EPISODE 31 :


深夜の教会程、独特の雰囲気を持った場所はないと言っても言い過ぎではないだろう。それが、血の教会
などと別名で呼ばれている所であれば尚のこと、独特の雰囲気などというオブラートに包んだ言い方ではなく、
率直に不気味、と言ってしまいたくなる。

マサオミがアツモリに送ってもらってスパース・ナ・クラヴィー教会に着いた時、時刻は夜の11時半を過ぎていた。
外観は観光スポットらしく多少ライトアップしてあるが、当然、一般人が入場できるような時間帯ではない。
だが、マサオミは裏手に回り、裏口から入った。ツネマサの幼馴染であるという、つい2日前に会ったばかりの司
祭が招き入れてくれたからだ。
礼拝堂や表の部分は豪華絢爛とも言えるこの教会だが、奥の内部はこじんまりとして質素な司祭や関係者
たちの為の休憩室や食堂、書斎などがあるだけで、灯りもやや暗い。おまけに、ひと気も殆どなかった。

”アレクが早く釈放されることを心から祈っています”――そんな言葉をかけられ、ある部屋の前に案内される
と、司祭は以前と同じように、何事もなかったようにマサオミを置いて去っていく。
だが、今回マサオミは以前のように何が起こるかも分からずにここに連れて来られた訳ではない。部屋のいかつ
い、厚みのある木製の扉を開けると、そこにはマサオミを呼びだした男がごく当然のように簡易ベッドの上に横
たわっていた。

「やっぱ寝てんのかよ」

時間を持て余せば大抵寝てしまうこの男は、マサオミが扉を閉め、ベッドの傍らに近付いても何ら動きを見せ
ずに仰向けに目を閉じたままだった。

ツネマサからの夕方の6時の電話の後、トモモリから直接携帯に連絡があったのは、夜の9時前、既に夕食
も終えて一門の連中数人と酒など用意し始めていた時だった。電話では、明日じゃない方で話をつけた、と
だけ伝えた。それは、取引が明後日で決まったことと、マサオミがトモモリの元へと戻れることを意味していた。
一昨日案内されたトモモリの隠れ家は遠い。何しろサンクトから車で2時間以上も走る。だが、マサオミは例
え自分で運転してでも戻るつもりだった。トモモリの元に戻るつもりで取引の日程をごり押ししたのだから。
だが、電話でトモモリはこちらへ来ると言った。そうして指定されたのがこの教会だ。ここならば、本宅からは車で
30分程の距離だ。戻ってくるのは取引前に一度は本宅に戻るつもりなのかもしれない。いずれにしろ、いつ
移動して来たのか分からないが、もし夜になって隠れ家から2時間も運転して来たのであれば、トモモリでなく
とも疲れて一寝入り位したくなるに違いない。

マサオミがトモモリの眠るベッドの端に腰を下ろすと、ベッドが小さく軋んだ。

トモモリの寝顔を見るのは決して難しいことじゃない。トモモリはしょっちゅう眠っているし、そもそもマサオミは出
会った翌日には既にロサンジェルスのコンドミニアムで見ている。

だけど――マサオミはトモモリの顔を見下ろした。

眠っている時のトモモリは惹きこまれそうな瞳も閉じているし、不遜な笑みを浮かべることもなく、皮肉を言うこ
ともないせいか、色の白さと美しい造作だけが妙に際立つ。これがいびきでもかいていたり、やたら寝相が悪かっ
たりしたら思いつきもしないだろうに、なまじ静かに真っ直ぐ横たわっているから、まるで死んででもいるように見
えてしまう。

それも、きっとかつては思いもしなかったことだ。死体みたいに熟睡してるなと思ったことはあったが、もちろんそ
れはリアリティをもって想像した訳じゃない。アメリカに居て、トモモリは死ぬ覚悟をしているんじゃないかと思った
時ですら、寝顔を見てここまで感傷的な気分にはならなかった。今思えば、それはあくまで予感だとか少し遠
い未来の予想でしかなかったからだ。
だが、もうそんな時ではない。その未来は、すぐそこだ。

その時――小さな古い、柱時計が時を告げる。夜中の0時だ。

取引の日は、明日の夕刻。あと、1日半。

成功するかも分からない賭けに出るしか、トモモリを助ける道がない。それすら、未だ雲を掴むような話でしか
概要を分かっていない自分が仕掛けるのだから、何とも心許ない。しかも、チャンスはたったの一度だ。それを
逃したら、もう二度とその機会は来ない。トモモリの姿を再び見ることすら、叶わないかもしれない。

