朶に、小さい、血のような深紅の石が揺
れていた。

「……おま……何で勝手に、ピアスなんか……」
『頬を張られるのと、痛みに大差はない、だろう……?』
「……大アリだろ……3倍返しのつもりかよ。いてぇ……ズキズキする」
『すぐ、慣れるさ』

全く反省しようとしないのは相変わらずだ。その涼しすぎる顔にパンチでも食らわせてやろうかと思った。

『祖母の、指輪の石の欠片だ』
「は?祖母ちゃんの、指輪だって?」
『元は祖母のだが、譲り受けていた兄上が、死の少し前に俺にくれた。使わずに、しまっておいたが、いつの間
にか、石が欠けていた。安い石ではないから、と言われて、ピアスにしたが、そのままにしておいた……だが、俺
をトモモリと呼ぶのは、今はお前だけ……ならば、その欠片を所有するのに、お前は相応しかろう……?』
「……お前の形見のつもりなら、これ外せ。そんなもの、いらない」
『……クックッ……随分と感傷的な捉え方だな、マサオミ……俺が、そんな人間に見えるか……?大体、万
が一俺の形見、というならば、その指輪ごと、やるさ……気に障るのなら、俺の気まぐれ、または、先程の仕
返し、とでもしておこうか……?』



あいつは、俺を感傷的だと笑った。きっと、ホントに仕返しか、せいぜいお守りの一種位にしか考えてなかった
のだろう。そんな気まぐれもトモモリらしい。寝てる間に平然と人の耳に針を刺すのも、サディスティックなあいつ
には相応しい行動かもしれない。

だが、一族の面々に日本語のミドル・ネームを授けたトモモリの祖母、その祖母の意思を受け継いだのか、そ
の名でトモモリを呼び続けた、トモモリの敬愛する長兄、そして、トモモリ――まるで引き継ぐように彼らが持ち
続けた指輪についた紅い石の欠片を自分に付けるなんて。

かなり前向きに考えれば、タイラノフの一員として漸く認められた、と取れなくもない。だけど、仮にそうだとして
も嬉しくない。そりゃ、認められないよりはいいけど、そんなことよりも、死に往こうとしている奴からそんな”いわ
く付き”のものなんか受け取りたくない。大した意味はないと言われても、穿った見方をしない訳にはいかない
ような代物だし、状況じゃないのかと反論したくなる。

ホントに――
どこまで、人を馬鹿にするのか、あいつは。俺が何にも感じないとでも思ってるのか。それとも、俺があいつを見
捨てるのを、待ってでもいるのか?

マサオミの目は覚める一方だった。





「トモモリからの伝言な。1つ目はツネマサ、お前と、もし無事であれば、叔父さんの解放。ニュースは見たけど、
ホントかどうかも確かめようねえし。それから2つ目は、タイラノフ一族に手を出さないこと、行動に自由を認め
ること。この条件を飲むなら、トモモリは単独で取引に応じるし、財閥をどうするかもそっちの自由だ」
「……それは、確かですか」
「ああ、神に誓って」
「……少々、タイラノフには不利だと思いますが……」
「ああ、俺もそう思う。だけど、これ以上引き伸ばしてもしょうがないだろってさ」

丁度昼前にかかってきたツネマサからの連絡――電話口で、ツネマサはトモモリの提案に躊躇いを見せた。だ
けど、トモモリの読みは恐らくツネマサにも伝わったのだろう。これ以上引き伸ばしても、タイラノフにとっては益々
不利になるだけだと。

