EPISODE 32 :


珍しいこともあるものだ。
普段であれば、大抵は逆だった。だが――今は足を組んで、ベッドと見紛う程大きなソファの端に座っている
のがトモモリで、そのすぐ傍らで眠っているのはマサオミだった。

――悪い、ちょっと、30分だけな……昨日あんま眠れなくて……。

その言葉を言い終わるか終らないかのところで、語尾は消え、すぐに寝息が聞こえてきた。よほどの寝不足だっ
たのか。こんなマサオミを見たことはなかった。

トモモリは、マサオミの髪の毛に触れ、そっと撫でる。
マサオミは、自分を「常に欲望が行動に直結している男」と思っているらしい。別にそれを正そうとは思わない。
実際、自身でも間違いだとは思わない。だが、単に愛おしいという気持ちで触れることだって時にはあるのだ。

『――今は、休め……だが、もう一頑張り、してもらわなければな……』

そう呟くと、トモモリは顔を上げ、窓の外を見た。

明日には、マサオミ、お前をこの闇から解放してやる――そう思うトモモリの胸の内は今、とても静かだった。





4日前、マサオミと再会する前日の、午後1時過ぎ――

朝までモスクワに居たトモモリは、サンクトペテルブルク方面へ向かう長距離列車に乗り込むと、ブイシニー・ボ
ロチェク(モスクワ―サンクト間のややモスクワ寄りにある町)で降りて、駅の傍の駐車場に向かった。そこで1週
間以上前に停めておいた白のヴァンにに乗り換えると、行き先はそこから車で2時間と少しのところにある、今
にも廃されそうな程の寒村だ。

昼間だから、暑い。勿論ロサンジェルスよりは遙かに涼しく、サンクトペテルブルクなど夏の盛りの日でも25℃を
超えることはまずない。この日も、既に8月も下旬に差し掛かっているせいで、昼間の温度は20℃に満たない。
それに空気が乾燥しているせいで、朝晩や日陰など、場合によっては肌寒い時すらある。
だがそれでも、トモモリにとってはやはり夏の盛りの昼間は苦手だった。陽ばかりが入る車中なら尚更だ。少し
寒い位の温度設定でクーラーを入れ、サングラス越しにうんざりするような視線で空を一瞬仰ぎ見たトモモリ
は、辺りに車が走っていないのをいいことにアクセルをさらに踏み込んだ。

目的地の駐車場に車を停めていると、短く2~3度程、そっけない電子音が鳴る。エンジンを切ると、トモモリ
は助手席に置いておいた携帯の画面を一瞥した。

『全く……暇な御仁だ……』

独り呟くと、面倒そうにそのまま携帯をバタンと閉め、空席である車の助手席に放って外へ出た。
まるで四角い箱のような形をした倉庫らしき建物の鍵を開けると、ごく小さな玄関ホールのすぐ奥にある薄暗
い部屋から1人の男が急いで立ち上がり、ホールに出てくる。

「あっ……!お疲れ様ですっ……」
『――変わりは、ないか?』
「勿論です!特に酷い体調不良の者もいません!相変わらずあまり食事を取らない者はいますが……」
『まあ、そうだろうな……』

トモモリは、缶詰やパンなどの食物を入れた大きめの紙袋を男の胸の辺りに押し付け、続いて薄手のコートを
脱ぐと、それも男に向かって放る。荷物を両手で抱えた上に器用にコートを受け取った男は、頭を振って視界
を確保すると、そのまま奥の方に消えた。
男は元々人質の1人であり、れっきとした官僚である。だが、捕えた者が4人もいれば、やはり中には要領が
いいというか、小心な者もいる。軍人と違って文官であったせいもあるのだろう。この男は当初の脅しに早々に
怯え、屈した。そうして、トモモリに従順さを示すことで救命を図ってきたのだ。
だが少々軽薄ではあっても、こういう男は必要だ。トモモリにしてみれば、人質を警戒し、人質とともに1つの家
に同居するなどまっぴら御免だったから、都合が良かった。その為、トモモリは男を巧みに使い、人質の監視
役を任せていた。

ここは正確に言えば、倉庫ではなく一軒家であった。だが、古い石造りのせいで窓が小さい上に少なく、中が
薄暗いために倉庫のように見えるのだ。その家の2階に、トモモリは上がって行った。