マサオミは、手を伸ばしてトモモリの髪の毛に触れた。柔らかい。だけど、猫っ毛という程柔らかくなくて、真っ直
ぐで艶やかだ。そこからさらに微かに血の気を感じさせる頬へと指を辿らせていく。
熱くはない。そこまで温かい訳でもない。だけど、体温は感じる。生きている。
マサオミは少し安堵した。だがそれは、今は未だ生きているという証明でしかない。

マサオミは、元々楽観的な方だ。何とかなると鷹揚に構えている方だし、ただそうなるのを待つだけじゃなく、何
とかするために必要とされる行動は取る。それでダメならば、もう諦めるしかない。そういう意味でマサオミは大
雑把な性質であったし、良く言えば割り切りも思い切りもある方だった。過去を何度も振り返るような性質で
もなかった。
だがトモモリと会い、タイラノフと関わったことで、きっと自分は変わった。どれだけ全力を尽くして、必要な行動
を取ってもどうにもならないこともあると知った。ダメだと思っても諦めきれないものがあることも知った。
トモモリと出会わなかったら、きっとこんな気持ちにはならなかっただろう。

出会ったことに後悔はない。ここまで付いてきたことも、自分が決めたことだ。

こいつを好きになった時から、既に別れは見えていた。明るい未来なんて最初から存在してなかった。だから、
俺たちは別に付き合っているとか、そんなんじゃない。恋人同士でもない。
トモモリと抱き合う時にいつも感じる不安は、何もこいつがサディスティックだからだとか、やり過ぎるからだとか、
そんな理由からじゃなかった。男と抱き合うことへの抵抗感は今でもあるけど、それだって一旦始まってしまえ
ば別にどうということはない。
俺がいつだって警戒心を抱くのは、これ以上トモモリに惹かれるのはヤバイと自分で分かっていたからだ。何の
未来もないと分かっていたからだ。

マサオミの指が、トモモリの頬から顎を撫で、首へと下りた。

どんなに抱き寄せても、この男はするりとこの腕から抜けてしまう。
そして、もしかしたらもう、手を伸ばすことすら、叶わなくなってしまう。

いっそ。
いっそここで終わりにしてしまえば、楽だろうか。
明日、誰かの手にかかって殺されちまう位なら、いっそ今、俺が、この手で……


『……頸動脈ならば、もう少し後ろなんだが……?』

突然の声に、マサオミはびくっとした。それは静かで、決して大きな声でもないのにはっきりと聞こえた。手を引っ
込めるには間に合わなくて、マサオミは指先だけを離した。眠っていたはずのその顔を見れば、トモモリは薄く目
を開け、緩やかに笑みを浮かべている。

「お、お前、いつ、起きたんだよ……?」
『お前が、ドアを開けた時』
「……最初からかよ。趣味わりぃな、お前。……別に、首なんか締めねえよ……」

マサオミは手をひっこめると、トモモリの方に前かがみになっていた姿勢を戻すついでにさりげなく背を向けた。

トモモリならば、況してタヌキ寝入りだったのなら、その空気から何か覚っていたとしてもおかしくはない。トモモリ
は、殺気や危険な空気には敏感な男だ。ほんの少しでも生じた、軽蔑したくなるような自分の気の迷いを、
トモモリならば感じたとしてもおかしくない。
だが、殺気がバレたんじゃないかという焦りは、不思議となかった。それよりも、心のどこかで自棄になっている、
そんな自分のことの方が、よほど知られたくなかった。

背後でギシ……とベッドが軋む。上半身を起こしたトモモリが後ろから腰に腕を回してきて、僅かに身体がび
くんと動いた。

『俺は、喜んでいるんだぜ……?殺したい程愛されるなど、本望じゃないか……ほんの、数か月前には、こん
な風にしても、兄上は、いつも俺を軽くあしらっていたのだから……それに比べれば、大した進歩じゃないか』
「……は……よく言うぜ。あん時は、お前だってからかってたんだろ……?」