「……承知しました。それでは、伝えましょう。それから、取引の日程ですが――」
「それだけど、明日か、明後日にしてくれ」
「……それは、あまりに急ではありませんか。ルーリック様の言葉を元に、こちらで相談しなければなりません。
もう少しお時間を下さいませんか」
「や、悪いけど、これは譲れない」
「マサオミ殿……それはどういうことでしょう」
「言葉通りだぜ、ツネマサ。明日か、最低でも明後日。こういうのは早く済ませるべきだぜ。間を空けて、お互
い余計なことされたくないだろ」
「それはそうかもしれませんが、そう簡単に進められる訳ではありません。こちらでも然るべき者を通して相談し
なければならないのです。調整する時間が必要です」
「それはよく分かってる。でも、これは譲れないんだ。ダメなら、この話からは一旦引かせてもらう」
「な……マサオミ殿、そう簡単に引くなどと言わないで下さい。今回の話は、とても重要なことなんですよ?」
「分かってる、ツネマサ。でも、時間もその内容と同じ位重要なんだよ。頼むから、これで何とかそっち説き伏
せてくれよ、な?」
「マサオミ殿……」
「分かってると思うけど、一応もう一度考えてみてくれよ。時間があれば、そっちも動くだろうけど、トモモリだって
動くんだぜ?トモモリの性格は、ツネマサだって、多分そっちの連中だってよく知ってるだろ。お互いが取引まで
の間に動いた結果、そちら側の方が必ずしも有利になるとは限らないんだぜ。今回、タイラノフには多少不利
な条件だけど、日程次第では手を打つってトモモリも言ってるんだ。そっちにとっても、そう悪い話じゃないだろ」
「……マサオミ殿。以前より、強くなられましたね」

電話で話すツネマサは、いつもどこか余所余所しかった。もちろん、丁寧な口調は変わらないし、話し方も穏
やかさは失っていなかったけど、やっぱりどこか硬かった。もちろん、それもツネマサの立場と、居る場所を考え
れば当然のことだ。
それが、不意に急に優しい、いつもの口調に戻った。

「は……?」
「逞しく成長なさる貴方を見るのは、まるで実の弟のことのように、私も嬉しく誇らしく思ってしまいます。……
なんて、大人の貴方に、失礼なことを申し上げてしまいましたね、申し訳ありません」

ああ、変わっていない。いつものツネマサだ――マサオミは、こみ上げてくるような懐かしさを感じて、胸が熱くなっ
た。急に、アメリカで、トモモリと、ツネマサと、3人で過ごした時間を思い出した。

早く、助けてやりたい。ツネマサが、トモモリのためを思って動く前に。

「……サンキュ、ツネマサ。俺は、お前が無事だってだけで凄く嬉しかったぜ。――でも、声だけじゃ安心でき
ねえだろ。だから、早くお前に戻ってきて欲しいんだ。無事な姿が見たい。こんなの……とっとと終わらして、さ」
「……マサオミ殿……貴方のお気持ちは分かりました。取引は明後日ということで、何とか努力してみましょ
う。少し、時間を下さい。いずれにしろ、今夕6時までに再びご連絡します」
「分かった。無理言って、ごめんな」


電話を終えたマサオミは、安堵のため息をついた。
トモモリは、早ければ早い程いいとは言ったが、日程については取引自体を賭けてまで拘っていた訳じゃない。
これが飲めなきゃ手を引く、という脅しはマサオミが勝手に決めたことだ。トモモリの元に帰るために。
下手をすれば自分が全てをご破算にしかねないのだから、内心はヒヤヒヤした。だが、真意を察してくれたの
か、それとも強気に出たことで、却ってこちらが何かを準備しているんじゃないかと、良い意味での誤解を生ん
だのか、とりあえずツネマサは折れてくれた。あとはもう、自分には手は出せない。ツネマサがあちらに話を通し
て上手く説得してくれるのを祈るのみだ。


ソファに腰を下ろすと、時計を見上げた。
夕方まで、まだ時間はたっぷりある。昨夜殆ど寝つけなかったせいか、一度安心したら急に眠たくなってきて、
マサオミはソファにそのまま横になった。

……早く。

「早く、夕方になんねえかな……」

マサオミは目を閉じて、身体が少しずつ重くなるのを感じながらも、無意識のうちに呟いた。

慣れ親しんだはずの、快適な空間を提供してくれるタイラノフ本宅の客間――にもかかわらず、マサオミは少
々タチの悪い、麻薬にも似た毒を吐く男の傍らを思い浮かべて眠りに入った。





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