屋内のみとはいえ、自由に動けるのは見張りを任せているあの男だけだ。あとの者は部屋を分け、何らかの
形で拘束していた。残りの者は現役の軍人であるだけに、多少厳重な警戒が必要だった。特に2階の奥まっ
た部屋にいる、なかなか口を割らない男は注意が必要だ。
トモモリは当初、捕獲した者全員の命を奪うことも考えてはいた。タイラノフに敵対、またはそれに与した者たち
だ。報復あるいは見せしめ、もしくはこちらの本気度を知らしめるためとして命を奪えば、多少の効果は期待
できるだろう。
だが、殺すのはいつでもできる。手持ちのカードを早々に切るのは賢明ではない。まずは人質として生かし、
相手の出方を見てからでも再考は遅くない。捕獲した者たちの話が1つの方向を示していないのではないか
と思うだけに、尚更だ。

トモモリは、2年間程在籍していた軍人生活において、その2年目は殆ど国内や旧ソ連諸国の反乱分子の
制圧に駆り出されていた。自分自身も好んで前線に身を置いていたせいもあり、この手で血祭りに上げた者
も少なくはなかった。そういう意味から言えば、人を殺めることへの抵抗感はあまりない。元来そんな性質なの
だと言われても、否定はしきれない。
だがそれでも、安易に、そして無用なまでに命を奪ってきた訳ではない。今回にしても、全容がはっきりしない
中ただ闇雲に軍人の命を奪っても意味はないと、冷静に判断した。
むしろ軍人としての経験がなかったら、国に裏切られたことで斜陽の一族を尻目に感情は乱れ、無駄な殺生
をしていたかもしれない。


トモモリは2階の角部屋の鍵を開け、中に入る。すると、分厚いカーテンが外の光を遮断し、さほど明るくない
灯りの下、男はソファにじっと座っていた。トモモリが入るとともに、男は顔を上げ、そうして視線を鋭くする。
明らかに友好的ではない。だが、当然トモモリもそんなことなど期待していなかった。

『愚かの極み、だな……ロクに食事も取らぬ軟な有体では、望みの脱出も容易くはないと思うが……?』

男は視線を鋭くしたが、何も言わなかった。

『まあ、別にお前が死んでも、俺は一向に構わないが、な。人質など他にもいるし、それに――当初は、殺す
ことも考えていたのだから』
「……あんた、人間として最低だな」
『クッ……そんな曖昧な概念など、元より興味もないさ』

優雅に向かいのソファに座ったトモモリは、右の手首と足首を鎖で繋がれ、拘束された男を、薄い笑みを浮か
べながら冷やかに見た。

『――で、何か話したいことは、あるか?』
「あんたに話すことなんて、何もない」
『そうか……だが、軍人はそうでなくては、な……大佐殿よりも、気骨があるのではないか……?』
「あんたに兄の何が分かる」
『大佐殿が、俺の部下だったのは、俺が退役するまでの僅か3カ月、か。……とはいえ、前線にいた頃は、寝
食をともにしていたのだから、少しは分かるさ。……優等生的、というか、面白味に欠けた、退屈な男だ』

自分の実兄を愚弄された男はトモモリを無言で睨んだ。だが、トモモリは何の興味も示さなかった。

『……まあ、何も話さずとも、構わないさ。他の者から、話は聞いたからな。……それにしても、お前たちは、
不可解な連中だな……動きも、その動機も、散漫で、無駄が多い……一体、どれ程優秀な男が指揮して
いるのやら……』

実のところ、トモモリが掴まえた4人は、いずれも残念ながら今回の件の中枢にいた訳ではなく、一片に関わっ
ていたに過ぎない。だがそれは、トモモリも当初から予測していたことだった。相手はタイラノフよりも遙かに大き
い。中心に居る人物をそう簡単に掴まえられる訳がないことは、元より承知の上でしたことだ。
そんな中で唯一、多少なりとも多く事実を知っている可能性があるとすれば、この男――今回、恐らくは密
かに動く軍を取り仕切っているのであろう大佐の、実弟だ。
この男の捕獲は、大佐に圧力を掛ける上でも大きかった。この男が持つ重要な情報は、恐らく限られている
だろう。だが、この一連の件については疑問に思うところもあるだけに、少しでも情報は得ておきたい。

『――だが、電話での口ぶりから、大佐殿は、随分とその主に心酔されているようだな……?飼い犬のように、
従順だ』

男のトモモリを見る目がますます嫌忌を帯びる。
恐らくは、男も挑発だとは分かっているだろう。だが、トモモリのゆったりとして抑揚の少ない口調は、時として辛
抱強いはずの者であっても感情を乱す。別に意図的にそういう口調をしている訳ではないが、トモモリはそのこ
とをよく分かっていた。