漸く答えたマサオミの声は、やや掠れていた。だが、トモモリはそのことには何も触れない。

『……クッ……お見通し、か……』

トモモリは悪びれる風もなくあっさり認める。そうして、身体をマサオミの背中に寄せたトモモリが呟いた。

『やはり、お前の体温は、心地好い』


こんなことが前にもあったとマサオミは思い出す。トモモリと出会ったばかりの頃――こうやって背中から腕を回
され、トモモリは寄りかかってきた。あの時はトモモリって案外人懐っこいんだな、なんて勘違いしたものだ。
未だタイラノフのことなんて何も知らなくて、トモモリのことだって何も知らなくて、ただ、トモモリという個性的な男
に対する好奇心だとか、単純にホームレスにならずに済んだ安堵感とか、そんなことしか頭になかった。あの頃
は未だトモモリの親父さんだって健在だった。タイラノフだって、以前と変わらずロシア随一の財閥で、それなり
の平和が保たれていたに違いない。あの頃は、きっとタイラノフがこんな風になるなんて、誰も想像していなかっ
ただろう。

俺とトモモリのことだって――こんな関係になるなんて、一体誰が想像しただろうか。

トモモリの少し低体温な身体は、マサオミにとっても心地よい。ふと身体の力が抜けてしまう。
出会った頃は、そんな風に感じなかった。これが、慣れってヤツなんだろうか。

それを自分の手で葬るなんて、ないとは言えない未来の可能性を消してしまうなんて、一体何を考えてたんだ、
俺は――マサオミは、一瞬でも不吉なことを考えた自分を恥じた。


『――そろそろ、行くか?』
「え?……どこに?」

今夜はこの部屋にずっと居るんだろうと思っていたから、トモモリが身体を離すと同時にマサオミは振り返った。
だが、トモモリは微かに笑っただけで傍らからするりとベッドから立ち上がった。



次の行き先であるその建物は、教会から車で20分程の距離だった。サンクト市内の近代的なビルの地下駐
車場に車を滑りこませたトモモリは、地下駐車場入り口の守衛室に顔をチラリと見せただけで、急に丁重に扱
われ、即座に鍵を渡された。その様子を問うマサオミに、トモモリはここがタイラノフ財閥が所有する貿易関連、
つまりトモモリが代表を務める会社の本社ビルであることをあっさり白状した。
中に入り、階段を上って行くと、薄暗くて見えづらいものの、洗練された正面玄関のロビーや広いエレベーター
ホールが見えてくる。会社としての立派な佇まいは、ただ横目に通るだけでも十分垣間見えた。勿論、深夜
だからロビーに人は誰もいない。ホールのエレベーターも全て停まっていたから、そこを通り過ぎて裏手の運搬
用のエレベーターに乗った。


トモモリが連れてきたのは、ビルの屋上だった。コンクリートが敷き詰められた、大きなボイラーやタンクがあるだ
けの殺風景な場所。だが歩いて建物の端の方に行けば、胸の辺りの高さの柵の向こうにキラキラと光りが溢
れている。
サンクトペテルブルクは、NYのように高層ビルが幾重にもそびえ立っているような街じゃない。むしろ歴史的建
造物の多い、重厚で美しいところだ。その中世のヨーロッパを思わせる重層な街並みが、ライトアップや側面
を通る車の光で浮かび上がり、独特の幻想的な世界を見せていた。

『ここから、街の中心部が一望できる。2度もロシアに来たというのに、まだ、何1つ観光らしいことも、していな
いだろう……?だから、一度、お前に見せてやろうと思って、な……』

確かに、観光地としても知られたこの街に2度も来ているのに、それらしい場所といえば血の教会と言われる、
あのスパース・ナ・クラヴィー教会に行ったきりだ。あとはタイラノフの本宅に居るか、トモモリのアパート位しか行っ
ていない。だが、それがトモモリの本心であったとしても、マサオミはつい、深読みしてしまった。

トモモリの出した条件通りに進むならば、明日の取引で、タイラノフ財閥の会社は全て国に接収されてしまう
だろう。そうすれば、このビルも、会社も、明日にはもう、トモモリの物ではなくなる。トモモリにとっても、もしかし
たら見納めになるかもしれない――ここは、そういう場所だ。

トモモリらしくないとさえ思える優しさと、突き付けられる現実に、マサオミの胸は複雑に掻き乱れた。だが、そん
な気持ちを悟られたくなくて、息を呑みこむと、マサオミは敢えてトモモリに笑顔を見せた。

「何だよ、お前ってそんなロマンチストだったっけ?」
『少なくとも、お前よりは、風流は心得ているつもりだが……?』
「ばぁか、俺だってやる時はやるぜ?」
『ほう?では、見たいものだな、その、ロマンチストな一面とやらを』
「は……?!えー……そうだな……」
『……クッ……無理をするなよ、兄上』
「な、できないとは言ってねえだろっ、ちょっと待て!」

何もバカ真面目に答える必要もないだろうと心のどこかでは思っているのに、トモモリに対する対抗意識を一
瞬でも過ぎらせたせいで、うっかり深みにはまってしまった。トモモリがからかっているのは明らかだというのに。
だがここまで来たらあとには引けない。

何も浮かばない。浮かばないけど、ないとは言えない。絶対に言いたくない。
ロマンチック、ロマンチック、ロマンチック……

ハッと気づいたマサオミは唐突にぐるっと傍らに居たトモモリの方を向くと、いきなりその腰に腕を回してトモモリの
身体を引き寄せた。そうして僅かに目を見開いたトモモリを尻目に、その唇を優しく奪った。その薄い唇を、ちょっ
とくすぐったい位に甘く、二度三度と啄ばむ。
トモモリは、好奇心から口元にやや笑みを浮かべて冷静にそれを受け止めつつ、様子を見ていた。
一方、トモモリ相手に何をらしくないことをしているのかという思いで一杯一杯のマサオミの方がよほど照れてし
まい、何度目かの口付けのあと唇を離したものの、トモモリの顔をまともに見れずに視線を逸らした。

「…………や、夜景をバックに、キス、とか、ちょっと、ロマンチストじゃね……?」

恥ずかしい真似だとは痛い程に自覚していたから、マサオミの顔は自分でも分かる程に熱く、赤くなっている。

『……クッ……どうせなら、そんな自信のない言葉ではなく、情熱的な台詞の1つも聞きたいものだな、マサオ
ミ』
「うっ……うるせぇよっ、もう終わりだ、終わりっ」

トモモリはマサオミの様子が物珍しくて、愉しかったのだろう。追い打ちをかけるように、ゆっくりとからかうように囁
く。だが、マサオミは羞恥に耐えられなくなって、トモモリの背後に回していた手でトモモリのシャツを引っ張って身
体を離そうとした。すると、今度はトモモリの方が逆にするりとマサオミの腰に右腕を回して、それを阻止する。

『やれやれ……手のかかる』
「ちょ、トモモリっ!もう終わっ……ぅん……っ」

躊躇いを見せるマサオミに、トモモリは素早く左手でマサオミの後頭部を押さえると、薄い笑みを浮かべたまま
口付けた。言いかけていたマサオミの口が閉じるのを押さえこむように唇で一瞬その動きを封じると、角度を変
えて巧みに舌を口腔に挿入する。
相変わらず、怠惰な普段のトモモリとは完全に相容れない手際の良さ。マサオミはただただ圧倒されたまま、
それでも舌が絡められれば、自然と快楽の記憶に釣られて応えていた。だが、トモモリはやや呆気ない位にい
つもよりあっさりと舌を引っ込めると、唇を離す。そうして艶やかな笑みを浮かべながらも、真っ直ぐにマサオミを
見据えて囁いた。

『もっと、俺の知らない、お前を見せてみろよ……マサオミ』
「……っ!」

ご丁寧にロマンチストの見本まで見せてくれたトモモリに、マサオミは呆れつつも目を逸らせなかった。そうして再
び近づく唇を、自分から積極的に求め、捉える。

結局のところ、トモモリに抗えるはずもない。いつだってそうだったのだから。
先の見えない状況に苛立ちながらも、ずっと抗えずに、むしろ自ら進んで、ここまできてしまったのだから。



眼下に広がる光の大河が、ここまで照らすことはなかった。2人を照らすものがあるとすれば、頭上にある月だ
け。だがそれは、自分たちの姿を露わにする程の光ではない。ぼんやりと、微かに照らしているだけだ。
ほんの1日前は落ち込むのが嫌で、部屋の灯りを消さなかったマサオミだが、今は闇夜がトモモリの姿を隠し
てくれることに、他の誰も手を出せないことに、安堵していた。





TO THE EPISODE 32



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.

inserted by FC2 system