『違う、とでも?……ああ、無理は、しなくていい。別に、お前の話など、聞こうとも思っていないさ……』
「……そんなに余裕でいられるのも、今のうちだ。あんたは、絶対に捕まる」

僅かに口調が早くなった男に、トモモリは無表情のまま、僅かに肩を竦めた。

『どうだか、な……いずれにしろ、俺の死とお前たちの解放が、同時進行とは、限らないさ。それとも……兄
上の飼い主への忠誠心に感動して、己が犠牲になることも、厭わない、か……?』

男の顔が、怒りで僅かに紅潮する。だが、口は開かなかった。

『俺は、これでもこの国のことを、多少なりとも案じているんだぜ……?こんなに、あからさまに軍人を使うなど、
どう考えても愚策だとは、思わないか……?財閥の問題は、同じ財閥にやらせる、という方が、真実を覆い
隠すには、都合が良かったと思うが』
「……」
『それとも……クッ……元よりお前たち軍人は、捨て駒か?退役したとはいえ、この扱いは、軍部に居た俺と
しても、少々不愉快、だがな……まあ、軍人同士の下らぬ小競り合いという形で、最後には切り捨てるつも
りかもしれないが。愚かで、利己的な飼い主に飼われると、不幸、なことだな……』

トモモリは、まるでひとり言のように呟くと、ソファを立ち、男に背を向ける。
その顔からは、先程まで浮かべていた笑みは消えていた。

『あぁ……俺が、お前であれば、多少なりとも食事は取るが、な。使えぬ軍人など、飼い犬以下の扱いを、
受けかねな――』
「俺たちがただ利用されているだけと思うなっ、俺たちは、甘い政府の連中とは違うんだっ!」

トモモリは、男の言葉に一瞬鋭い視線を見せた。だが、後ろを向いていたから男にはその様子は見えない。
トモモリは、背後の方に僅かに横顔を見せて、さりげなく話を続けた。

『甘い……か。だが、計画自体は、悪くはなかったぜ……?お前たちは、少々杜撰だ』
「ハッ……まだ、終わってはいないぜ」
『そうだな……だが、安心しろ。すぐに終わる』

トモモリは振り返ることなく、落ち着いた様子のまま部屋を出た。扉を閉め、廊下に出たトモモリの顔は、能面
のように表情をなくしていた。
トモモリにしては珍しくも足早に階段を下りると、あとはいつも通りやっておけ、と見張りの男に言い渡し、受け
取ったコートを手に外へ出る。
薄暗い屋内から出たものだから、陽の光が殊更眩しく目に映る。だがトモモリはやや目を細めただけで、すぐに
家の横に停めてある車に乗り込んだ。

最初は挑発し、恐らくは内心感じているであろう不安をさりげなく指摘し、さらには憐憫の情を寄せる。その間、
相手には知っていることを話すよう強要はしない。話すよう脅すなど論外だ。だが一番大切なのは、実は話す
ことを強要しないことではなく、話すことを期待しているという素ぶりを僅かに見せ、2度3度と顔を見せながら
も、逆に相手に一切話をさせない空気を良い機会が来るまでの間、絶えず作っておくことなのだ。
どんな者でも、挑発され、不安要素を指摘されながらもそれを正す機会が満足に与えられないのは案外堪
えるものだ。それはボロを出さない、と強固な決意で口を閉ざす者程、陥りやすい。
1度や2度なら我慢もできよう。だが、それが3度4度と続けばどうなるか。そうでなくとも、トモモリには間接的
でありながら辛辣な物言いと、どんな時でも嫌味な程にゆったり話して人を煽るという、意図しない特技があ
る。

さりげなく口を割らせる方法は、軍人生活で得たものではない。タイラノフ財閥の裏の仕事を通じてだ。
敵対財閥の動向を探ったり、国の意向で密かに武器を売る時の事前調査など、諜報的な仕事も多々あっ
た。だからこそ、対軍人でも効力は十分発揮する。むしろ、多くの軍人を見てきたトモモリには、さほど難しい
真似でもなかった。

男には、うっかりトモモリの知らないことを言ってしまったという自覚があったのか、なかったのか――だが、どんな
些細なことであっても、実際男が口を滑らせた一言は予想以上にトモモリの心に影響を及ぼしていた。





TO THE EPISODE 33



一切ノ無断転写・転載ヲ禁ズ
Copyright(c) Hydri and its licensors. All rights reserved since 2005.

inserted by FC2 system